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「神官長様、一体……どこに行くおつもりなのでしょうか」
リディアを連れたって歩くのはやはり違和感が伴う。
昔は確かにすぐ傍で感じていたはずの温もりも、いつしか失われていった。親の手から子供が離れていくのと同じように。
遠ざかるあの子たちの背中を、いつも、見ているしかなかった。
「神官長様…?」
衣擦れの音さえ耳を突くような気がするのは、神殿内に住み込んでいる人間もまだ眠っている時間だからだ。
気味が悪いほどに静まり返っている。
時々姿を見かけるのは巡回で歩き回っている神殿騎士だけだ。
「……花を手向けに行くんだよ」
質問にははっきりと答えを返さずにリディアの手元に視線を落とせば、昨日手にしていたのと似たような花を握っていた。
昨日彼女の持っていた花が、どこに飾られているのかを知っている。
聖女候補たちが修練を積んでいた場所、つまり、彼女たちが手を繋いで祈りを捧げていた部屋だ。
何もないその部屋の窓辺に、リディアが花を飾っているのを知っていた。
大神殿に来るたびに、新しいものを飾っていたようだ。
一時間も経たない内に、侍女の手によって回収されてしまうにも関わらず。毎回、毎回、同じ場所に花を捧げている。神殿の外で購入した誰もが知っているような値の張る花ではなく、神殿の中庭でそっと咲いては誰にも知られずに枯れていくような野花を。
「歴代の聖女たちも、そこに居るんだ。だから君もいずれ、そこに行くことになるんだろうと思うよ」
ふと足が止まったリディアを振り返る。どこに行こうとしているのか察しがついているのだろう。
おいで、と手招きすれば躊躇うようにして足を進めた。
それを促すように改めて手を差し出せば、その上にそっと小さな手が重ねられる。
彼女が幼い頃は、時々、こうして手を繋いで歩いていた。
こちらを見上げる無垢な瞳は何も変わらない。全てを見透かしているかのような。しかし、何も見ていないような。不思議な目をしていると思っていた。
「……聖女というのは、ある日突然「成る」わけではない」
静かな廊下を辿って、神殿騎士が門番のように佇む扉をいくつもくぐった大神殿の奥の奥。それよりも更に奥の、隠された扉の向こうにそれはある。
急に何を言い出すのかと顔を上げたリディアの背を押すようにして、地の底まで続いているかのような螺旋階段に足を落とした。
「ありとあらゆる事象が複雑に重なり、絡み合い、準備されて、ある日……『聖女という存在』に到達するんだ」
後から考えれば考えるほど、リディアが聖女になる為のお膳立てはされていた気がする。
リディアだけに与えられた特別な目のことや、他の聖女候補が誰一人として助からなかったことも含めて。それは恐らく神の手によるものだったのだ。
だから、例え、リディアが浄化の旅に出ていたとしても――――――。
何らかの力が作用して、彼女には何も起こらなかったかもしれない。
神が全てを見越していたというのなら。神が全てを仕組んだというのなら。彼女は助かったかもしれない。
しかし、全ては憶測にすぎず確証など何一つもない。
神殿の承認が得られなければ聖女召喚はできないだろうと言った殿下に口添えしたのは、この、どうにもならない状況を打開する策が他になかったからに過ぎなかった。
殿下は聖女召喚にあたって『異世界の神に助力を請おうと思っている』と説明した。
それはつまり、こちらの神の力が及ばないということだ。状況を変えるための大きな力が必要だと思っていた私にはこれこそが運命だと思えた。
しかし、我が子が生きるか死ぬかの状況で、冷静な判断ができなかったとも言える。
結局、聖女召喚により、リディアは聖女選定の儀を受けることができなくなったのだから。
私はやはり、どうかしていたのだろう。
聖女候補が十八の年に行われるそれは、一度機会を失うと、もう二度と実行されることはない。
なぜなら、月を見て、日を見て、時間を見て、方角を見て、神が降りるに相応しい日が決められるからだ。それは何年も前から事前に準備されるもので、その日、その時間を逃せば、もう二度と同じ時が巡ってくることはない。
だから、聖女召喚が成功すれば、リディアの聖女選定の儀が見送られるだろうことは念頭にあったのだ。しかし、聖女選定の儀こそが成功するかも分からず。
もしも聖女に選ばれなければ、リディアはそのまま死ぬことになる。それこそが一番、恐ろしいことだった。
一週間に渡って大聖堂に篭り神の声を待つその儀式で、失敗すれば、誰にも知られずにたった一人で逝かせることになる。そんなことが許せるはずもなかった。
何もかもが不確かで、何もかもが曖昧で、明確に示されたものは何もない。
だからこそ、殿下の言葉に従ったのかもしれない。
あの何事にも揺らがない、強すぎるほどの眼差しに縋ってみたかったのだ。
国の至宝と呼ばれ、その一方で神の子と崇められていた彼になら、私には見えないものが見えるのかもしれないと思った。
そのせいで、居場所を失い追い詰められていくリディアを見ることになったわけだが、それでもあの選択が間違っていたとは言い難い。
聞くところによれば、浄化の旅はやはり過酷を極めたのだという。それを乗り越えることができたのは、聖女が異世界からの客人であったからこそだろう。
誰かの手を借りることに躊躇いを覚えない、あの幼い少女だったからこそ無事でいられたのだ。
ただ守られているだけのお姫様だったからこそ、周囲の人間が命がけで守りぬいたのだと言える。
『リディアは、助けを求めることができないのです』と言ったローザは正しい。
助けなんて求めていないように見えるから、手を伸ばすことに躊躇いを覚えさせる。
リディアのことをよく知りもしない人間が同行していただろうあの旅路では、それは命とりになる。
「神官長様、ここは……?」
階段を下って、ただひたすらに降り続けた先にその部屋は隠されている。
見上げるほどに巨大な両開きの扉には魔術がかけられており、中に入ることのできる人間を選り分ける。部屋に入るに相応しい人間かどうか、この扉が見分けるのだ。
「君が知りたがっていただろう、行き先だよ」
「……行き先?」
「あの子たちの、行き先だ」
いつだって、この扉に手を掛けると指先が震えた。
ぐっと体重をかければ、ゆっくりと音もなく開かれていく。それと共に、内部には窓一つないというのに漏れる光が少しずつ強くなる。
明かりもないのに不思議なことだとは思うが、地下にしては湿度を感じないことや清涼な空気が感じられるのはやはり魔術のせいかもしれないと思う。
「―――――ああ、何てこと、」
すぐ傍でリディアの声が震えた。
「何てことなの……っ」
二言目には既に嗚咽が漏れていた。
やっとその明るさに慣れた目でリディアの姿を捉えれば、彼女は膝をついて指先で床をなぞっていた。俯いた顔はどんな表情をしているか分からない。
だが、泣いているのだろう。肩が大きく震えていた。
曲線を描く高い天井には初代聖女様の肖像が描かれ、その天井が続く先に祭壇が置かれている。一見しただけでは、この部屋が何の部屋なのかは分からない。祭壇以外には何も置かれていないのだから。
だが、よく見れば、床一面に敷き詰められた四角い石には文字が刻まれているのが分かる。床だけではなく壁の一部も、同じような四角い石が貴族正しく並んでいる。
―――――その石に刻まれているのは。
「皆、ここに居たのね……?」
入口に一番近いところに嵌っている石に、ローザの名前が刻まれている。視線を動かせば、キリエの名前もすぐに見つけ出すことができた。
歴代の聖女の名が祭壇の下に刻まれているのは先代の神官長に教えられた。
「声が、聞こえるかい?リディア」
細い指先で擦るように何度も何度もローザの名前を確認しているリディアに問えば、ふと顔を上げた彼女は力なく肯いた。
小さな顔は涙で濡れている。
「……私にとっての神は、いつだって、ここにいた」
胸のあたりを強く握り締め、そして、おもむろに半身を前に倒した。
頬が床につくほどに倒れこんで、
「神が道を示すというのなら、私に道を示してくれたのはいつだって……彼女たちでした」
はらはらと落ちる涙が、石に刻まれた名前の上に落ちて弾かれることなく吸い込まれていった。
泣かないでと。悲しまないでと、そんな声が聞こえるようだ。
「私は、とっくに、神の声を聞いていたんですね―――――」
握り締めていた花を捧げるように石の上に置けば、そこはまさしく墓石となる。
この部屋の番人だからこそ、私は先代に墓守と呼ばれたのだろう。
「リディア、君は、君の信じる神を……疑うべきじゃない」
リディアを聖女と定めたのは確かに大神殿であり皇帝陛下だ。そこには様々な意思と思惑と利権が絡んでいる。大神殿と皇宮の駆け引きがなかったとは言えない。
しかし、この世界の神が、真に全てを知っていたというのなら。
リディアが神の選定によるものではなく、他の何かによって聖女になったのだということも神によって示された道筋の一つだったのかもしれない。
だから、リディアは、リディアのままで良いのだろう。
「君が聖女になったのかどうかではなく―――――」
「君が今ここに生きているということが……それだけが重要なことで、それだけが真実なんだ」
浄化の旅を終えたら、黒髪の少女は異世界に還すことになっていた。
しかし結果として、少女はこの世界に留まり続けた。殿下が何を考えていたか、今となっては分からない。あの方がどこまで知っているのかも。
ただ一つ言えるのは、殿下はリディアをないがしろにしていたわけではない。むしろ、全てはリディアの為になされたことだと分かっている。
私たちが話を刷り合わせることなど一生ないだろうし、生まれながらに異なる立ち位置が変わることも道が交わることがない。
神殿と皇宮とは、そういうものであるから。
それでも、殿下はリディアの為に誠意を尽くした。
「家族を作りなさい、リディア。そして、世界の一部になって……ここに帰ってくれば良い」
聖女というのは本来、子供を持つことができない。
表向きには、結婚して子供を産むこともできるとされているが、実際はそうではない。
神の伴侶たる彼女たちは、誰一人として、妊娠することがなかったのだ。だから、彼女たちの実子とされた者たちも全員、養子である。
聖女は、一代限り。
これまではそうだった。しかし、神の選定を受けていないリディアなら、もしかしたら、子供を授かることだってあるだろう。
「……幸せに、なりなさい」
他の聖女候補に報いるとすれば、それしかない。
彼女たちが、まさしく、死ぬほどの想いで願ったのはいつだってリディアの幸福だった。
あの子を助けてあげてと声を上げたローザ。彼女たちの気がかりはそれだけだったのだろう。
「顔を上げて、前を向いて、幸せになることだけに全力を注ぎなさい」
「……っ、」
「生きるというのは、そういうことだと知りなさい」
「……っう、」
「可愛いリディア、可哀想なリディア。君はもう、可哀想なんかじゃない」
可哀想な存在になってはいけないよ、と言えば、リディアは声を上げて泣き出した。
子供みたいに、大声で。子供のときには絶対にしなかったような泣き方で。
抱きしめれば、縋りつくように回された手が背中をきつく握った。
小刻みに震える体が全身で、泣いていた。
―――――もしもこの子が、殿下の毒を浄化したことにより天罰を受けたというのなら。
今度こそ一緒に背負ってみせよう。もう二度と、この手を離したりはしない。
だからどうか、泣き止んで。私の可愛い子。




