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彼女たちが神殿に引き取られたとき、他の神官からよくよく言い聞かされたものだ。
近づきすぎてはならない。情を抱くのはもってのほかだと。
年老いた先人たちは、きっと、聖女候補たちの身に起こる不幸を知っていたのだろう。私はその言葉に肯きながら、本当のところでは、その意味を理解していなかった。
だからこそ、ただ言われるがまま、洗脳も同然の行いをやってのけたのだと言える。
聖女がいかに素晴らしいか、聖女がいかに美しいか、聖女がどれほどに愛されているのか、劇場俳優が覚えたてのセリフを諳んじるかのように教え込んだ。
何度も。
何度も。
それはかつて、己が受けた教育でもあったから。正しいことなのだと信じてもいた。
閉ざされた環境で育ったのは私も同じだ。箱庭の中で教えられることはそう多くない。
善悪さえ定まらない幼く無垢な心に、己の信じる正義を押し付けた。それこそが真実であり、また、事実であると信じて疑わなかった。
その悪質さに、気付きもしなかったのだ。
「私は、聖女選定の儀を受けておりません」
幼い頃のまま、どこか悲哀の滲んだ眼差しをしているリディアがふと、己の手元に視線を落とした。
神殿の中庭に生えていた野草を摘んだらしく、小さくて素朴な花をつけたそれを両手で優しく包み込んでいる。
かつてその庭で、祝詞を口ずさみながら花を摘んでいた少女たちの姿を思い出す。
誰が一番多くの花を摘むのか競争だと笑いながら摘んでいた。何でも遊びにしてしまうのだと感心したものだ。
その姿は本当に楽しそうで、この世の苦しみなど何も知らないとでも言うような無垢さを伴っていた。
その頃の私は。
祈りが、彼女たち自身を痛めつける行為なのだとは知らなかったのだ。だからこそ、そんな風に見えたのかもしれない。
彼女たちの教育は幾人かの神官に分け与えられた仕事で、私たちは情報を共有することが許されなかったから。他の誰かはきっと知っていたのだろうが、私は知らなかった。
いや、知らされなかったと言う方が正しいかもしれない。
聖女候補たちに一番近しい人間だったからこそ、真実は隠されたのだろう。
私が、聖女候補たちの祈りが何たるかを知らされたのは、キリエが倒れたその直後だった。
後悔することさえ、許されない。
何も知らずにいた私は、腕が痛いと泣いたあの子を、励ました。
心配いらないと、その髪を優しく撫で、務めを果たすように言い聞かせたのだ。
そうやって、あの子の最初で最後の弱音を聞き捨てた。
その髪の感触を思い出す度、己の罪を思い知らされる。
キリエは祝詞を覚えるのが一番早かった。記憶力には自信があると幼い顔に満面の笑みを浮かべて、私も誰かの役に立てるんですねと嬉しそうな顔をした。
花を摘むときも、本を読んでいるときも、何か考え事をしている様子のときでさえ、小さく小さく口ずさんでいたその歌が死を呼び込むなどと誰が予想できただろうか。
祈りに願いを込めなければ、さほど肉体は痛まないのだと、後にリディアから聞いた。
だが、その「さほど」の程度がどれくらいのものなのか私には分からない。
時々、思い出したかのように手を握り合っていた彼女たちが、額を寄せ合って痛みに耐えるような顔をしていたのは。
まさしく、本当の痛みを押し殺していたからなのだろう。
「神は、私を、裁くでしょうか」
花を掲げるようにして、腕に刻まれた聖女の証を眺めているリディア。
美しいその文様は神語だと言われているがその意味までは解明されていない。そこに何が書かれているのか分からないのだ。
祝福なのか呪いなのか、それさえも分からなかった。
だから、リディアの問いに返す答えを私は持っていない。
彼女は、聖女選定の儀により正当に選出されたわけでない。
それは先ごろ召喚された異世界からの客人もそうだった。
『異世界の聖女』と呼ばれた彼女が、こちらに招かれてから瞬く間に体調を崩していったのは記憶に新しい。その姿が、なぜか、現在のリディアと重なる。
異世界から聖女を召喚するにあたり、それを、神への冒涜だと進言するものがいた。
殿下は、全く気にも留めていないようだったが、その指摘は間違いではなかったと思っている。
それでも聖女召喚を承認したのは、他に選択肢がなかったからだ。各地で蔓延し始めていた疫病は、一つの国を転覆させるほどの勢いをもっていた。
国境から伝染するように広がったそれは、そこに点在していた村を幾つか滅ぼしたのだ。
そして。病に触発されるように、流通が滞り始めていた。
病に恐れをなした商人たちがこの国に入ることを渋ったのである。物資が入らなければそれを売ることもできず、その内にあらゆるものが品薄状態になるだろうことが予測された。
やがては食料も底をついていただろう。
働き手である国民が寝付いてしまってはどうにもならない。
聖女候補であったリディアにはあれほどの汚染を浄化することはできなかった。
だから、聖女召喚を成し遂げた殿下の功績は大きい。
疫病を治め、聖女が異世界から召喚できるのだということを証明してみせたのだから。
正しいことをしたのだと言える。
だが、間違っていなかったと、断言することはできない。
「……それでも、君のその腕に刻まれた証は本物だよ」
そう言いながらも、どうしても払拭することのできない不安に苛まれる。
もしも間違っていたのだとすれば、一体どこから、何を間違っていたのだろうか。
「なぜ、本物だと言い切れるのですか……?」
神に見初められたわけではないとしたら、リディアは一体、何者に選ばれたのだろうか。
そして、それはどのような影響をもたらすのだろうか。
何一つ、分からない。
だから、じっとこちらを見据えるリディアに返すことのできる言葉は一つだけだ。
「―――――神殿が、そうと決めたのだから。陛下が、それを認めたのだから、」
だから、君は聖女なのだと口にした自分の声がどこか遠くから聞こえる。
*
*
私が神殿に入ったのは、もう数十年も昔のことになる。明確な日付などは覚えておらず、それ以前のことはもはや曖昧で、思い出せることの方が少ない。
ただ、事実として認識しているのは、私にも両親がいたのだということだ。
大神殿に勤める大多数がそうであるように、私の生家も当然、爵位持ちだ。
そもそも、そうでなければ神官長まで上り詰めることはできなかっただろう。少なくとも、大神殿の役職は実家の序列が関係しているのだ。それだけでないことも事実だが、まず、平民出身では役職持ちにはなれない。
私の父親は中位貴族の末端と言える家の嫡男だった。
さして影響力もなく、名前を聞いて初めて思い出す程度の細々と続いてきた弱小貴族だ。だからなのか何なのか、その家の嫡男にも秀でたものはなかったようだ。
しかし、うだつの上がらない優柔不断な男だっただろうことは聞かなくても分かった。
妻が居るにも関わらず、他の女性に手を出して子供を産ませたのだ。そのとき、己の妻が妊娠中だったにも関わらずだ。その事実だけで、どういう人物なのかが推測できる。
結局、何が起こったのかと言えば。
跡目争いを避けるというそれだけの為に息子の一人を神殿に預けたのだということ。
それが私だったというだけのことだ。
正当な順位であれば嫡男であったのは私だ。
だが、父は母ではない女性を愛していた。しかし、妻が居る限り彼女を家に迎えることはできない。
だから、その彼女との間にできた子供を跡継ぎに据えることを決めたのだ。既に、私という存在があったにも関わらず。
「リディア、君に見せたいものがある」
「……見せたい、もの…ですか?」
聖女の部屋の前まで来て、やっと本題に入った。
訝しげな顔をしているリディアを見て、どこか落ち着かない気分になる。
「―――――明日の朝、迎えに来るけれど非公式なものだから、誰にも言ってはいけないよ」
そう告げた私に不思議そうな顔をしながらも、結局、リディアは小さく肯いた。
もしかしたら、この不穏な空気を読み取っているのかもしれない。
「リディア、君は……神の声が、聞こえないと言ったね」
「……はい、」
「…それが、何故なのか知りたいのかい?」
「そう、かもしれません……」
「私にはそれに答えることができないけれど、答えを探る手がかりになるかもしれないよ」
「……、」
私の言葉を聞いて、小さく揺らぐその眼差し。
彼女が幼いことには到底見られなかった表情の変化に、また、じわりと胸の奥に灯る感情がある。
それは決して心地の悪いものではなかったが、気持ちの良いものでもなかった。
この表情を引き出したのは私ではない。それが酷く虚しいものに思えるし、どうしても割り切れない部分もある。
リディアは昔から表情の読めない子供だった。
確かに笑っていたと思うのに、次の瞬間には表情を失くしていることも少なくなかった。他の聖女候補と過ごしているときはそこまでではなかったと認識しているが、幼子とは思えないその表情は、少なくとも周囲の人間を戸惑わせていた。
しかし、どうかしたのかと声を掛けたところで、リディア自身には何のことか分からない。不思議そうにその小さな顔を傾ぐだけだった。
他の聖女候補たちがリディアに心を砕いていたのは、そういう一面を案じていたからだろう。
彼女たちの育ってきた環境がそうさせるのか。
年下を慈しむように教育でもされていたのか、リディアに対しては非常に過保護であったし、まるで壊れ物でも扱うかのように大事にしていた。
小さなリディアを中心に、少女たちが手を繋いで囲い込んでいたのだ。
誰にも傷つけられないように。
誰も近づいて来られないように。決して円から外に出さなかった。
私は、それが間違っていたとは思わない。
リディアは幼かったし、庇護されるべき理由はそれだけで十分だった。
そうでもしなければ、守れないものがあったのだ。大神殿というのは、そういうところだった。
しかし、そうすることによって、リディアはますます内側に閉じ篭り、表情に心を映さなくなった。
本来ならここで苦言を呈すべきだったのだろうが、私にはどうしてもできなかった。彼女たちの輪を乱したくなかったのだ。
それに、本当の意味で彼女たちを理解できない限り、私の言葉など届きはしないだろうことを知っていた。
聖女候補たち全身の境遇を知っていたわけではないが、想像を絶するものだということは何となく理解できた。
爵位を持つ家の出である私や他の神官、もしくは侍女、侍従が経験したことのないような生活を送っていたのだろうと、察するのは難しくない。
自分にはどうしようもない、と自身に言い聞かせていた。
そうでもしなければ、どうにもやりきれなかったのだ。
己が万能だなどとは思っていないが、神殿で寝食を共にしている幼子さえ救うことができないというのは、納得のできるものではなかった。
それこそが傲慢だと言えるのだろうが、何もできないと知りながら無力だとは思いたくなかった。
家名を奪われ捨てられるように預けられた神殿で、生きていることに意義を感じられなかった己に与えられたもの。それが彼女たちであった。
だからこそ、教育するのが役割であれば、それを果たすべきだと信じていたのだ。
しかし、そういった信念のようなものを、リディアは簡単に打ち砕いたのである。
澄んだ瞳は無垢な色を浮かべていて美しかったけれど、それは磨く前の宝石に似ていた。
つまり、石ころと同じだ。
輝きのない光は、鈍く暗い色を伴って水底を見ていた。深く、深く、潜っていくように。その視線の先を知っているのは、聖女候補たちだけだっただろう。
同じ場所に立っているからこそ見えたのだ。
神殿という閉塞した世界で、私もそれなりの暗部を見てきたはずだった。しかし、そんなものでは到底追いつかない。
だからこそ、私が彼女にしてやれることなど初めからなかったのだ。
どの瞬間も、それを思い知らされているようだった。
あの子が幼い頃から、ずっと見てきたはずなのに決して分かり合えない。
ふとした瞬間に、キリエが聖堂で倒れたときの、リディアの悲鳴を思い出す。
日常の隙間を縫うようにその声が聞こえるのだ。だから結局、飽くことなく何度も、思い出すことになった。
誰かの悲鳴を、あれほどに間近で聞いたのは初めてだった。
両手は確かに口元を押さえていて、声が出ないように防ごうとしていたように思う。しかし、両手の端から、指の隙間から容赦なく零れていく。
抑えようとしても抑えられない。自分でも制御できない様子だった。
何度も何度も声を掛けて、やっと正気に返ったことを覚えている。
震える両手を握り締めれば、キリエが壊れたとうわ言のように口にした。
―――――そのとき、既にキリエは運び出されていて。
私はあの子の遺体に対面しただけだ。
眠っているような顔とはよく言ったもので、触れれば体温があり声を掛ければ起き出しそうだった。
その頬に触れながら、何でこんなことにと頭の中ではぐるぐると同じ言葉が逡巡した。
キリエは、体が痛いと言いながら、ただの一度も儀式を休まなかった。
医務室に見舞いに行けば、『ただの筋肉痛だったみたいです』と笑う。
大丈夫ですと何度も繰り返した。今思えば、あれは、自分に言い聞かせようとしていたのだと分かる。
『……キリエはもう駄目だ』
そう言った自分の声が、これまで以上に白々しく冷淡なものとして耳に響いた。
駄目なのだと言い聞かせなければ、その体を揺さぶって「早く起きなさい」と声を掛けそうだった。
『ごめんなさい、神官長様。居眠りしてしまいました』そんな風に言って笑うキリエの顔まで想像できた。だから、振り切るように『キリエは、もう駄目だ』と、もう一度口にした。
私の横に居たリディアは、キリエがもう助からないのだと知って、青褪めた小さな顔をこちらに向けた。
大きく息を飲んで。
大きく表情を歪めて。
だから、口を開けばきっと泣き出すのだろうと思った。
しかし、そうはならなかった。
彼女は目尻を赤く染めて唇を噛み、両手をきつく握り締めたまま一つも声を上げなかった。
可哀想だった。
可哀想で仕方なく、ただ、それだけしか言葉にできなかった。
『可哀想にね』と、他人事のように呟いた私の声にリディアが打ちのめされる。
少女が青冷めた顔をますます白くして、そこに立っているのが不思議なほどだった。意識を失ってしまった方がきっと楽だっただろうに、リディアは、立っていた。
立って、キリエの遺体を見つめていた。
その夕日色の瞳に影が差していく。陽が落ちていくように、ゆっくりと、夜に飲まれていった。
可哀想だ。
こんなのは、あまりにも。




