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「お前が次の―――――か」
その言葉の意味を、もっとよく考えるべきだった。
日常生活において誰かの言葉を聞き零すというのはよくあることだが、大抵の場合、前後の会話文からその空白を埋めて補完することができる。だから、意味が通っていれば単語を聞き逃したことなど差ほども気にならないだろう。
一言一句を完全に聞き取っている人間の方が少ないかもしれない。
だが、ふとした瞬間に、聞き零したはずの言葉がぽつりと脳の真髄に蘇ってくることがある。
そのときはなぜか、その言葉の意味も語感もはっきりと読み取ることができて、そういう言葉ほどなぜか重要な意味を持つことが多い。
ああ、あのとき彼は、あんなことを言っていたのだと。
*
*
「神官長様は……神の声をお聞きになられたことがありますか、」
定例の祈りの為に、数日間だけ大神殿に戻ってきたリディアがぽつりと零した。
普段は、神殿の外にあるアルファドと構えた屋敷で生活しているので彼女の姿を見ること自体が久方ぶりだ。
定例の儀式には幾人かの神官が参加することになっているが、「長」である私はそこに含まれないことのほうが多い。
大抵の場合、儀式の始まりと終わりの報告は受けるのだが、内容に関与することはほとんど聞かない。
それはまた、別の神官が役目を負っている。
その為、行き違いが生じてしまい瀕死のリディアを祈りに向かわせる羽目になったのだ。
あの出来事は教訓として刻まれているが、結局のところ、他の神官たちの行いを修正するまでには至らなかった。
苦言を呈すという意味あいでなら口出しすることはできるが、彼らの行動を制限するまでの力はない。
それに、それぞれが負っている役目を奪うことはできない。
神官長といえど、そこまでの権限を与えられているわけではないからだ。
神殿において誰かに何かを強制するためには、議会で審議する必要がある。
神殿が、長い歴史の中で瓦解することなくここまで続いているのは「個人」に力を与えなかったからだろう。組織化されているがゆえに、一存で何かができるような特別な人間を作らない。
組織の中で、それぞれの役割を担う人間が貴族だからかもしれないが、傲慢でありながらも、他人の領分を侵すことには酷い嫌悪感を示す。
与えられた領地を治めることに全力を尽くすように、与えられた仕事以上のことをしないのは暗黙の了解でもあった。
そういった様々な事情を鑑みれば、神殿が聖女を「財産」として見ているのが分かる。
その行動を制限し、強要し、従わなければ排除する。
それはまさしく、持ち物であり共有財産であるということだった。
「……なぜ、そんなことが気になるんだい?」
リディアの顔が見たくなって、聖女と面会ができるよう神殿に申請を出したが通らなかった。
『多忙につき…』というのが体のいい断り文句だということを知っている。
神殿は、聖女候補たちの世話役だった私と彼女が個人的に親しくするのを防ぎたいのだろう。
それは、聖女が誰か一人に傾倒することを防ぐという意味も兼ねている。一見、やりすぎとも言える行いではあるが、頭から間違っていると否定することはできない。
実際、数代前の聖女が世話役だった神官と一騒動起こしているのだ。謀反を起こしたのか、それとも駆け落ちでもしようとしたのか、もしくは別の理由か。
詳細は秘匿されているが、一つの教訓として伝えられている。
聖女に、特別な人間を作らない。それが神殿の総意である。
唯一の例外が、聖女の夫だ。
だからこそ、神殿はリディアに殿下の騎士以外の人間を宛がおうとした。皇宮側の人間を聖女の夫とするのは神殿にとって都合の良いこととは言えない。もっと神殿寄りの人間、すなわち大神官や枢機卿の縁者をその相手に据えようとしていたことを知っている。
聖女といえど人間であるから家族を作る猶予を与えると、口ではそんなことを言いながら、彼女を傀儡とするための策を講じていたのだ。
虫唾が走るとは、このことを言うのだろう。
だが、この件に関してもやはり私自身は蚊帳の外であった。できたことと言えば、殿下に、リディアと騎士殿の婚姻を急ぐように耳打ちすることくらいだった。
「神の声とは、一体、どういうものなのでしょうか」
ぽつりぽつりと落ちる雨音に似たリディアの声が、冷たい廊下に転がる。
耳を澄ましていなければ聞こえないほどの、しかし、耳にすれば気になってしょうがない不思議な声音をしている。これこそが聖女特有のものと言えるかもしれない。
面会の許可が下りなかった為、それならばと偶然を装って彼女を待ち伏せた。
本日の祈りを終えたリディアが「聖女の部屋」に戻るまでの間、少しでも話ができれば良いと思っていたのだ。
本来なら、偶然でも顔を合わせることが難しい立場にある。
私が神官長であり、リディアが聖女である限り。
皇子の毒を浄化した後、療養の為に神殿に戻っていた彼女に付きっ切りで看病ができたのは非常事態であったからこそと言える。
神殿側としては、私以外の誰かにその役を任せたかったようだが、渋る上役に強く申し立てた。
これが最初で最後だと、頭を下げたのだ。
あんなことはそうそう起こらない。……そうだと、思いたい。
「私は、神の声を聞いたことがありません」
磨きぬかれた床に二人分の影が落ちている。
歩くときに足音がしないのは訓練の賜物であるが、リディアに限ってはそれだけではない気がする。単純に、体重が軽いのだ。
殿下の毒を抜いて、アルファドの命令違反による謹慎が終わってから完全回復に至るまでは随分時間がかかった。今でも時々、気分が悪そうに見える。
その横顔が青冷めて見えるのは気のせいではないだろう。
つい先日は、騎士殿と新婚旅行なるものに出かけていたようだが、戻ってきたときには立ち上がることさえできなくなっていた。
―――――なぜ、これほどまでに体調不良が続くのか。
念のためにと、神殿医師にリディアを診察させたが、もちろん病からくるものではなかった。気鬱というわけでもないだろう。
それならやはり、理由として考えられるのは、殿下の毒を浄化させたことによる代償だ。
リディアの祈りが、殿下の体内に回った毒をどのように浄化したのか分からないが、人の命を救ったことによる肉体への負荷は想像していたよりもずっと重かったのだろう。
殿下は恐らくあのとき死に掛けていたに違いない。つまり、死にゆく体を無理やりこちら側に留まらせたことになる。神の御業と言えばそれまでだが、リディアの不調を考えればそれだけとは考えにくい。
これは、いわば、天罰ではないだろうか。
神の領域を犯した。ただの人間であるはずの少女が。聖女という名のただの人間が。
さっと首の後ろを撫でた冷たい風を振り仰ぐように頭を動かす。
振り返れば、少し後ろを歩いていたリディアは不思議そうな顔をするだけだ。己の置かれている状況に、何も思っていないわけではないはず。
だが、彼女は肉体の痛みにも体調不良にも慣れてしまっているところがある。
聖女候補だったときの名残と言って良い。いや、むしろ悪癖と言うべきか。どれほど辛く苦しかろうと、それを当然だと思っている節がある。だからこそ、血の気の失せた顔をしていたところでリディアがそれを実感しているかどうかは怪しいところではある。
私が最も懸念しているのは、彼女が既に多くのことを諦めているということだ。
悩んで、苦しんで、考えあぐねて、現状を打破しようとしたところで、どうにもならないことばかりが起こる。
そして、それらは全て、彼女の小さな手では受け止めきれずに零れていった。
そういったありとあらゆる出来事が、彼女に諦念を与えてしまったのだ。
「聖女選定の儀では、神の声が聞こえるのだと……」
リディアは言い澱んでいるかのように声を潜めて、言葉尻を濁した。
はっきりとは言いたくない。
だけど、言わずにはいられない。
それはまるで、罪の告白でもするかのような、暗い声だった。
「神によって、聖女は選定されるのだと……聞きました」
そうだ。
それはかつて、私がリディアたち聖女候補に言って聞かせた話だ。まるで童話でも読み聞かせるように、聖女選定の儀に関する伝承を少女たちに教えた。
就寝前に聞かせるその話は、子守唄代わりで。
同じ話を何度も何度も、繰り返した。彼女たちは飽きもせず、その目をきらきらと輝かせて、いつか自分たちも伝説になるのだと笑っていた。
等間隔に並んだベッドにできた小さな山を眺めながら語った夜のことを忘れたことはない。
あの子達は、シミのついていないベッドカバーも、解れのないシーツも、当て布のされていない枕も、何もかもが始めてだと喜んでいた。
はしゃいでいた幼い声と、私が話している最中でも堪えきれずにモゾモゾと動く姿。
何とも可愛らしく笑みが零れた。大人しくしなさいと諌めながらも心臓の奥にじわりと滲む感情を抑えることができなかった。
リディアは確か、一番年の離れているローザのベッドに潜り込んでこちらを見上げていたはずだ。
ローザは嫌な顔一つせずに、その幼い手で、もっと小さなリディアの背を撫でるようにしてあやしていた。寄り添うに眠りについたその姿は小動物のようで、いつまでも眺めていても飽きなくて。
こんなに温かいベッドで眠るのは初めてだと僅かに頬を紅潮させて、小さな出窓から差し込む月明かりにその大きな瞳を輝かせていた。
そんな姿を一番近くで見ていた。
世話人として聖女候補にできたことは少なかったけれど、あれもつまり仕事の一つだったのである。
しかし、その内に、話の内容を覚えた年上の聖女候補が私の代わりを担うようになり。私はやがて物語を読み聞かせる役目を終えた。
そうやって、あの子達は、身を寄せ合うようにして生きていたのだ。
家族から、故郷から引き離され、貴族ばかりが勤める神殿でどれほど肩身の狭い思いをしてきただろう。
だからこそ、手を繋ぎ、顔を寄せ合い、同じ歌を口ずさみ、体温を分け合うようにしてお互いを守りあっていた。寂しさの募るその心は、他の誰にも補うことができなかったのだろう。
神殿という特殊な環境の中で、信頼できる人間を見分けるのは難しい。
彼女たちは、自分たち以外の誰も信用しないということを誓っていたようだった。
―――――かくゆう私も。
彼女たち以外の人間に数えられていた。
聖女候補の教育全般を担っていたというのに、線引きされているかのように明確に拒絶されていたのだ。
だが、信頼に値しない存在だということを、自分自身が一番よく理解している。




