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「アルファドさん……! アルファドさん……!」
聖女の様子がおかしいと気付いたのは誰だっただろう。
初めは街に下りるだけで満足していた少女は、ある夫婦に出会ったことで、そこに留まりたいと願い出るようになった。
もちろん、そんなことが許されるはずはない。
彼女は聖女であり、大神殿の「持ち物」である。
異世界から召喚された彼女は、これまでの聖女とは違い、死ぬまでその身を神殿に縛られることになる。
何せ、異世界からの聖女召喚は初めてのことなのだ。いつ、彼女が消えてしまうとも限らない。
そんな不安定な存在を神殿が野放しにしておくとは思えない。
結婚はできるし、神殿が許せば子供を持つことも可能だ。望めば街にも下りられる。ただ、彼女が帰る場所は神殿以外には有り得ない。
哀れだとは思う。同情する余地もある。
だが、彼女の存在がリディアを救うというのなら、俺はあの幼い聖女を見捨てるだろう。
そんな俺のどうしようもない性根に気付いているのかいないのか、聖女様は縋るように俺の名を呼び、助けを求める。
―――――殿下に聖女の楔となるように命を受けた。
受け入れざるを得ない状況だったとは言え、肯いたのは他でもない自分自身だ。
とはいえ、俺は事態を甘く見ていたのだろう。
最近は、少女の黒い瞳が執着に塗れた色を隠すこともなく俺の姿を捉えたときに、体の底から沸いてくる嫌悪感を抑えることができなくなっている。
聖女は街に下りる度、人に酔ったのだと立ち上がることが困難になった。神殿に戻れば枕から顔が上がらず、時には発熱するくらいだ。
殿下は「もしかしたら彼女は穢れに弱いのかもしれないね」と眉を寄せたが、各地を浄化に回っていたときは、そんなことはなかった。彼女は同行した護衛たちが肝を冷やすほどに闊達であり、闇雲に動き回る彼女を追うのが大変だったほどだ。
それを証明するかのように、今もなお臥せっている聖女を診察した神殿お抱えの医師によれば、肉体的には問題なく、やはり精神的なものが影響していると言う。
聖女というのは本来、他の人間よりも穢れに強いものだ。そうでなければ、汚染された土地で長時間の浄化などできはしない。精神的なものが作用しているというのであればそうなのだろう。
しかし、殿下の言っていることも無視できない。
彼女が真実、穢れに弱いというのであれば、浄化の旅であれほど活発だったのはただ単にこちらに召喚されてからの日が浅かったからだと考えられる。
そういった全てのことを踏まえて今後のことを考えれば。
非常に厄介なことになることが目に見えている。彼女はこれから、ますます体調を崩すことが多くなるだろう。
リディアはこれからも聖女様の代わりとして駆り出されることになると思いますよ、と言った神官長の声が蘇った。
そうならないようにするには、聖女が街に下りる回数を減らすだけで良い。だが、精神的に追い込まれているという彼女に息抜きをさせることも必要だ。
市井の夫婦が営む定食屋が、彼女にとっての安息の地だというのは分かっている。明るく快活な彼らは心底、聖女様のことを可愛いと思っているようだった。それは、神殿に籍を置く人間とは明らかに違う感情だ。
崇拝しているわけでも尊敬しているわけでもなく、ただ慈しんでいる。
その見返りを求めない無償の愛が、まさしく彼女の求めているものなのだろう。
大神殿でそういった優しさを得るには、彼女は「聖女」でなければならない。少なくとも本人はそう感じている。だからこそ、役目を果たすことに戸惑いを覚えるのだろう。
務めを果たさなければ何一つ得られないというのは、彼女くらいの年頃には理解しがたいことなのかもしれない。特に、異世界のしきたりでは、子供というのは無条件に庇護されるものであるらしいから、受け入れることができないのにも納得がいく。
時間が経過するほどに哀愁の念が強くなっているのだろう。
しかし、大神殿の人間の多くが聖女の望みを出来うる限り叶えたいと思っており、彼らは、いつだってそのために最善を尽くそうとしている。
それに気づかないのは、彼女が愚かなのか。それとも。
『……魅了の一種なのかもしれないなぁ。召喚の際にね、いくつかの条件付けをしたんだよ』
神官長は、聖女は無条件に誰からも愛されるわけではないと言っていた。そのことを殿下に伝えれば、さして驚いた風でもなく淡々と返される。
『この世界に愛される人間であること。さすがに、その相貌や体格、性格までは指定できなかったけれど。彼女が幼いのは、そのせいかもしれないね』
庇護欲を誘う人間であれば、無闇に傷つけられることはない。傷を負う前に誰かが彼女を庇うからだ。まさしく、幼子のような人間が召喚されるようになっていたのだろう。
そんな少女は、自分が誰かに庇われていることにさえ気付かない。
自分が何を盾にしてそこに立っているのか、ほんの少しも分かっていないのだ。
「……アルファドさん……!」
ぼんやりと考え事をしながら歩いていると、少女の自分を求める声が、追い縋るように背後から迫る。彼女の精神をそのまま映し出したかのように、語尾が震えているのが分かった。
いつだってその声に答えられるようにしてきた。それが己の役目だと理解しているからだ。
けれど。
聖女が体調を崩し前後不覚になる度に駆り出されるリディアの姿を見ていれば、ただ甘やかすだけという行為さえ難しくなってくる。
優しくすればするほど、聖女は幼さを増していく。その振る舞いによって無条件に大事にされると知っているからだ。幼さとしたたかを持つ、少女のような「女」だ。
彼女に仕える人間は、それさえも愛しく思うようだから本当に救いようがない。
『魅了と言っても、魔法というほど強力ではないからね……人によっては作用しないんじゃないかな。例えば、そう。僕や君や……神官長もそうなのかな……?』
あの黒い瞳を魅力的に思う人間はいるのだろう。
だが、黒檀に似た鈍い光を放つそれは、急激にかつての煌きを失いつつある。
その退廃的な様子さえ、人々は、美しいと評価するのだ。
纏わりつくような甲高い声から逃れるように神殿の中を彷徨っていれば前方に見える華奢な背中。
ほとんど壁にもたれるようにして、胸の前で両手を組んでいるのか体が前方に傾いでいるのが分かる。
「……リディア?」
廊下の隅で暗がりに紛れるようにして立っていながら、その燃えるような髪色は否応なしに目立つ。いや、そうだと思うのは、俺がいつだって彼女を捜しているからか。
声を掛ければ、背中がぴくりと揺れて確かに俺の声に反応したと思うのに、なかなかこちらを見ない。
じれったく思って「どうした、リディア」と急かすような声を出してしまう。
すると今度は微動だにせず、ただ俯いて反応を示さない。
その人間みのない動作に何だか悪寒が走って、もう一度「リディア」とその名を呼んだ。
体格だけで言えば聖女の方がずっと小さいというのに、その背中はリディアのほうがずっと頼りない。
前から細いとは思っていたが、ますます体重を減らしているように見える。
壁タイルの目地をなぞるように握り締められた手の甲に浮いた細い骨が、皮を突き破りそうだ。
回り込んで様子を伺おうとすれば「……聖女様はご一緒ではないのですか……?」というか細い声。そのあまりに弱々しい声に足を撫でられたような嫌な感じに知らず内に震えていた。
「そんなことは良いから、顔を上げるんだ」
そう言った自分の声が、揺れていなかったことが不思議なほどだ。
声を掛けるだけではどうにも我慢しきれずに、リディアの痩せてしまった頬を撫で上げるようにして顔を上げさせれば、指先から伝わるはずの体温がやけに低いことに気付いた。
かちりと音をたてるようにしてぶつかった視線の先には、真っ白に色を失った小さな顔がある。
一瞬声を失ってから、どうしたんだと、ありきたりな問いを口にした。
聖女の代わりに祈りを捧げているからだ。
もっと早くに様子を見に来るはずだった。
聖女の部屋ですれ違ったリディアは、確かに様子がおかしかった。
だが、日々不安定さを増していく聖女は、俺の姿を見れば当たり前のように手を伸ばしてきて離さない。
その幼子のような手を取って、宥めて、聖女の仕事をするように促すのは他でもない俺の仕事だ。
『こんな誰も知らない世界で、与えられたのは祈るということだけ』
そう口にする聖女は、己の価値が分かっていないし、与えられた仕事の意味を理解しきれていない。いくら言葉で説明しても、生まれ育った場所で培った価値観というのは覆すのが難しい。
少女を守れと言われた。この世界に繋ぎとめろと。
「……アルファドさん!アルファドさん!」
なのに、ほとんど錯乱しているかのように声を張る聖女に苛立ちを抑えることができない。
無邪気に伸ばされたその手を、衝動的に振り払いそうになる。
本当は一番に優先したいものがあるのに、この手は、それを守る為にあるわけじゃない。
「……行ってください」と、視線を落として小刻みに背筋を震わせるリディアを前にしていれば、頭の中が沸騰していくような錯覚に陥る。
騎士になる為に生まれてきたような人間だと評価されるように、息を深く深く飲み込めば、感情を抑えることは容易かった。これまでは確かにそうだったのだ。
しかし、実際は、全てのことに対して冷静に対処するなど不可能だ。
医務室に行こうという提案はすげなく却下され、あくまでも聖女を優先しようとするリディアに怒りのようなものさえこみ上げてくる。
なぜ自分をもっと大事にしないのだと理不尽な言葉をぶつけてしまいそうになるのだ。
こうなったのは、彼女のせいではないのに。
「君は本当にそれで良いのか?」と問えば、知らず内に彼女の指を掴んでいた手を払われる。
邪険にされていると知っても、それでも、彼女を追及するような言葉を止めることができない。
「君が大切だ」
「この世界の何よりも大事だ」
「……だから、あきらめないでくれないか」
想いを伝えるというのは、なぜこれほどに難しいのだろう。
大切だとはっきり言葉にしているのに、この想いが全部伝わっているとは思えない。
痙攣しているかのような速さで心臓が鼓動を打つのは、彼女の前に立つ自分が正気を失っているからだ。戦いの場においては決して失うことのない自我を、意思を、志を、彼女の前ではこうも容易く崩壊させてしまう。
「―――――俺を、望むことを、あきらめないでくれ」
ほとんど祈るような心境だった。
噛み締めるように紡いだ言葉が己の首を絞めているようも思える。
リディアは俺に恋愛感情を抱いているわけではない。初めからそれを知っていた。
だからこそ強引に、婚約者という立場をもぎ取ったのだ。
彼女の息が触れる距離まで近づくことを許されて、その目の底に沈む、量ることの出来ない絶望に気付く。
強烈なほどの飢餓感が滲むその眼差しに、悲鳴を聞いた気がした。
『寂しい、辛い、悲しい、どうして、何で、誰か、誰か、誰か、』
決して声に出されることはないその叫び。
だから、優しい振りをして紳士を装い、彼女の弱みに付け込んだ。
水底に溺れていくような彼女はもがき苦しみ、迫り来る水の勢いに視界を奪われながら、誰とも知れない手を掴もうとしていた。
手を差し伸べれば良いだけだったのだ。
思惑通り、彼女の心はこちらに傾きだしていた。
本当は誰でも良かったのだろう。
与えられたのが俺でなくても、彼女は受け入れたはずだ。
そして、その、俺ではない別の誰かに心を傾けたに違いない。
「リディア、君が望んでくれるなら……」
婚約者の地位を失って、彼女の傍に居ることもできないのに、彼女を望む心を捨てることができない。
そしてまた、リディアにも、自分を望んで欲しいと思う。
青冷めたその顔を見ながら、そんなことを要求する自分はどうかしているのだろう。
だが、彼女がもしも心底俺を望んでくれるのであれば、何を犠牲にしても良いと思える。
殿下の指摘通り、リディアを連れ出すことにしたとしても神殿内にくもの巣のように張り巡らされた結界をすり抜けることはできない。
剣においては負け知らずだと言われているが、それはあくまでも一対一の戦闘においてのこと。
自分が世界最強などではないことを知っている。
魔獣の群れに放り込まれれば、ひとたまりもない。
それに、聖女の代役として神殿に留め置かれている彼女を無断で連れ出すことは、殿下を裏切るだけに留まらず、神殿と国、皇家に背くことになる。
すなわち反逆罪に問われるほどの事態であり、一族郎党、極刑に処される可能性がある。
彼女だけを選ぶということは、そういうことなのだ。
―――――だが、しないとは言い切れない。
「リディア、」答えを求めるように彼女の顔を覗き込めば、びくりと身を震わせる。
その怯えを違うことなく読み取って、すっと、血の気が引くのを感じた。今自分が、何を口走ってしまったのかが理解できない。
絶対に口にしてはならないはずの言葉だった。
今更何をと罵られてもおかしくないほどの、自分本位であまりに身勝手な言い草だ。
だからこそ、リディアはその目ではっきりと拒絶を示している。
「―――――すまない」
最終的に絞りだすことができたのは、その一言だけだ。
この場は一旦引かなければ、次に何を言ってしまうか分からない。
奇妙なほどに静けさを取り戻した鼓動に足を震わせながらも、そうと気付かれないように踵を返した。
彼女は望んでいないのだ。
少しも、俺を望んでいない。
その事実に傷めつけられる。
足が感覚を失ったかのような呆然自失の状態で、背後から現れた異世界の聖女に上半身を拘束される。
腹の辺りに回されたその細い腕を引き剥がしたい衝動に、ぐっと奥歯を噛み締めて堪えた。
浅くなった息で、冷えていく頭を軽く振り意識を現実に引き戻す。
「チヨリ、どうしましたか?」
優しく優しく、諭すように呼びかけて指で聖女の黒い髪を梳いた。
触れたいと思っていたあの赤い髪にやっと触れることができたのは、婚約を解消した後だった。
何もかもが、後手に回る。
これでは駄目だ、これでは何も守れない。
何を犠牲にしても構わないと、そう思いながら、完全に捨て去ることのできない忠義に焦燥だけが募る。




