17
「一人の人間にできることなんて高が知れている。私にできたのはあれが精一杯だった」
「だから、あの大聖堂で君が意識を失いそのまま目覚めないなんてことは思いもしなかったし、ましては君が聖女として覚醒するだなんてことは予想もしていなかったよ」と神官長は薄く笑んだ。
懇切丁寧に全ての出来事を説明してくれたのだとは思っていない。
私が思っている以上に隠されている事実というのが存在するのだろう。
だけど、先ほど聖女様の姿を見れば、何も知らないというのは罪なのだということをまざまざと思い知らされる。
「……なぜ、教えてくださらなかったのですか―――――?」
詰るような声になってしまい、はっと息を呑む。
その問いに答えたのは、殿下だった。
「……リディアにはね、知らないでいて欲しかった。君には憎しみに触れてほしくない」と暗い眼差しをする。
確か、以前も同じようなことを言っていた。
『誰も憎まなくても良い、誰も恨まなくても良い、そんな人生を君に与えたかった』と。そんなことを言うこの方は、時々、がらんどうを覗き込んでいるかのような顔をする。
真っ暗で深い穴の底には一体、何があるのだろう。
「聖女は……いや、もう聖女ではないが。彼女は聖女という存在そのものがよく分かっていなかった。だからこそ聖女という存在がどれほど重要なものなのか理解しきれずにいた」
しかし、それと同時に聖女の力に固執してもいたのだと、どこか遠い目をするのはアルファド様だ。
彼が一番、聖女様の傍にいた。同じ時を過ごし、それと同時にたくさんの言葉を交わしただろう。お互いをよく理解しているに違いない。
そう思うと、なぜか胸の中に靄のような霧のような正体の掴めない感情が広がっていく気がした。
その言い表せない感情の名前を思い浮かべようとするのが、ただちに霧散してしまう。
「しかし、まさかあのような騒動を起こすとは思わなかったね」
心底、困り果てたという顔で首を傾いだ殿下が「記憶を消すしかないのかなぁ」とぞっとするようなことを口にした。
本気なのか冗談なのか。その藍玉の瞳からは伺い知ることができない。
「……本当に、還す方法はないのですか?」
そもそも彼女をこの国に召喚したのは殿下である。
ところが殿下は、ただ首を傾ぐに留まった。肯定も否定もしないのは、まさしく私が言った通りだからだ。
「今のところはね。でも、まぁ…このままにしておくのはさすがに忍びないからねぇ」と、背もたれに半身を預けて天井を仰ぐ貴き人。
本当に忍びないと思っているのかどうかは分からない。皇族と、一般民衆でしかない私たちの間に立ちはだかる壁はとんでもなく高い。
殿下の見ている景色は私には当然見えないし、私が見ているものも殿下には見えないだろう。
―――――ずるい、と呟いた聖女様。
あの様子であれば、もしかしたら、アルファド様と私が再び婚約者となったことを耳にしていたのかもしれない。それともただ単に、私が聖女に納まったことを言っているのか。
聖女様はいつだって温かみのある眼差しをしていた。
各地を浄化して回る旅はやはり過酷なものだったと聞くが、彼女はそれを特別大変なことだったとは捉えていなかったようだ。
口では「大変だった」とは言っていた。だけど、その次には必ずこう続いた。
『皆さんが居てくださったから……耐えられたんです』と。
旅路を懐かしむように愛おしむように笑った彼女の顔をよく覚えている。その中にはきっとアルファド様が含まれていただろう。また、彼の存在が一番大きかっただろうことはよく分かっている。
事実として、彼女はアルファド様に恋をして、いまだ、その心は消えていない。
だからこそ、あんな風に暴走したのだと思う。
彼女の握ったガラスが、真実、誰を狙っていたのかは分からない。
私だと考えるのが妥当なのかもしれないが、きっと彼女には周囲の人間全てが敵に見えているはずだ。
自分を家族から、故郷から、あるいは友人やそのほか全てから奪い去った残酷な人間だと。そう思っているに違いない。
実際、そうだから。
だけど、ほんの少し前まで。
彼女が立っている場所にいたのは私だ。
全てを奪われ、何もかも失くし、生きる希望などどこにもなく。呼吸をすることさえ耐え難かった。
聖女となった今でさえ、それら全てを取り戻したとは思っていない。失くしたものの方が圧倒的に多く、それらは二度と還らない。
彼女が奪ったわけじゃないし、彼女のせいでもない。
彼女が現れるよりもずっと前から私は少しずつ何かを失い続けていたのだ。そんな私に投げつけられたあの言葉。
……ずるい?
到底、受け入れることはできないが否定することもできない。彼女の目には私が、全てを持っているように見えるのだろう。立場が違うからこそ、相手が見えている景色は見えないし感じていることも分からない。
だから、彼女が今置かれている状況だってこのままにしておいて良いとは思っていない。
私が聖女となった今、神の助力を乞えるのは私だけだろう。
だとすれば、もしかしたら祈りによって何かできるかもしれない―――――。
「リディア、その顔」
「……え?」
「何かよくないことを考えているね」と、殿下が極めて厳しい顔をした。
先ほどまでの脱力したような態勢から、僅かに前のめりになって私の顔を下から覗き込む。それに合わせるように神官長とアルファド様の目線がこちらに向いていた。
全員が何か言いたげな顔をしている。
けれどこういう状況でさえ、殿下が微笑みを湛えていないのは珍しいと思うだけだった。
「……もう、やめてくれないか、」と、割って入ったのは私の横に座る、夫だった。
「何を、でしょう……?」
首を傾げば、分かっていないのが問題だと神官長が殿下の顔を見た。
一つ肯いた殿下が、今度はアルファド様を見る。視線を移された彼はおもむろに私の手を握った。
「夫婦というのは歩み寄るものだろう。少なくとも、歩み寄るべく努力をすべきだ」
私の心の奥底までもを覗き込むかのような薄い青がじっと私を見つめる。
急に何を言い出すのか。
「君は今、一人じゃないだろう?」と苦しそうな顔をした。
「だから一人で結論を出すのは止めて欲しい」と懇願するように両手で握り締められる。
そうだねぇ、と同意したのは殿下で、
「リディアはよくよく理解すべきだよ。その命が、生かされたものであるのだということを。そして、誰がそうしたのかを。君の神は、君が自分を犠牲にすることを喜ぶと思うのかい?」
「……私の、神、」
「そう。君の神さ」
席を立ったその人が私の髪を、優しく撫でる。
「……殿下、」それを見ていたらしいアルファド様がなぜか不機嫌そうに声を低くした。
「……それではとりあえず、異世界の客人のことは殿下にお任せするようにいたしましょう」
そこで手を打ったのは神官長だ。
「おやおや、丸投げかい?」
私の頭に手を置いたまま、殿下がやれやれと息を落とす。
「……何を仰りたいのか図りかねますが。そもそもこれを始めたのは皇子殿下でしょうに」
「ふふ、確かにそうだけどねぇ。神殿がもっと情報を明かしていれば……こういうことにはならなったとは思わないのかい?」
「……」
不穏な空気が漂い始めた室内に、はあ、という大げさなくらいの息が落ちる。
「殿下、そろそろ我々はお暇いたします」
「……お前もつれないねぇ」
「俺は……果たすべき責任は果たしたと、思っています」
「まぁ、それもそうだね。お前には辛い役回りをさせたと思ってるんだよ。これでもね」
殿下の手が名残惜しむように私の髪を浚い、離れていく。
「……だけど、僕も新居に遊びに行くからね」
「殿下……」
退出のために立ち上がった殿下を通すために神官長が扉を開ければ、護衛が待ち構えていた。あくまでも厳しい顔つきをしている彼らは無言のまま殿下を囲むようにして配列する。
本来は、これほど厳重に守られるべき方なのだ。
じゃぁ、またね。と軽やかに告げてその場を去るかの方の背中を見送っていれば「今度こそ、本当に……失礼します」とアルファド様が神官長に挨拶を交わしていた。
一つ頷いた神官長がこちらを見据えて、やがて、彼を残したまま扉が閉まる。
何だか、酷く寂しい光景だと思った。彼をこのまま、この場所に残していくのだと。それを思えば、聖女候補たちと過ごした長くて短い日々が蘇ってくるような気がした。
だけど、
「リディア、行こう」
差し伸べられた手に、自分の手を重ねて。
私は確かに彼女たちが夢想した明日を生きるのだと実感していた。




