11
「―――――リディア!!」
腕を掴まれて引っ張り上げられたような感覚。痛いような気がして顔を顰める。
けれど、実際は名を呼ばれただけで誰かに触れられたわけではない。
唐突に明るくなった視界に現状を把握できるにいると、「リディア」ともう一度名を呼ばれる。
焦燥感の募る声につられて、そちらを向くと「リディア、リディア」と縋るように何度も呼ばれた。
輪郭の曖昧な視界に、覚えのある顔が映り込んでいる。
これは夢なのだろうか。
ついさっきまで、あれほどに痛みを訴えていた体も、倦怠感こそあれど痛くて動けないというほどではない。指にもつま先にも感覚が戻っている。
は、と息を吐き出しても胸は痛まない。
呼吸をする度に震えていた肉体が、確かに静寂を取り戻している。
身動きするだけで沸騰するかのように激しい脈を刻んでいた血管も、今ではそこにあるかどうかすら分からない。
―――――崩壊が、止まっている。
「……どう、して」
終わったと思ったのに。確かに終わりを予感したのに。
「なんで」
ぼんやりと言葉を吐き出すと、
「リディア、こっちを見て。ちゃんと俺の顔を見て」懇願されるように言われて見やれば、青銀の瞳。
細めたその眦が赤くなっている。目の下には濃い隈が浮いていて、疲労が見てとれた。
「良かった、本当に。もう、目覚めないかと思った」
いつからそうしていたのか、アルファド様が私の左手を握りしめている。手が固まってしまったようだ。
互いの手が同化してしまったのではないかと思うほどしっかりと握りこまれている。
このおかしな状況を把握する為に視線を巡らせれば、ここが今のいままで居たはずの大聖堂でも、自室でもないことに気づく。
だけど。
壁紙の色と天井の柄、シャンデリアの形を知っている。何度も訪れたことがある部屋だ。
「……聖女、様は…?」
問えば、僅かに首を傾ぐアルファド様。そして俄かに呟いた。
「……ああ、そうか」
私の手を握ったまま、どこか惑うように視線を落とす。
「?」
「……恐らく、殿下からきちんと話があるはずだから、君は気にしなくても良い」
握っていないほうの手で額を撫でられる。
「今はゆっくり休むんだ」
その硬質で冷たい指先が心地よい。
思わず目を細めてから、近すぎる距離に改めて戸惑う。アルファド様が屈みこんで私の顔を覗き込むようにしているからなお更、吐息が顔に掛かりそうなほどに近い。
ふと、彼が聖女様の傍にいないことが不自然なような気がして、もう一度周囲を探る。
あの黒髪の少女がこんな場面を目撃したなら変な誤解をしてしまうのではないかと。
いや、それよりも。
私は、ここに居ていい存在ではない。
「……私、自分の部屋に戻ります」
アルファド様の手を払うようにして半身を起こした。
しかし、酷い眩暈に襲われて半分も起き上がれずに、後頭部が再び枕の上に落ちる。
「いや、いいんだ。君はここにいていいんだ」
宥めるように、身体を起こそうとした反動で肩から滑り落ちた掛け布を整えられる。その心地よい感触に戸惑いながら、額を抑える。
意味が分からない。
「そうだよ、リディア。君はここに居なくちゃならないんだよ。―――――聖女の部屋にね」
ほとんど呆然としたまま身動き一つできずにいれば、唐突に開いた分厚い扉の向こうから第一皇子殿下が現れる。
慌ててベッドから抜けようとするも、殿下に片手で制された。
アルファド様が居るからか、護衛も連れていない。
「ねぇ、リディア。君はとうとうやったんだよ」
殿下の登場により、素早く床に膝を付いたアルファド様は下を向いて敬意を示した。楽にするように言い添えてふわりと笑んだその方は、先ほどまでアルファド様が座っていた椅子に腰かける。
そして、前のめりに私の顔を覗き込んだ。
「だいぶ顔色が良くなってる。眠っている間は魘されて大変だったんだから」
ねぇ、どんな夢を見ていたの? と柔らかな口調なのに、なぜかそれと同時に冷静すぎるほどの視線を向けてくる。
「キリエの名前を呼んだよ。他にも名前を呼んでた」
「っ……」
「夢で、あの子たちに会った?」
柔和なその顔からは何の感情も読み取れない。
ただの夢だ。あれは、ただの夢に過ぎない。
そう思うのに、殿下はまるで夢の内容を知っているかのような物言いをする。
「……何て、言ってた?」
殿下が私の額をさらりと撫でながら優しく問う。
声色はいつもと変わらないのに、有無を言わせない強さがあって、それは少し尋問に似ていた。
「……殿下、」
思わず身を竦めていると割り込むアルファド様の声。
許しもないのに口を挟むのは不敬であるが、殿下は気にする様子もなくじっと私の顔を見つめている。
この方に見つめられて嘘を付ける人間がいるのだろうか。
何もかもを見透かしているような、だけど、何も見ていないような不思議な眼差しをしている。
それは例えばガラス玉に似ているかもしれない。
「……まあ、いいか。とりあえず現状の話をしようじゃないか」
前かがみになっていた殿下が、すっと後ろに引く。簡素な椅子に腰掛けているというのに、まるで玉座に着いているような貫禄だ。
組んだ足の上に肘を突いているその姿さえ優美に見える。
その藍玉の瞳は、王族の中でも特に血の濃い人間だけに現れる色だ。
「まず、一番気になっているだろうことを教えるよ。君が意識を失ってから既に三日経過している。そして聖女様は、」
三日という単語に思わず息を呑めば、殿下は数拍、間を置いた。
そして、確かめるようにゆっくりと言う。
「聖女様はあちらの世界に帰ったよ」
あまりにも唐突で、言葉が出ない。その意味を全く理解できず、アルファド様の顔を見た。
殿下の後ろに控えるようにして立っている彼が瞬きだけで肯定を示す。
ひゅっと飲んだ己の呼吸音が、沈黙に支配された室内に響く。
「なぜ、そんな、」
そんなことになったのだろうという疑問が口をついて出たのと同時に、頭のどこか冷静な部分では思う。
―――――ああ、そうか。とうとう、この時が来たのかと。
聖女候補というのは通常、前任の聖女が没したその年に天啓によって選出される。
失われたものを取り戻すため、神が、世界に働きかけて聖女候補は誕生するのだ。
あの虹色の雲は、新しい聖女の誕生を祝福するものだと言われていた。
聖女様が異世界に帰ったというのであれば、つまり。
この国は聖女を失った。
私は既に一度聖女候補から降りているし、選定の儀も受けることができなかった。資格を剥奪されたと言って良い。私がもう一度聖女候補になることは有り得ない。
きっとその内に天啓が下る。
そうなれば神殿に聖女候補が召集され、短い祝詞であればすぐに諳んじることができるようになるだろう。聖女としての役目は彼女たちが担うことになるのだ。
だから、たった今、私はここに居る理由を失ったのだ。
聖女様のスペアとしての自分は終わった。
その終幕の宣言を受けた。
私は、ここから去るべきなのだ。
「……それではやはり。私はここに居るわけには、いかないのでは……」
体を起こす為に眩暈を抑えながらベッドに肘を突くと、ぼやけた視界にありえないものが映る。
ひ、と吸い込んだ息は吐き出されることなく喉の奥で止まった。
息が、止まる。
「リディア、リディア、ちゃんと息をして、」
「あ、っ何で、これ…これ…は、」
「リディア」
殿下の柔らかな手が背中を優しく往復するのが分かる。
何とか呼吸を整えようとするのだがなかなかうまくいかない。
「リディア、顔を上げて、こっちを見て」
「……いや、何で、どうして…どうして……」
息を吐き出すことさえままならず、顔を埋めるようにしてベッドに蹲る。
もう、何も見たくないのに。
「リディア、駄目だよ。ちゃんと目を開けてしっかり見て」
殿下の穏やかで、だけど穿つような鋭さを伴う強い声が耳を滑る。
「……リディア」
両腕で視界を塞ぐと、そこに訪れた真っ暗な世界に、今度はアルファド様の声が響いた。
こんなのは嘘に決まっている。こんな現実があってはたまらないと頭を振れば、
「―――――リディア」
「君は、聖女になったんだ」
アルファド様が容赦なく現実を突きつける。
はからずもがばりと顔を上げて両腕を天井に向かって掲げた。
室内を照らす明かりに目を細める。ぼやけた視界の向こうに、腕に刻まれた聖女の証が見えた。
神殿の壁に描かれていた初代聖女の肖像にもあったから、幼い頃から何度も目にしていたものだ。
違えるはずもない。
蔦のような花のような不思議な文様が中指から肘にかけて、ちょうどひび割れがあった辺りを覆うように刻まれている。
歴代の聖女にも刻まれていた証。
その証を持っていなかったのは異世界の聖女様だけだ。これまでの聖女には、体の一部に必ずそれが刻まれていた。
だけど、これは本来、聖女選定の儀を無事に終えた者だけが得られるものだったはずだ。
それがなぜ、私に。
「リディア、可愛いリディア。こっちを見て」
いや、やめて。
そんな風に呼ばないで。
それは、それは、その声は、
「……もう、失ったのに」
下ろした腕に、はたりと涙が落ちる。雫の中に浮かび上がる、消えることない呪いの痣。
望みもしなかったのに、勝手に記された。まるで、神の所有物であるかのように。
「……もう、取り戻せないのに」
肌を滑る水滴がこの文様を洗い流してくれれば良いのに、擦っても落ちない。
聖女にならなければ、生き延びるのは難しいだろうと神官長は言った。
私はただ、その日を待っていた。
だけど。
だけど、聖女になりたかったわけではない。
「誰も、いない、のに」
瞼が熱い。
誰かに首を絞められているかのように気道が狭まる。
ぶるぶると震える指で顔を覆えば、手首を伝って涙が落ちていった。
異世界から聖女様が召喚されたその瞬間まで、誰もが、お前は聖女になるべきなのだと言った。
その為に神殿に入ったのだろうと言われれば、確かにそうだと肯かないわけにはいかなかった。
努力した理由と言えば、それだけだ。
私は聖女を目指したわけではない。
ただ、他に道がなかっただけ。
そんな志だったからこそ、私は独り残されたのかもしれない。
これが、罰だったのだというのなら、全て納得がいく。
誰かの為に捧げる祈りを、誰の為にも捧げなかった。




