12
「リディア、なぜ、泣くんだ……」
体を起こそうとしてうまくいかなかった中途半端な体勢のまま嗚咽を漏らす。すると、アルファド様の戸惑うような声が落ちてきた。
おもむろに抱き起こされる。
抵抗することもできずにされるがままになっていると、正面に微笑む殿下が見えた。つまり、背後から私を抱えているのはアルファド様ということだ。
布越しに伝わってくる体温にうろたえる。
「そうだよ、リディア。君が泣く必要なんて無い。君はやっとその立場を手に入れたんだ。聖女になれた」
この日を待ちわびていただろう?と、殿下が笑みを深くした。
違うと思うのに。聖女になりたかったわけではないと思うのに。
だけど、私は、確かに聖女になれるその日を待ちわびていた。
「……何で、」 殿下がそんなことを知っているのかと呟けば、
「長年見てきたからね。何となく分かるんだよ」と組んでいた足を解く。
そうだ。確かにそうなのだ。殿下は正しい。
聖女になるより他に道はなく、だからこそ、聖女になることさえできれば、色んなことに折り合いが付くと思っていた。
例えば、お金と引き換えに神殿に入ったことや、死んだ妹のこと、先に逝った聖女候補のことや、アルファド様のことなど、数えればきりがないけれど。
聖女になれば、心の内にしまってきた数多の葛藤を終わりにできると思い込んでいたのだ。
神によって生かされた命なら、ここまで、―――――そうまでして、生き延びてきた意味もあると。
だけど、違った。
異世界から聖女様が召喚されたときに、はっきりと突きつけられた。
私である理由などない。誰でも良かったのだ。他の誰でも。
だとすれば、私がこれまで辿ってきた道程にも意味はない。その事実に、苦しみを覚える。
誰でも良かったのだと頭で理解できても、目の前に事実を突きつけられるのとでは全く違う。
なぜ、こんな形で生き延びて。
私は、聖女になったのだろう。
その理由は―――――。
「……リディア」
アルファド様の少し低い体温の指が、頬を滑る。
涙を拭おうとしてくれているのは分かったが、涙腺が壊れてしまったのか一向に止まらない。
「殿下は、殿下は何か、ご存知なのではないですか」
言葉尻でひくりと息が上がる。
「…何を?」
「聖女様はなぜ、異世界に帰られたのですか……? 私はなぜ、聖女に、聖女、なんかに、なったのですか」
思わず責めるような口調になる。
殿下は不快感を示すこともなくただじっと私を見つめていた。
「それは、君が一番良く分かっているんじゃないかな」
相変わらず、ゆったりとした視線のまま微笑んでいる殿下。心が読めればいいのに。高貴な方は、感情を隠すのが上手い。
「君が大聖堂で倒れた瞬間に、魔法陣が発動したんだ。いつの間に用意したのか分からないけれどねぇ。恐らく、神官長あたりかな?」
きょろりと目を動かしておどけた様子を見せる。
「聖女様が陣を踏んだ途端に、魔法が発動するように設定されていたんだ」
そして、その誰かの思惑通り、陣が発動した大聖堂は真っ白に染まった。
「気づけば、聖女様はそのまま故郷に送還されているし、あそこに集まっていた怪我人の浄化も済んでいるし、僕には何が何やらだよ」
殿下は心底面白そうに目尻を緩ませた。
「本当に驚くよね。神官長はあんな顔して大胆というか、豪胆というか」
本当に笑える、と付け加えてふと真面目な顔に戻った。
「なんで……」
思わず口を挟めば、殿下は「何でだと思う?」とまた笑った。今日は、よく笑う。
すると「殿下、」と諌めるような声が背後から聞こえた。
ちらりと私の背後に視線を向けた殿下は「君が倒れたとき、アルファドはそれこそ半狂乱だったよ」と肩を竦める。
「っ……殿下…!!」
常にない焦ったような口調のアルファド様に、思わず振り向こうとすれば腹の付近に回されていた腕に力が篭る。
「まぁ、顔は冷静を保とうとしていたけれどね。君の名を呼んだんだ。聞こえたかい?」
こくりと肯けば、
「情けない声で君を呼びながら、顔ではそうとは見せずに、だけど、心の中では泣き叫んでいたと思うよ」
困ったように眉を下げる殿下の顔こそ、今にも泣き出しそうだ。
まさか、殿下がそんな顔をするなんて。
そんなことを考えていると、私を抱きとめているアルファド様の腕が僅かに震えた。
「……失うかと思った。君を、あのまま永遠に失うかと……」
顔を見たいと思うのに、背中から抱きこまれていては動くことも叶わない。
「ねぇリディア。僕は心が読めるわけじゃない。だから君が何を思っているのか分からない。だけど、知っておいてよ。君は、君が思っているよりもずっと、愛されているんだってことを」
「だから神官長は動いたんだ。許されることではないと知りながら。……そして、」
ほら、アルファド。ちゃんと顔を見て伝えなよ。
殿下が言えば、アルファド様の腕が緩む。振り返ろうとするのを手伝ってくれて、座ったまま向き合う。
まつげが触れ合うほどの距離で目が合った。
青銀の瞳が滲んでいるように見えるのはなぜなのだろう。
「……」
アルファド様の薄い唇が僅かに震えながら空気を飲んだ、ような気がした。何か言おうとしている。
だけど、それがどれほど優しい言葉だったとしてももう何も聞きたくなかった。
咄嗟に耳を塞ごうとしてそれをそっと抑えられる。
優しい指先だ。だけど、抵抗を許さないほどには強引だ。
「君のことが大切だ、何よりも、誰よりも」
はっきりと告げられて、無意識に「…聖女様は、」と問い返す。目を見開いたその人は言葉を失っているようだった。
ふふ、と笑い声を上げたのは殿下だ。
「まぁ、そうなるよね」
首を傾いで、何かを逡巡するかのように一度だけ天井を仰ぎ、とつとつと語る。
「アルファドを聖女様の護衛に任命したのは僕だよ。彼には不本意なことだったろうと思うけど、聖女様にはこの国の為に祈りを捧げてもらう必要があったから、アルファドには協力してもらっていたんだ。結果的に君を追い詰めるようになってしまったけれど」
真剣な眼差しが私の心を射抜くようだった。
この方は昔から時々、こんな目をするのだ。
「僕は僕なりに、アルファドはアルファドなりに、君の為になることをするつもりだった」
あまりうまくいかなかったけれどね。と嘆息する。
「……君が聖女になることを望んでいたのは、僕やアルファドのほうかもしれない」
アルファド様を見れば、ほんの僅かに笑みを浮かべる。
優しい眼差しだ。包み込むような慈愛に満ちた、どこか懐かしい想いにさせる目だ。
「や、やめて下さい、そんな目で、見るのは、」
「……リディア?」
身を捩ってアルファド様の胸の辺りを強く押せば、あっけないほど簡単に距離ができる。
後ろに動けば、ベッドから転がり落ちた。
「―――――リディア…!」
長いこと眠り込んでいたからか、体がうまく動かない。
座り込んで、激情のままに叫ぶ。
「もう、もう止めて下さい……! 私は望んでない。何も望んでなんてない……!」
皆、勝手なことばかり。
聖女になることが、まるで幸福なことみたいに。
「……解放、してください。私はもう、ここには居たくありません。皆のところに行きます。皆、私を待ってる! あの暗い場所で、私を……!!」
目を閉じれば、一緒に過ごした日々だけが色鮮やかに蘇る。
全てを失って神殿へ入った。何も持っていなかったからこそ、私は他の聖女候補に守られていた。帰る場所がないのは彼女たちも同じだったはず。
なのに。
一番幼いというただそれだけの理由で、私だけが守られた。
『私たちが、最期に何を祈ったのか分かる?』
『私は、』
『私たちは、』
『――――――貴女が幸福になることを祈ったの』
『今でも、これからも、ずっとずっと、祈り続けてる』
夢の中で彼女たちは確かにそう言った。
けれどもしも、あれが、夢ではないのなら。私がいつかたどり着く先があの場所であるのなら。
あの言葉が真実なら。
私のせいだ。
死に向かう彼女たちの背中を押した。
彼女たちが本当に、最期の最期に私のことを祈ったというのなら。祈りが崩壊を早めるというのなら。
間違いなく私の存在が彼女たちの死期を早めたのだ。
願ってもらう価値もない。
祈ってもらう価値もないのに。
幸福になれと、そう言うのだ。
「……私が、殺した、私のせいでっ、皆、皆、死んだのに」
「もう誰もいないのに、私、一人だけなのに、どうやって、どんな風に幸せになれって言うの……っ」
嗚咽で呼吸が乱れる。
いっそのこと、このまま、本当に息の根が止まってしまえば良いのに。
「……リディア。可愛いリディア。可哀想なリディア」
膝を付き、祈りにも似た格好で泣く私に、殿下が歌うように言う。
顔を上げれば、心底困り果てた顔でその人が首を傾いだ。
「君がそんな風に泣く理由が、僕にもアルファドにも分からないけれど……」
沈黙が落ちる。私のしゃくり上げる呼吸だけが響いていた。
しかし、「あきらめてくれ、リディア」と、アルファド様がどこまでも冷静な声で告げる。
「君はもう、全てを拒否することができない。君は聖女になり、俺は再び君の婚約者となった。もうすでに結婚式の日取りさえ決まっている」
「……え……?」
ぽかりと口をあけて絶句すれば、ほろりと零れた涙が頬を伝った。
「結婚しよう、リディア」
「……何、え、何を、何を一体、仰っているのか」
はくはくと唇を動かしていれば、何の予備動作もなくアルファド様に抱き上げられる。
「殿下、俺は充分待ちました。もう、これ以上はごめんです」
「……ああ、まあ、うん。…だろうね」
「御前、失礼いたします」
「はいはい」
どこへ連れて行かれるのか、アルファド様は私を抱えたまましっかりとした足取りで部屋を出ようとしている。
「……ねぇリディア」
抵抗しようと身を捩ったところで殿下の静かな声が追いかけてきた。
「君にとって『幸せ』というのが憎むべきものなのだというのは何となく分かるよ。そうなることに罪悪感を覚えるのも。幸せを得ることが苦しくて辛くて、悲しくてどうしようもないのもね。幸せになることに、苦しみが伴うなんて矛盾しているとも思うけど」
「だけど」
「だからこそ、それほどに価値がある。幸せになることにはね」
アルファド様の肩が視界を塞いでいる。
殿下の顔は見えないけれど、いつもの人を食ったような笑みが消えているような気がした。
「あきらめて、幸福になって。リディア」
それが皆の願いだから。
ぽつりと落とされた言葉が閉ざされた扉によって阻まれる。
私を抱きなおして、アルファド様が耳元で大きく息を落とした。
「やっと、戻ってきた」
その声が震えていた。
拘束から逃れようと腕を振り上げたけれどいとも容易く制される。
「もう絶対に、二度と、離さない」




