第13話「魔王、和平を求む」
深夜の王城は、静まり返っていた。
執務室の蝋燭だけが、レオニス王の疲れ切った顔を照らしている。机の上には報告書が山積みになっており、その中でも財務官ロレンツからの報告が最も重い意味を持っていた。
国庫残高――金貨一万三千枚。
わずか数週間で、さらに二千枚が消えている。勇者たちの贅沢、神殿の維持費、そして祭りの後始末。全てが、この国の富を食い潰していく。
「このままでは...」
レオニスは呟いた。窓の外を見ると、神殿の光が相変わらず輝いている。あの光の下で、民衆は今も勇者を崇拝し続けているのだろう。真実を知らぬまま。
コツコツとドアをノックする音が響いた。
「入れ」
扉が開き、宰相ヴァルクが入室する。彼もまた、疲労の色を隠せない様子だった。
「陛下、まだお休みになっていなかったのですか」
「休めるか」
レオニスは苦笑した。
「国が滅びようとしているのに」
ヴァルクは何も答えず、王の傍らに立った。二人は、しばらく沈黙の中で窓の外を見つめていた。神殿の光が、まるで嘲笑うかのように輝いている。
やがて、ヴァルクが口を開いた。
「魔王への接触ですが、準備を進めております」
「...本当に、魔王が応じると思うか?」
レオニスの声には、疑念が滲んでいた。魔王と接触する――それは前代未聞の決断だ。成功すれば国を救えるかもしれない。しかし失敗すれば、さらなる混乱を招くだけだろう。
「分かりません」
ヴァルクは正直に答えた。
「しかし、他に道が――」
その時、窓の外から異変が起きた。
黒い影が、窓ガラスに激しくぶつかる。ゴツンという鈍い音が響き、二人は反射的に身構えた。
「何だ!?」
ヴァルクが素早く剣の柄に手をかける。レオニスも立ち上がり、窓に近づいた。
窓辺には、黒い鳥が倒れていた。しかし、それはただの鳥ではない。その目には知性の光があり、足には小さな筒が結びつけられている。
「伝書鳥...?」
ヴァルクが慎重に窓を開けると、鳥はふらふらと立ち上がった。そして、足に結ばれた筒を落とすと、夜空へと飛び去っていく。
残されたのは、黒い金属製の筒だった。
ヴァルクが慎重にそれを拾い上げる。表面には、見慣れない紋章が刻まれている――魔族の紋章だ。
「まさか...」
レオニスは息を飲んだ。ヴァルクが筒を開けると、中から黒い羊皮紙が出てくる。それを広げた瞬間、二人は言葉を失った。
文字は丁寧で美しく、知性を感じさせる筆跡だった。そして、その内容は――。
「アルディス王国国王レオニス陛下へ」
レオニスは、震える声で読み上げた。
「私は魔王ゼファル。貴国と和平を求む」
執務室が、完全に静まり返った。
ヴァルクも、信じられないという表情で手紙を見つめている。魔王が――自ら接触してきたのだ。
レオニスは続きを読む。
「勇者とは異界の毒である。彼らは無自覚に、この世界の理を壊している。貴国のみならず、我が領土も被害を受けている。このままでは、世界そのものが崩壊する。会談を望む。国境の中立地帯にて」
手紙の最後には、日時と場所が記されていた。そして、魔王の署名。
レオニスはゆっくりと手紙を置き、椅子に座り込んだ。
「...罠か?」
最初に浮かんだのは、その疑念だった。しかし、ヴァルクは首を振る。
「しかし陛下、魔王が勇者を問題視しているのであれば――」
「利害が一致する、ということか」
レオニスは手紙を再び手に取った。文面は理知的で、感情的な部分が一切ない。まるで、学者が書いた論文のような冷静さだ。
「魔王も、勇者の被害を受けている...」
その言葉を口にした瞬間、レオニスは妙な納得感を覚えた。勇者たちは、人間と魔物を区別していない。彼らにとっては、全てが「経験値」であり「イベント」なのだから。
「陛下、これは――」
ヴァルクの声には、わずかな希望が混じっていた。
「千載一遇の機会かもしれません」
レオニスは長い沈黙の後、深く息を吐いた。そして――頷いた。
「...会おう」
数日前、魔族領。
そこは人間の領土から遠く離れた、山岳地帯の谷間にあった。小さな村で、数十軒の家が立ち並んでいる。住民は魔族――角を持ち、肌の色が人間とは異なる者たちだ。しかし、彼らの生活は人間と何ら変わらない。畑を耕し、家畜を育て、子供たちは野原で遊んでいる。
村長のザラクは、年老いた魔族だった。長い角は既に色褪せており、背中は丸まっている。しかし、その目には穏やかな知性があった。
「今年は豊作になりそうだな」
ザラクは畑を見ながら、隣にいる若い魔族に声をかけた。
「ええ、村長。このままいけば、冬を越すのに十分な食料が確保できます」
二人は満足そうに頷き合った。平和な日常。それが、この村にとって何よりも大切なものだった。
しかし――その平和は、突然終わりを告げた。
轟音。
村の入口付近で、突然爆発が起きた。家が一軒、まるで紙のように吹き飛び、瓦礫が宙を舞う。村人たちが悲鳴を上げ、子供たちが泣き叫んだ。
「何だ!?」
ザラクは振り向いた。そして――見た。
村の入口に、四人の若者が立っている。人間だ。その中の一人、黒髪の少年が手を伸ばしており、その手から魔法の残滓が漂っていた。
「あ、魔物発見!」
ハルの声が、村に響いた。彼はまるで宝物を見つけたかのような表情で、村人たちを指差している。
「よっしゃ、経験値稼ぎだ!」
レンが拳を打ち鳴らした。その目には、獲物を見つけた狩人のような光があった。
「早く終わらせよ」
ミカは退屈そうに欠伸をしている。
ザラクは必死に両手を上げた。
「待て!我々は戦闘員ではない!ただの村人だ!」
しかし、その声は届かなかった。勇者たちには、ザラクの言葉が理解できないのか、あるいは――理解しようとしていないのか。
レンが地面を蹴った。その速度は、目で追うことができないほど速い。次の瞬間、レンの拳が村の建物に叩き込まれた。
建物が、まるで爆弾を受けたかのように崩壊する。
中にいた魔族たちが、瓦礫の下敷きになった。悲鳴が響く。
「やめろ!」
ザラクは叫んだ。しかし、その声も届かない。
ハルが再び魔法を放つ。光の矢が村を襲い、家々が次々と破壊されていく。炎が上がり、煙が空を覆った。
クロウだけが、その様子を複雑な表情で見ていた。
「ちょっと待て、これ――」
しかし、彼の声は他の三人に無視された。ハルは笑顔で魔法を放ち続け、レンは次々と建物を破壊し、ミカは遠くから「早くー」と催促している。
数分後、村の半分が廃墟と化していた。
勇者たちは満足そうに頷き合った。
「魔物退治完了!」
ハルが親指を立てる。レンも笑顔で頷いた。
「結構稼げたな」
「次、どこ行く?」
ミカが尋ねる。三人は、まるで観光地を巡るかのような軽い調子で話し合っている。
そして――何事もなかったかのように、去っていった。
残されたのは、廃墟と呆然とする村人たちだけだ。
ザラクは、崩れた家の前で膝をついていた。周囲では、負傷した村人たちが呻き声を上げている。死者も、出ているだろう。
「...人間の勇者とは、これほどまでに...」
ザラクの声は、震えていた。怒りではない。恐怖だ。
若い魔族が、ザラクに駆け寄ってくる。
「村長!魔王陛下に報告を!」
ザラクは頷いた。立ち上がり、廃墟となった村を見渡す。
「ああ。すぐに使者を送れ」
「これは――戦争ではない。災厄だ」
魔王城は、人間が想像するような邪悪な場所ではなかった。
黒い石で造られた堅牢な城だが、内部は整然としており、清潔感すらあった。廊下には書物が並べられ、窓からは美しい山々の景色が見える。
玉座の間も、威圧的というよりは荘厳だった。高い天井、整然と並んだ柱、そして奥に置かれた玉座。そこに座る魔王ゼファルは、若々しい外見をしていた。
黒い髪、鋭い目、額には小さな角。しかし、その目には深い知性と、長い年月を生きた者だけが持つ落ち着きがあった。
「村が三つ、壊滅。死者三十名」
部下の魔族が、膝をついて報告している。その声は、怒りと悲しみに震えていた。
「勇者と名乗る者たちによる襲撃です」
魔王ゼファルは、黙って報告を聞いていた。その表情からは、感情を読み取ることができない。
報告が終わると、玉座の間に重い沈黙が落ちた。
側近の一人が、前に出た。
「陛下!報復を!」
「人間の勇者どもを、許すわけにはいきません!」
他の部下たちも、口々に報復を求める。しかし、魔王ゼファルは静かに手を上げた。
部下たちが黙る。
「報復すれば、さらなる破壊を招く」
魔王の声は、低く落ち着いていた。
「彼らは、理性が通じない」
側近が食い下がる。
「しかし陛下、このままでは――」
「分かっている」
魔王は玉座から立ち上がった。部下たちが一斉に頭を下げる。
魔王は窓辺に向かい、外の景色を見つめた。山々の向こうに、人間の領土がある。そして――あの勇者たちがいる。
「彼らは、この世界の者ではない」
魔王は静かに言った。
「異界から来た、異物だ」
「理も、法も、通じない」
側近が尋ねる。
「では、どうされるのですか」
魔王は振り向いた。その目には、明確な決意があった。
「人間の王と、話をする」
玉座の間がざわめいた。部下たちが驚きの声を上げる。
「しかし、敵では――」
「敵は、勇者だ」
魔王の声は、断固としていた。
「人間の王も、同じ被害を受けているはず」
「敵の敵は、味方となる」
側近たちは顔を見合わせた。しかし、誰も反論しなかった。魔王の判断は、常に正しかったからだ。
魔王は執務机に向かい、羊皮紙を取り出した。そして、丁寧に文字を書き始める。
「陛下、危険では」
側近が心配そうに言った。魔王は手を止めず、答える。
「危険だ。しかし、他に道はない」
「世界を守るためだ」
その言葉に、部下たちは黙った。魔王の使命――それは、この世界の均衡を保つこと。人間も、魔族も、そして自然も。全てが調和する世界を守ること。
勇者は、その均衡を破壊している。
だから――止めなければならない。
魔王は手紙を書き終えると、それを筒に入れた。
「伝書鳥を」
側近が黒い鳥を連れてくる。魔王は、その足に筒を結びつけた。
「人間の王城へ。必ず届けろ」
鳥は鳴き声を上げ、窓から飛び立った。夜空に消えていく黒い影を見送りながら、魔王は呟いた。
「頼む、人間の王よ」
「共に、この世界を守ろう」
翌日、王城執務室。
レオニス王、宰相ヴァルク、そして騎士団長ベルナールの三人だけが集まっていた。扉には鍵がかけられ、窓のカーテンも閉められている。完全な秘密会議だ。
机の上には、魔王からの手紙が置かれていた。
「魔王と会う」
レオニスの言葉に、ベルナールは厳しい表情で頷いた。
「しかし陛下、フィリア王女は――」
「秘密だ」
ヴァルクが遮る。
「フィリアには、知られてはならない」
ベルナールは理解した。王女は、完全に勇者の信者だ。もし魔王との会談を知れば、必ず妨害するだろう。
「民衆も、知れば暴動を起こします」
ベルナールが付け加える。レオニスは頷いた。
「極秘で行う。お前たち二人と、信頼できる騎士数名だけだ」
「会談の場所は?」
「国境の廃教会」
レオニスは地図を広げた。そこには、人間と魔族の領土の境界線が引かれている。その中間地点に、小さな印があった。
「かつて、人間と魔族が共に祈りを捧げた場所だ」
「今は誰も使わない廃墟だが――」
ヴァルクが続けた。
「会談には最適です」
「三日後、夜明け前に出発する」
レオニスは二人を見た。
「準備を頼む」
「御意」
二人は深く頭を下げた。
ベルナールが去った後、レオニスとヴァルクは再び二人きりになった。
「ヴァルク」
「はい」
「本当に、これで良いのだろうか」
レオニスの声には、迷いがあった。ヴァルクは、しばらく沈黙した後、静かに答えた。
「分かりません、陛下」
「しかし、やるしかありません」
レオニスは返信の文を書き始めた。簡潔に、しかし明確に。
「会談に応じる。三日後、国境の廃教会にて」
手紙を筒に入れ、窓を開ける。すると、まるで待っていたかのように、黒い鳥が飛んできた。魔王の伝書鳥だ。
レオニスは筒を鳥の足に結びつけた。
「頼む。魔王に届けてくれ」
鳥は鳴き声を上げ、空へと飛び立った。
二人は、その姿が見えなくなるまで見送った。
「歴史的な瞬間になるかもしれません」
ヴァルクが呟いた。レオニスは苦笑する。
「あるいは、愚かな決断として記録されるか」
「しかし、やるしかない」
「ああ」
窓の外では、神殿の光が相変わらず輝いている。しかし、その光も――もうすぐ消えるかもしれない。
会談の前夜。
レオニスは一人、執務室で地図を見つめていた。国境の廃教会――そこは、かつて人間と魔族が共存を試みた時代の遺物だ。今では誰も訪れない、忘れられた場所。
しかし、明日そこで――歴史が動く。
コツコツとノックの音。
「入れ」
扉が開き、フィリアが入ってきた。レオニスは素早く地図を閉じた。
「父上、明日は外出されるとか」
フィリアの声には、疑念が滲んでいた。レオニスは、努めて平静を装う。
「ああ、視察だ」
「どちらへ?」
「...北の領地」
嘘だった。しかし、言わざるを得ない。
フィリアは、父を疑わしそうに見つめた。しかし、それ以上は追及しなかった。
「お気をつけて」
「ああ」
フィリアが去った後、レオニスは深いため息をついた。
「すまない、フィリア」
窓の外、神殿の光。
「しかし――お前を、そして国を守るためだ」
その夜、レオニスはほとんど眠れなかった。
夜明け前。
城の裏門に、数人の影が集まっていた。レオニス王、ヴァルク、ベルナール、そして信頼できる騎士三名。全員が旅装束に身を包み、武装している。
「準備は良いか」
レオニスの問いに、全員が頷いた。
「では、行こう」
一行は静かに城を出た。誰にも気づかれることなく、暗闇の中を馬で進んでいく。
城下町を抜け、街道を北へ。やがて、森の中へ入っていった。
馬に乗りながら、レオニスは呟いた。
「魔王よ...お前は、本当に理性ある存在なのか」
誰も答えなかった。ただ、馬の蹄の音だけが森に響いている。
東の空が、わずかに白み始めた。夜明けが近い。
地平線に、朝日が昇り始める。
新たな時代の始まりを告げるように――。
読んで下さりありがとうございました!
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