第12話「勇者信仰の夜」
夕刻、城下町には異様な熱気が満ちていた。
パン屋「麦の穂」の前で、トーマス・ブラウンは店のシャッターを下ろしながら通りの様子を見ていた。いつもなら夕方まで営業するのだが、今日は特別だ。今夜、王女フィリアの提案による「勇者信仰の大祭」が開催される。
通りには、すでに勇者の旗が無数に掲げられていた。ハルの姿を描いたもの、レンの力強い拳を象徴したもの、そして四人全員が描かれた巨大な旗――それらが風に揺れている。
松明を持った人々が、次々と通りを行き交う。祭りの準備だ。
「父さん、行かないの?」
息子の若いトマスが尋ねた。トーマスは、複雑な表情でその問いに答える。
「...様子を見よう」
通りでは、すでに民衆が歌い踊り始めていた。
「勇者様万歳!」
「神の使いに栄光を!」
歓声が響く。しかし、トーマスにはこの熱狂が――不気味に見えた。祭りではない。何か別の、もっと狂った何かに見える。
「トーマス、お前も行くのか?」
隣の店を営む商人マルクが、店を閉めて出てきた。彼の表情も、トーマスと同じように複雑だ。
「...行かないわけにはいかないだろう」
トーマスは答えた。マルクは頷く。
「ああ。行かなければ、また睨まれる」
二人は、祭りの準備を眺めた。通りには、勇者の像が運ばれてくる。木彫りの、等身大の像だ。それを担いだ民衆が、まるで神輿を担ぐように練り歩いている。
「...正気じゃない」
マルクが小声で呟いた。トーマスは何も答えなかった。答える必要もない。二人とも、同じことを考えているのだから。
夜が訪れる頃には、城下町全体が祭りの渦に飲み込まれていた。
勇者神殿前の広場には、何千人もの民衆が集まっていた。松明が無数に灯され、夜なのにまるで昼間のように明るい。空気は熱気で歪み、人々の歓声が途切れることなく響いている。
侍女リーゼは、神殿の裏手から遠くその光景を見ていた。
彼女はかつて、王女フィリアに仕えていた。しかし今、フィリアは聖女と呼ばれ、侍女の世話など必要としなくなった。リーゼは他の業務に回されたが、今夜は自分の意志でここに来ていた。
見たかったのだ。この国が、どこまで狂ってしまったのかを。
神殿の扉が、ゆっくりと開いた。
民衆が一斉に声を上げる。そして――跪いた。何千人もの人間が、一斉に膝をつく光景。それは荘厳で、そして――異常だった。
扉の奥から、王女フィリアが現れた。
純白のドレスを纏い、金の刺繍が月光に輝いている。頭には花冠が載せられ、まるで本物の聖女のようだ。いや、民衆にとっては――本物の聖女なのだろう。
「本日、我らは勇者様に感謝を捧げます」
フィリアの声が、広場に響いた。民衆が唱和する。
「勇者様に感謝を」
その声は、まるで宗教儀式だった。フィリアは両手を広げ、祈りを捧げ始める。民衆も一斉に祈った。
リーゼは、その光景を見ながら背筋が凍るのを感じた。
これは――宗教ではない。狂気だ。
フィリアの祈りが終わると、神殿の奥から――勇者たちが現れた。
ハル、レン、ミカ、クロウの四人。
民衆が、感涙にむせび泣く。何人かは気絶しそうになり、周囲に支えられている。
「えーと、ありがとうございます」
ハルが手を振った。その声は、いつもの軽い調子だ。しかし民衆には――それが神の御声に聞こえるらしい。
「神の御声だ!」
「有難い!」
叫び声が響く。レンは、その人数を見て驚いたように言った。
「すげー人だな」
民衆は再び歓声を上げた。ミカは、小声で呟いている。
「早く終わんないかな」
しかし、その声は誰にも聞こえない。聞こえたとしても――誰も気にしないだろう。クロウだけが、複雑な表情で民衆を見つめていた。
祭りは、夜通し続いた。
歌が響き、踊りが続き、人々は勇者の名を叫び続けた。リーゼは、その光景を最後まで見届けることができなかった。
途中で、神殿を離れた。
もう――見ていられなかった。
同じ夜、王城執務室の空気は重く沈んでいた。
外では祭りが続いている。歓声が、遠くから聞こえてくる。しかし、この部屋には――その熱狂とは対照的な冷たさがあった。
レオニス王は机に向かって座り、宰相ヴァルクと財務官ロレンツが傍らに立っている。三人の前には、分厚い報告書が積み上げられていた。
「国庫残高...金貨一万五千枚」
ロレンツの声は、震えていた。レオニスは、その数字を聞いて顔を上げる。
「一万五千...前回は二万二千だったはずだが」
「はい。祭りの費用、勇者様の旅費、神殿の維持費...」
ロレンツは報告書を見ながら続けた。
「このペースでは...二ヶ月です」
その言葉が、執務室に重くのしかかった。ヴァルクが、静かに尋ねる。
「二ヶ月で破産する、ということか」
ロレンツは、ただ頷いた。
レオニスは、頭を抱えた。外からは、相変わらず歓声が聞こえてくる。民は――気づいていないのか。いや、気づいていても、見ようとしていないのだろう。
「民は...気づいていないのか」
「気づいていても、見ようとしません」
ヴァルクが答えた。
窓の外を見ると、神殿の方角から松明の光が見える。あの光の下で、何千人もの人々が踊り狂っている。国が崩壊しようとしているのに。
「このままでは...」
レオニスは言葉を続けられなかった。ヴァルクが、静かに続ける。
「はい。経済的に、国が死にます」
三人は、しばらく沈黙した。報告書の数字だけが、冷酷な現実を語っている。
やがて、レオニスが口を開いた。
「ヴァルク、お前の計画は?」
ヴァルクは一瞬躊躇した。しかし――もう時間がない。
「...禁断の策があります」
レオニスは、ヴァルクを見た。その目には、わずかな希望と恐怖が混ざっている。
「聞かせろ」
ヴァルクは深く息を吐き――答えた。
深夜、王城の地下室には冷たい空気が漂っていた。
蝋燭の灯りだけが、石造りの部屋を照らしている。ここは通常、倉庫として使われている場所だが、今夜は――別の目的で使われていた。
ヴァルクの前には、十数名の人々が集まっていた。貴族ベルナール、騎士エドワード、そして信頼できる貴族や騎士たち。全員が、反勇者派の組織メンバーだ。
「まず、アルフレッド伯爵に黙祷を」
ヴァルクの言葉に、全員が頭を垂れた。一分間の沈黙。処刑された仲間への、最後の敬意だ。
やがて、ヴァルクが顔を上げた。
「我々は、仲間を失った」
その声には、怒りと悲しみが滲んでいた。
「しかし、諦めるわけにはいかない」
メンバーたちが頷く。誰もが、同じ思いを抱いている。このままでは――国が滅ぶ。
ベルナールが前に出た。
「宰相閣下、策はあるのですか?」
ヴァルクは、深呼吸した。そして――言った。
「...魔王と、接触する」
部屋が、完全に静まり返った。
誰も、声を出さない。蝋燭の炎が揺れる音だけが、聞こえる。
エドワードが、信じられないという表情で尋ねた。
「魔王...ですか?」
「そうだ」
ヴァルクは頷いた。
「勇者を止めるには、力が必要だ」
「我々だけでは、足りない」
「ならば――敵の敵と、手を組む」
貴族の一人が、前に出た。
「しかし、魔王は敵では...」
その言葉を、ヴァルクが遮る。
「本当の敵は誰だ?」
その問いに、誰も答えられなかった。なぜなら――答えは明白だからだ。
本当の敵は、勇者だ。
魔王ではない。
沈黙が続いた。やがて、ベルナールが口を開く。
「危険な賭けですが...他に道はない」
エドワードも頷いた。
「私も、賛成します」
次々と、メンバーが賛同の意を示した。誰もが理解していた。これは禁断の選択だと。しかし――他に方法がないことも。
ヴァルクは、全員を見渡した。
「では、決まりだ」
「魔王ゼファルとの接触を試みる」
その言葉が、地下室に響いた。歴史的な瞬間だった。王国が、魔王と手を組む決断をした瞬間。
しかし、誰もそれを後悔していなかった。
明け方、城下町には疲労の空気が漂っていた。
祭りは夜通し続き、ようやく終わりを迎えようとしている。疲れ果てた民衆が、ふらふらと家路についていた。
トーマスは、息子と共に店に戻る道を歩いていた。
通りには、祭りの残骸が散らばっている。折れた旗、消えかけた松明、踏み荒らされた花――かつて美しかったものが、今は無残な姿で転がっていた。
道端には、酔って眠り込んでいる者もいる。誰も起こそうとしない。皆、疲れ切っているのだ。
「...狂っている」
トーマスは、思わず呟いた。息子が振り向く。
「え?」
「いや、何でもない」
トーマスは首を振った。言ってはいけない言葉だった。
店に戻ると、隣のマルクも店に入るところだった。二人は目が合い、無言で頷き合う。
「...疲れたな」
マルクが言った。
「ああ」
トーマスは答えた。二人は、しばらく黙って立っていた。言葉にならない何かを、共有している。
やがて、マルクが口を開いた。
「トーマス、この国は――」
言葉が、途中で止まる。トーマスは、その続きを待った。しかし、マルクは続けなかった。
「...分からない。でも、何かが終わろうとしている」
トーマスが答えた。マルクは頷いた。
空が、白み始めていた。新しい朝が来る。しかし――それは希望の朝ではない。
二人は店に入り、扉を閉めた。
朝、王城執務室には静寂があった。
レオニス王とヴァルクは、窓辺に立っている。二人とも、一睡もしていなかった。
窓の外では、祭りが終わり、城下町が静けさを取り戻している。しかしその静けさは――嵐の前の静けさのようだった。
「ヴァルク」
レオニスが口を開いた。
「魔王と接触する――本気か?」
「はい」
ヴァルクは即答した。レオニスは、城下を見つめたまま続ける。
「それは...反逆だぞ」
「魔王と手を組むなど」
「分かっています」
ヴァルクの声には、迷いがなかった。
「しかし、国を救うには――」
レオニスは、長い沈黙の後――頷いた。
「...やれ」
ヴァルクは、驚いて王を見た。
「陛下...」
レオニスは振り向いた。その目には、王としての強い決意が宿っている。
「私は王だ」
「民を守る義務がある」
「たとえそれが、魔王と手を組むことであっても」
レオニスは窓辺に戻り、城下を見下ろした。祭りの残骸が、朝日に照らされている。
「勇者を止める。魔王の力を借りてでも」
ヴァルクは、深く頭を下げた。
「御意」
二人は、しばらく窓の外を見つめていた。
第二部は、終わった。
第三部――駆除の決断期が、始まる。
「まずは、魔王への接触方法を探ります」
ヴァルクが言った。レオニスは頷く。
「頼む」
朝日が、王国を照らしている。しかし――その光は、希望ではなく、新たな戦いの始まりを告げていた。
城下では、人々が目を覚まし始めている。昨夜の熱狂は、すでに遠い記憶のようだ。しかし――その熱狂が残したものは、確かに存在している。
経済的破滅のカウントダウン。
恐怖による支配。
そして――禁断の決断。
王国は、もはや後戻りできない道を選んだ。
魔王との接触。それは、この国の歴史で前例のない選択だ。しかし――他に道はなかった。
レオニスは、窓辺で拳を握りしめた。
「必ず、止める」
その声は、誰にも聞こえなかった。しかし、その決意は――確かなものだった。
朝日が昇り、新しい一日が始まる。
しかしこの朝は――ただの朝ではない。
戦いの、始まりだった。
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