第00章
太陽も月もないこの領域では、時の流れさえ曖昧だったが――それでも、ひと月以上が過ぎたのは疑いようもなかった。二日で一度ひっくり返される砂時計が、十三回もその役目を果たしていたのだから。
リヒトと六人のSランク冒険者たちは、この忌まわしき場所にて一ヶ月以上を耐え抜いた。果てしなく続くかのような山脈を越え、骨の髄まで凍らせる冷気に晒されながら、常人なら数秒で凍りつくだろう過酷な寒さに耐え、そして、人の世ではSランクの冒険者部隊をもってしても傷一つつけられないような怪異たちと幾度も死闘を繰り広げてきた。
夜明けなき日々のなか、彼らの行軍は果てしなく続くように思えた。脱出の希望は次第に霞み、目に見えぬ絶望が足取りを重くしていく。
――そして、ついに、その時は訪れた。
また一つ、巨大な峰を越えたその先。七人は肩を並べ、吐く息を白く凍らせながら、ついに辿り着いた場所を見下ろしていた。
猛吹雪に肉を裂かれ、氷壁にて叫ぶ斧を振るい、常識を逸した異形との死闘を超え――それらの記憶は、今や遠い過去のもののようにさえ思える。彼らの眼下に広がっていたのは、他に類を見ない光景だった。
それは谷ではなかった。大地そのものが裂け、地平を呑み込むほどの巨大な傷痕。山々がまるで墜ちてきた巨神を引き裂いたかのように、その縁は不規則にギザギザと尖り、見る者に禍々しさすら与えていた。
足元から滑るように傾斜した地面は、黒曜石のように艶めく黒い岩と霜に覆われ、半光の空の下で不気味に輝いていた。盆地の中心からは、風すら吹かぬにもかかわらず、濃密な霧が沸き立っている。蒼白く、蠢く壁のように立ち込めた霧は、底を完全に隠しており、そこに何があるのか誰にも知ることはできない。ただ、その沈黙だけが、古の何かが見下ろしているような重みを伴って、辺りに満ちていた。
リヒトは、縁に立ったその瞬間から感じていた。仲間たちが周囲を伺う鋭い視線を交わす様子からも、それは確かだった。靴底、鎧の隙間、血管の中にさえも、何かが囁くように触れてくる。
微かに、だが確実に引き寄せる力。
この場所に立つだけで、骨の髄まで「引き込まれる」感覚があった。それはまだ堕ちるほどではない。だが、「いずれ堕ちる」という予感だけが、身体の奥に鈍く疼いていた。
「……ここ、だよな? 間違いないよな?」
きらびやかな金の装飾が施された、見るからに重そうな鎧の中から、くぐもった声が聞こえた。
「聞くまでもないだろ?」「こんな異様な気配を放ってるのが、主じゃなきゃ何なんだって話だよ」
「うぇっ……考えるだけで背筋が寒くなるわ」
「それと、ドミー、もうちょっと下がれ。お前、その重装で縁ギリギリとか、自殺行為だぞ?」
半分は冗談、半分は本気の忠告に、ドミーと呼ばれた男は数歩後ずさり、それを見ていた女がくすっと笑った。
「ねぇ……気のせいじゃないよね? 何かに引っ張られてるっていうか……」
その声は、何気なさを装っていたが、リヒトにはわかった。その奥に隠された緊張を。
話したのはライラ。大柄で、風になびく黒髪を振り乱しながら、戦杖を握りしめている。その手は白くなっていた。彼女はただの冒険者ではない。SSSランクのバトルモンガー。名実ともに伝説級の戦士だ。そんな彼女が――今、その声に微かだが震えを宿していた。
隊を率いるリヒト――星光旅団〈アストラル・ルミナリー〉のリーダーにして、この探索の首魁は、何も言わずに縁に立ち尽くしていた。言葉など、必要なかった。ここまで来るのに、どれだけの代償を払ったかは全員が知っている。そして、あのライラですら怯えているなら――むしろ、全員が恐怖を感じている方が自然なのだ。
ここは、《虚無の納骨殿〈ヴォイドボーン・カタコンブ〉》の入り口。
記録に残る中で、最も古く、最も恐れられるダンジョン。SSSクラスの超危険領域。
「もっと、こう……邪悪で禍々しいのを想像してたけどな」
リヒトの左側から、ため息混じりの声が上がる。
視線を向けると、そこには白い祭服をまとった老人が立っていた。銀の杖が小刻みに揺れ、その手はライラの握る戦杖と同じほど強く握られている。だが、その顔には長年の修行を経た僧侶らしい、確固たる信念が宿っていた。
リヒトの唇が、わずかに笑みを描く。
「怖いのか、ジジイ?」
「当たり前だろうが」老人は鼻で笑った。
「若い頃のような無鉄砲さは、もう残っちゃいないさ――誰かさんとは違ってな」
彼の視線が、リヒトの年齢を感じさせない端正な顔立ちと、しなやかな体格を一瞥し、ふっと息を漏らす。
「見た目だけは、な……私の老いた心臓には、そろそろ限界が近いんだ」
彼は七人の中で唯一、星光旅団の一員でもなく、SSSランク冒険者でもなかった。正確に言えば、冒険者ですらない。彼は聖堂の人間であり――この地に同行したのも、彼自身の理由によるものだった。
「――引き返すつもりか?」
静かな声でそう問いかけたのは、リヒトだった。
その言葉に、仲間たちの視線が一斉に老僧へと向けられる。しばしの沈黙のあと、老人はふっと笑みを浮かべ、凍える空気の中、温もりを感じさせる手をリヒトの肩に置いた。
「もう遅いよ。とっくに引き返す機会なんて逃してる」老僧はそう言って、肩を竦める。
「結局、私もお前たちと一緒に――地獄の底までついて行くことになりそうだな」
「そうか」リヒトは軽く笑みを返す。「そいつは残念だな」
そして仲間たちへと視線を移し、少し声を張った。
「他には? もし誰か、ここで降りたいなら――今が最後の機会だ」
「老爺の言うことはさておき、まだ遅くはない。誰もこの地に縛られてなんかいない。お前たちにはまだ、生きる人生がある。栄光よりも安全を選ぶなら、それを咎める気はない。なにせ――」
その視線が、仲間一人ひとりを捉える。
「この先に待つものは、お前たちのすべてを奪うかもしれない。だが、それでも共に進む者がいるなら――我らの名は刻まれる。世界最古にして、冒険者の女王ですら踏破できなかった《虚無の納骨殿〈ヴォイドボーン・カタコンブ〉》を制した者としてな」
一瞬の沈黙。それを破ったのは、ひとりの軽口だった。
「えっと、ボス? それって引き止めてるのか、それとも追い返してるのか、どっち……?」
「両方さ。でも特に伝えたいのは――“今ならまだ引き返せる”ってことだ」
そう言って、リヒトはドミーへと視線を送った。彼は“鉄壁”と呼ばれる盾役であり、87レベルのうちのほぼすべてを「守る」ためだけに費やしてきた騎士だ。仲間と死の狭間に立ち、壁となってきた男。
続いて、リヒトはネロを見る。彼はリヒトと同じく、騎士と魔術師のハイブリッド。違いは、リヒトが敏捷性に特化したスタイルなのに対し、ネロは圧倒的な力に重きを置いている。魔術師としての副職も、扱う属性も異なる。
さらに、ネティスとトーマス。魔導士と支援職。
そして最後に、ライラを見た。接近戦と戦場制御を担う武僧、ヴァーデンカインドの出身で、モンクとエレメンタリストの二重職。
その全員が、前を見据え――それでもなお、心のどこかで迷いを抱えていた。
そんな沈黙を破ったのは、やはりライラだった。
「この老いぼれですら一緒に来るってんなら、あたしが尻尾巻いて逃げるわけにはいかないわよね」
「おいおい、それはさすがに言い過ぎじゃろうて……」老僧がむくれ顔でぼやく。
「ライラに賛成だ」ネロが頷く。「俺は残る」
「俺もだ」
「オレもです、ボス」
「もちろん俺も。伝説に名を刻みたいんだ……いや、もう刻まれてる気もするけど。でもやっぱり、あの冒険者の女王みたいにさ」
「おぬしらがやり遂げれば、女王以上になるじゃろうよ。あの女ですら攻略できなかった《虚無の納骨殿》を制するんだからな。いやぁ、これはもう、昇格間違いなしじゃな……フフフ」
「……たしかに、そうだな」
仲間たちの決意を前に、リヒトの胸には安堵と痛みが入り混じった感情が押し寄せた。だが、彼が見せたのはただ一つの感情だけだった。
「すまない、皆。……こんなことを言って、済まない。覚悟を試すなんて、今さらだったな。本当なら、こんなこと言うべきじゃなかった」
彼は誰の返事も待たず、静かに身を翻し、霧の底へと続く斜面へ向き直る。
「……皆が来てくれるというなら、やるしかないな」
その瞳には、懐かしさと期待が宿っていた。かつて、仲間たちと初めてこのダンジョンに挑んだあの頃――星光旅団〈アストラル・ルミナリー〉を結成した、あの瞬間が、頭をよぎる。
新たな仲間たちに向き直り、リヒトは笑って言った。
「終わったら――一年分の宴、開くって約束してくれ」
「言ったな?」
「任せてください、ボス!」
「俺も行っていいかな?」
「お前は神官で、しかも老体だろ。年相応に振る舞え、ジジイ」
「みんな冷たいのう……」
そんなやり取りに、リヒトはくつくつと笑った。――この仲間たちも、かつての仲間たちに劣らず愉快だ。
最後の装備確認を終えた全員が、頷き合い、歩をそろえて――縁を越えた。
滑るように、霧の底へと身を滑らせる。
黒曜石の斜面は一切の足場を許さず、減速すらままならない。霧が、彼らを呑み込んだ。
音は消え、視界も意味を成さない。ただ引き込まれる。遥か下――地の心臓へと、古の巨神たちの見えざる手に導かれるように。
息を吸うだけで苦しい。空気そのものが重く、呼吸一つにもリソースを削られる。いや――実際に、HPがわずかに減少していた。
しかし、彼らの大半は自然回復力を持っており、その減少もすぐに回復していた。今の彼らのレベルなら、それすらも耐えうる強さがあった。
坂道が途切れ、空間が彼らを迎えた。
一人、また一人と霧の中へと落ちていく。もう滑っているのではない。ただ、落ちているのだ。だが、それは恐怖を感じるほどの速さではなかった。空気が抗っていた。重力が、この場所では迷っているかのように傾き、ねじれ、「上」と「下」の境界が曖昧になっていた。
そして彼らは、ふわりとした重みのない衝撃とともに着地した。まるで大地が受け入れることを一瞬ためらったかのようだった。
そこは、漆黒の広がりがどこまでも続く空間だった。
そして、すぐに気づいた。そこには――何かがいる。
角。翼。巨大な骨格。だが皮肉なことに、最初にその存在を感じたのは、視覚ではなかった。心臓だった。
盆地の縁では、微かな引力として感じられたあの感覚が、今やはっきりとした力となって彼らを圧していた。心臓の鼓動が遅くなるだけではない。血液が、重力に逆らえずに体内で引きずられていく。息をするたびに、それが足元の黒石に沈み込んでいくようだった。
そして、彼らの目に映ったものは――さらに恐ろしかった。
それは、黒曜石と死晶で彫られたような巨大な骨を持ち、肋骨は病的な紫の光を放つコアを囲むように広がっていた。霧がその身体に絡みつき、触れた場所から世界が歪む。
彼は吠えない。立ち上がりもしない。ただ、存在するだけで十分だった。
その存在感だけで、空気が、地面が、空間そのものが、ねじれていく。
「ボス……あれが、例の“クソ野郎”か?」
「ああ、間違いない。ヴァルソロク、《深淵重力竜》……このダンジョンの守護者だ。俺の仲間を葬った、あの化け物だ。」
一瞬の静寂。翼は半ば閉じられ、巨体はひび割れた廃墟の床に沈み込んでいる。その姿は、まるで何世紀も眠り続けていたかのようだった。
だが、最初の一歩が石を擦った瞬間――
その目が、完全なる同期で、開いた。
ゆっくりとでもなく、眠たげでもない。まるで神が目覚めたかのような、意識の全てを備えた即時の覚醒。
首を持ち上げると、骨が世界の重みを受け止めて軋んだ。
その知性が波のように押し寄せ、彼らを飲み込む――それは千年を超える存在が放つ意志。彼らを「対等な存在」でも「挑戦者」でもなく、「神の骨を這う蠅」として認識していた。
そしてその瞬間、本能が告げた。
――戦う前に、理解せよ。
七人全員が、まるで合図を合わせたように、自らの荷物に手を伸ばす。手の中に収められたのは、小さく光を放つ《鑑定石》だった。どれもが最高級品。これなくして熟練冒険者は戦場に立たない。
そして彼らの中には、あの怪物を正しく鑑定できるほどの《鑑定》スキルを持つ者は、一人としていなかった。
石が淡く脈動し、情報が彼らの脳へ直接刻まれていく。
冷たく、容赦のない文字列が意識に焼き付けられる。
レベル9以上の鑑定でなければ、ここまでの詳細は読み取れない。
そして彼らは、読んだ。
……すぐに、読まなければよかったと後悔した。
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【モンスターインターフェース】
名前:ヴァルソロク 《深淵重力竜》
レベル:111
種族:アンデッド重力竜
称号:
・墜ちた空の主
・災厄の先触れ
・深淵の暴君
・光を喰らう者
・重力の化身
・守護者
【ステータス】
H.P:420,445 / 420,445
M.P:740,555 / 740,555
S.P:368,827 / 368,827
防御力:320,783
攻撃力:460,250
【スキル】
・重力操作:Lv.15
・死晶領域:Lv.14
・特異点の吐息:Lv.15
・虚空の翼:Lv.12
・惑星崩壊:Lv.13
・深淵の咆哮:Lv.15
・次元震動:Lv.14
・魂の枷:Lv.12
・暗光視界:Lv.10
【アビリティ】
グラヴィトン・コア
永劫なる重圧
虚無の特異点
ブラックホール・ドミニオン
対魔結界(重力歪曲)
死晶重力波
死体回収
事象の地平面
星幽断裂
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誰一人として、平静を保てなかった。
表情の歪みはわずかなものから全身がこわばる者まで――それは、自らの死亡通知書を直視した者にしかできない反応だった。
最初に沈黙を破ったのは、ラエラだった。乾いた声で、無理やり冗談めかして言う。
「ボス、悪く思わないでね。けど、あんたとその昔の仲間……あれに挑んだとか、バカでしょ。」
前線に立つリーダーは、半ば凍り付きながらも、《鑑定石》を握る手を下ろし、苦笑した。
「やっぱ、そう思うか……」
「うん。」ラエラは、誇張した動きで石を丁寧にしまいながら呟いた。「で、私たちも同じかそれ以上にバカ。だって、今まさに、同じことをやろうとしてるんだから。」
「もう後悔してるのか?」そう尋ねたのは、冷静を装った神官。その手は微かに震えていた。
「正直に言えば……うん。」ラエラは笑ったが、その目は笑っていなかった。「でも、約束したからね。行こう、みんな。」
その言葉とともに、《虚空生まれの大墳墓》攻略戦が始まった。
これは、フィーンドフェル最古のダンジョンを巡る戦い――
ひとつの時代の終わりと、新たな時代の始まりを告げる戦いだった。
《ダンジョン・クロウリングの時代》――
それは、いかなるダンジョンも「攻略不能」などという言葉で片づけられなくなる、新時代の到来だった。