71.春女の愛
71.春女の愛
自宅の応接間で通話を切った山田鳩太郎がスマートフォンをテーブルに置き、ピノ・ノワールをグラスに注ぎ飲んだ。
(あの墨月に二度も借りを作ってしまうとはな……)
大理石のテーブルの上のスマートフォンを見た。僅かに濡れていた。
机上にあるティッシュで丁寧に拭いた。息を吐き、さらに磨く。
(泣いたのを墨月に知られたか……)
今はもうどうでも良いことだった。
あの夜から春女はいない。
結婚してしばらくになる。
何かが最初とは違っていた。何かが。
甲斐性はあっても、休みに家にずっといるような人間ではないのは春女も知っていたはずだ。
(何が二人のズレを生んだんだろう)
鳩太郎には分からなかった。
いつもの自分のソファーに座った。心地よく身体を包んだ
バカラがルビー色に光っていた。光の奥にスタインウェイ&サンズが歪んで見える。
グランドピアノの上に楽譜があった。
ずっと置いてあった。
(ずっと。……いつから?)
鳩太郎が確かめた。
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの「ピアノソナタ ハ長調」(K.545)だった。
中を開くと写真が零れ落ちた。
春女の紙焼きだった。
いっしょに映っているのは可愛らしい男の子だった。
背景はどこかの会場だった。
(どこかで見たような……)
思い出した。
(エンジェルだ。春女が「わたしのかわいい天使」と言っていた少年だ)
天才ピアノ少年。
(……そういえばいっしょにコンサートに行く約束を破ったことがあった……)
写真裏の日付から棚のコンサート・パンフレットを確かめる。
可愛らしい天使が映っていた。写真の少年だった。
(……何でもないことだった)
いっしょに行くのが照れくさかったのだ。ただそれだけだった。だがそれを正直に言えなかった。
(この天使は春女の大のお気に入りだった)
それも気に入らなかった。単純なことだった。少年に妬いた。それを認めたくなかったのだ。
(なんて単純な……)
鳩太郎は楽譜がいつからここにあるのか記憶になかった。
(もしかしてあの時からずっと……あった……んだ)
ソファーに倒れるように座った。ボトルの残りを注いだ。
(今日を生きなければ明日がない。だから春女は……)
もう二度と会えないだろう。
グラスを空けた。
(会えない。死んだんだ。会えるはずがない。いま生きているのは自分とは何の関係のない女だ)
墨月はその名を語らなかった。知っていても教えないだろう。ただ一言、こう言った。「天国にいる人を見守る愛情もあります」と。
(アイツは一流だ。自分よりかなり若いが……何がアイツを……他人のことを考えるのは止そう。暫く喪に服したい)
春女を今さらながら愛していると実感できた鳩太郎だった。
春女に今さらながら愛されていると実感できた鳩太郎だった。
(あいつと結婚できて幸せだった。今でははっきりそう言える。父と同じことをしてしまった。母も……母もそうだったのだろうか……)
生きてさえいれば、愛情に気づく時も来る。
しばらく春女との記憶の波に抱かれたい鳩太郎だった。
スマートフォンから発信した。
水滴。
涙を拭う。
「土田か……灰原を戻せ……」
切る。
大理石のテーブルに置かれた春女の写真が泣いていた。
春女といっしょにいる天使がもらい泣きした。




