26.藍河の苦悩
26.藍河の苦悩
ホンダの藍河が納車を終え、熱いアール・グレイを自分のために注いだ。
車庫がぎりぎりだったが、親しい墨月弁護士が上手にしたようだ。何をどうしたかは聞いていない。
営業実績のボードを見上げる。
八台。
新車八台。鮎川の中古車一台は別欄に既納客紹介の印が書かれていた。
営業所長が言った。
「なぜ中古車で納車式なんだ」
この営業所では、新車しか認めていない。
「要望ですから」
藍河が平然と言った。それは顧客の要望ではなく、墨月のそして自分の要望だった。
この疫病や隣国の戦争といった不遇の時代にどうやって顧客を満足させるか、それは全ホンダの、いや全自動車販売会社の願いだった。
「花まで用意したのか」
「当たり前でしょう。納車式なんですから」
「経費には……」
「自費で構いません」
藍河は言った。
説明したいが、今の所長には理解できないだろう。
ホンダ本社も。
先の事件も尾を引いていた。
今日ホンダが外資に買収されても藍河は驚かない。
それほど危機的な時代だと経営陣は認識している。
だが、その危機の本質を理解できていない。致命傷だった。
前の営業所で部長に是正を提言したが、結果は左遷だった。
所長になるのならまだしも普通の役職で、拠点を移動したら人間関係を一から築かなくてはならない。
(大変な時代だ……)
世論と正しい未来は不思議といっしょになることはない。
(……しかし、さすが所長だ。しおりさんの前では顔に出さない)
個人の主義主張はどうあれ、ベクトルはお客さまに向いている。
しおりに事故マニュアルを渡した。ダッシュに入れる。「必ず見てください」と言った。
書かれているのは、藍河自作の事故に遭ったときの安全マニュアルだ。
一、まず、深呼吸。落ち着いて。
二、自分の身体を確認して、怪我をしているかどうか。
三、大丈夫なら、エンジンを切る。
四、相手の確認、容態など。必要であれば救命措置。
五、…………。
再度読まれぬ事を願う藍河だった。
後日、淳からコピーさせて欲しいと言われ、安全の事について色々話しあった。事故は身近だ。
所長のために熱い珈琲を入れる。砂糖は一つ、ミルクも一つ。自分のカップを持ちながら渡した。
「墨月先生の紹介か」
所長が聞いた。
「ええ」
「幾らも残らなかったな」
利益だ。
「点検で取りますよ。今年は八十パーセント目標です」
普通は二十八から三十五だ。点検など入れる人間などあまりいない。
「行政書士から連絡があった」
「車庫ですか?」
「何かしたのか?」
「車庫は墨月先生ですよ。僕の仕事じゃあありません。契約書もそうなっています」
「どんな人間なんだ。紹介ばかりで本人は……」
「車椅子ですよ。それに無敵の弁護士サマサマです」
「弁護士に、行政書士からクレーム?」
「それも変ですね。聞いてみます。もう納車してしまいましたが」
「事後承諾か。いつもの」
「利益は上げています。点検も。問題ないはずです」
「新車台数が足りない」
「そのうち車業界も登録台数のシェアより、利益シェアに移行する時代になると思いますがね。パイの取り合いより、パイの厚みを。悪辣なことをしなくてもいいような」
「私は、お前みたいに賢くなれん」
「十年前に言いました。――いずれ登録台数など言っていられなくなるような厳しい時代が来ると。その間に……」
「総合収益ディーラーか」
「……そうです。いずれ新車販売だけでなく、点検・車検、修理など顧客管理が優先された時代に必ずなります。そして、そうなった」
「予言者か何かか? お前は?」
「発信元は墨月先生です」
「天才か……」
「彼の前では誰もが時代おくれです」
藍河が飲み干した。
奥で軽く洗う。
女性スタッフが奥にそっと来た。
「藍河さん……お花大丈夫でした?」
「僕が払うから伝票くれるかな。花屋には直接現金を渡しておいて」
「写真はどうします?」
頷く女性が続けて聞いた。
「あっ……聞いてないな。言われたら払うわ。そこまで言わないと思うし。いつも通りで」
「はい、わかりました。……好かれてませんね、藍河さん」
「そう。正直なことをすると障害は多いもんだからね。……呼んでるよ」
女性が振り返るが誰もいない。
遠くで呼び声が聞こえた。
「いつもながらよく聞こえますねえ。行ってきます」
「はい」
流しの中の無銘のマイセンを見た。少し欠けていた。
欠けた部分がゆらいでいた。




