予兆 - 10
愚直に両膝に手をやってしゃがみ込んだクレストの顔面を、男の横蹴りが襲った。
片脚を軸足にしての蹴打。助走も何も無く、座った静止状態からの純粋な筋力だけを頼りにした足技が、易々とクレストの耳から頬、鼻にかけてを切り裂いた。
翻るブーツの先で、仕込み刃が光を放つ。
「鋲!!」
分厚い踵からスパイクの役目を果たしていた釘が飛び出し、クレストの眼球を貫いた。一本はぱっくり開いた傷口に。もう一本は人でいう頸動脈の位置に刺さっている。
男は蹴りの勢いを殺さず、宙返りに近い動きで身を反転させた。蹴った足をそのまま軸足に入れ替えて、片足飛びで数歩分を飛び退ると、後も振り返らずに走る。
できれば脚を潰したかったが、あの状況から尚、攻撃箇所を選べる相手ではない。
「おおい、待って……」
呼ぶ声を無視して、男はひたすら森林を駆けた。
案の定、顔も喉も潰したってのに効いちゃいない、普通に呼び止めてきてやがる。
攻撃は一切が無効。煙幕も照明も使い切ってしまった。
(逃げるしかないか)
最小距離を直感で選び取って、木々の隙間を縫う。
標的を目指してではなく、森の外へ。一旦態勢を立て直す。
しかし次があるとしても、侵入を阻む結界があの程度で済むものか、入れたとして、勝てる見込みが僅かでもあるのか。
何よりも、目的を果たせず這々の体で逃げ帰ってきた自分に、次のチャンスが与えられるのか。
今は考えても仕方ない。逃亡に暗い思考は不要だ。
「うわっ!?」
踏み出した足がガクンと引かれ、男は前方に転倒する。
馬鹿な、転ぶなんて。信じられない思いで足を見れば、靴先が、アーチ状に生えた根に引っ掛かっている。
踏み出す前に、こんな物は無かった。
男の目の前で、地面が盛り上がっていった。太い根が波のようにうねる様は、意思を持った大蛇のようだ。根が、木々の幹が、生き物じみて捻くれ曲がり、男の進もうとしていた進路を塞いでいく。
ぽかんと口を開けて、男はそれを眺めているしかなかった。
「待ってくれって言ったのに……」
度重なる攻撃に、さすがにやや不服そうに、クレストがぼやく。
のろのろと、尻餅をついたまま男は振り返った。背後は、変形した樹木の壁によって塞がれている。逃げるなら余程の大回りになるが、左右どちらに這っていく事も、この黒衣の男は許してはくれないだろう。
他の逃走経路を探りにかかる男の目線に、もうやめようよ、とクレストは言った。
常に疲れた声ではあるが、今ばかりは幾らかの力に満ちている。
「俺はやっと、一個の答えを得たみたいだよ。
瞼の裏の闇に、ぼんやりと浮かびあがる形はあった。でもそれはあんまり荒唐無稽で、掴もうと手を伸ばせば、たちまち散り散りに消えてしまう。
望み通りに物事が動いてくれるなら、誰も苦労なんてしやしないんだ」
詩歌じみた独白が終わると、クレストは男の目を見据えて、いつになくはっきりと言った。
「聞いて欲しい。
俺は、フィリアを人の世界に帰したい。
これまでの辛苦全てから逃れて、幸福な再出発ができるように」
「……そうかよ、頑張りな」
「ずっと考えていた。
俺達では、どうあっても人の世界の歩みには追いつけない。
表面をなぞって眺めるのが限界で、細部なんて知り得ない。
そんな身でフィリアを戻そうとするのは、川で捕まえた魚を海に放つようなものだ。……いや、少し違うかな、これは」
「どうでもいい!」
この頃には、男は立ち上がっていた。
木の壁に背を預けるのは危険だ、どう動いてくるか判らない。拘束される可能性がある。壁から距離をある程度とって横に移動しつつ、左腕を、肩と平行に前へ突き出した。クレストは動かない。
手をぐいと上へ反り返らせる。結界を破る時に、針が飛び出したのとは逆側の手。
低く空気を唸らせて、手首の下側から矢が放たれた。
超小型の仕込み型クロスボウ。悪あがきでしかない、苦し紛れの攻撃が、ざしゅ、とそれでも正確に左胸に突き刺さる。もうクレストは身動ぎさえしなかった。矢を抜きもせず、喋る。野牛一頭動けなくできる強さの麻痺毒が注入される仕組みなのだが、無意味だろうなと男は息をひとつ吐いた。
「協力者が要る。人の世界に、特に反則技に精通した者が。
悲しいけれど、フィリアは既に人の正道を外れている。それを正道に戻すには、誰も知らない裏道を知り、かつ信頼できる同胞の手が必要だ」
「……だからな……お前は何が言いたいんだよ……!」
「今の雇い主を裏切って、俺に協力してくれないかな」
男はぽかんとした。
それこそ、蠢く樹木が道を塞いでいったのを見た時よりも。
「一回あんな事のあった森なのだから、君が入ったまま戻らなくても不思議はない。戻ったら戻ったで、夢見心地でさまよっていたら、時間が経過していたと言えばいい。……嘘はついていないよ。実際、そういう結界だったのだからね。もちろん張り直しもさせる。
暫くここで策を練って、森を出てからは、フィリアを逃がす為の手筈を整えて欲しい。逃がすだけじゃなく、その後も人買いの手が及ぶ事なく、平穏無事に人生が送っていけるような、だよ」
「本気か、てめえ……」
「辛い思いをしてきた子なんだ。
俺は、あの子を幸せにしてやりたい」
空気に沁み渡っていくようなクレストの声。それを聞いていた男の瞳が、かつてなく冷えていった。吐露された心情を疑った訳ではない。クレストが本心から言っていると理解したからだ。
本気で、商品の少女を運命から掬い上げたいと。救ってやりたいと。
「御託はそこまでか」
「君――」
男の纏う空気が変わった事に気付いたのだろう、戸惑ったように瞳が揺れる。
だが、もう遅い。触れてはならない所に触れてしまった。ひとつの弱き対象に向けられる、真の慈愛というものに。
男は声に出さずに笑う。勝ち目はもとより逃げる手立ても失われた相手から、逃げるという気は消えていた。切り札は最後に取っておくべきとはいえ、こうなると最初に使っておけば良かったと思わないでもない。
いや、相手がこいつなら、いつ使おうと同じか。
呆れるほど単純明快な奥の手。一年分の稼ぎ全てを注ぎ込んで手に入れた、一発限りの限界火力包囲弾。彼自身の声と体温、血液、アンチキー詠唱の四重認証によってようやくロックが解除される。使いたくないのは、自分まで巻き込まれる危険があるのと、これを使ってしまえば本当に後がなくなるからだ。後は死ぬしかない。
次に死を控えた物体を、男は縁起担ぎとして持ち歩くのを好んだ。使わなければ死は訪れないとでもいうように。所詮はお守り。奥の手は無いものと考える。常に奥の手に頼っているようでは、頭も技も鈍っていくだけだ。
それを、今、使う。親指の先端を噛み切り、一見しただけでは半透明のガラス玉に押し付ける。
「くたばりやがれぇ!!」
その罵声こそが詠唱だった。
男はガラス玉を握ったまま、クレストに突撃する。
敵は速い。確実に当てるには、自爆じみた手段を取るしかないだろう。
だから使いたくなかったんだよと、男は自嘲した。
握った拳を顔面に叩きつけようとして、相手の動きさえ見切れずに掴まれた。握られた手首に凄まじい力が掛かり、男の意志に半して掌が開く。ガラス玉が零れ落ちる。しかし手遅れだ、解除は済んでいる。
ざまあみやがれ。
してやったりといった笑みが固まる。クレストが手首を離し、ガラス玉を掴み、もう片方の手で男を突き飛ばした。
突き飛ばした、どころではない。大砲で撃たれたような衝撃だった。
屈強な男が、軽々と宙を飛来する。その寸前、男にはクレストがガラス玉をマントの内側に抱き込むのが見えた。
丁度木の壁にぶつかって、落ちる。呻いて閉じた瞳の、瞼の裏が真っ赤に灼熱した。轟音。
「……っつ!」
暫しの後、男は目を開けてよろよろと立ち上がる。
土が丸く抉られていた。木っ端微塵に吹き飛んだ痕を、歓声をあげるのも忘れて呆然と眺めていた。
不発ではない。爆発の威力は最大限に殺されたと見るべきだろう。奴が自分を庇い、その身を盾にした為にだ。
「無事なら、なにより」
男は下を見る。
爆風で吹き飛ばされたのであろう、すぐ足元に落ちた唇から、数本の前歯が覗く。
頭もない、顔もない、喉もない。半分ばかりの唇が、不恰好に動いて言葉を紡いでいる、あの男の声で。
男は喚いた。喚いて、喚いて、喚きながら肉片を踏みつける。
何度も、何度も。小さな肉の潰れる感覚が、そのたび靴底に走った。
「はあ、はあ……」
「…………」
「はあ……」
「……あの……もうその辺で……」
声のする方へ、男は汗に塗れた顔を向ける。
奴が立っていた。黒ずくめの、長いマントに膝下までを包んだ、猫背気味の頼りない姿勢のまま。火は、一切他に燃え広がっていなかった。草と土の焦げる匂いが漂っているだけだ。
男が脚を退けると、もうそこには何もなかった。踏み潰された草の青臭い匂いが、ぷんと鼻を突く。
足に、力が入らない。手を打ち尽くしたというだけでなく、ここにきて遂に男の気勢は挫かれ始めていた。ここまで持続したという事が、驚異的なのだが。男の呟く声は途方に暮れている。
「……なんだ……なんなんだ、お前は……」
「俺は世界そのものだ」
クレストは迷いなく答えた。




