予兆 - 11
「君ほどの人間の事だから、この森にまつわる伝承も呼んできたんだろう?」
「はじまりの吸血鬼……か」
「そうだ。世界を殺す事はできない。それこそ世界を破壊してしまわない限りは」
世界。
それは確かに一人の人間が壊すには余る。
へっと男は、息を切らせつつ獰猛な笑みをクレストに向けた。
「このトシになって絵本を読む羽目になるたぁ思わなかったがな。
寝る前に、優しくお伽話を読んでくれるような親がいる暮らしはしてこなかったんでね。いればこんな仕事はしちゃいねえ」
「その仕事で、一人の子供を助ける事ができる」
「ひとつ教えといてやる、助けられるからこそ――オレはそういうのが大ッ嫌いだ!!」
男が、今まで一度も手にしなかった武器を抜く。
それは複数の短い棍を、中央に鎖を通して繋ぎ合わせた物であった。
男が腕を一振りして鎖の端を引くと、じゃらりと舞い上がった棍が、瞬く間に一本の連なる形に変化を遂げる。ばち、ばち、ばちと金属音を立てて、留め金が閉められていく。多節棍。軌道が極めて読み辛い上に、足を狙う飛び道具としても有効な武器を、男は完全な白兵戦用へと持ち替えていた。
身長程もあるそれを肩に担ぐように構え、は、と短く気合を入れる。
小細工はもう無い。あってもこんな奴との戦闘には使えない。
近接戦が最も向かないと思われる相手への、単純近接戦。
そして、この類の潜入任務向きではないと知りつつ、男が最も得意とする戦法。
クレストは止めるでもなく宥めるでもなく、ただ相変わらず少し悲しげに、物憂げに、そんな男を見ていた。
男が跳ぶ。
斜めからの振り下ろしを、クレストは手の甲で弾いた。
自ら攻撃はせず、防戦に終始している。それでも凄まじい腕力が、打ち付ける棍から伝わってくる。
相手は守っているだけだというのに、押し負けているのが判る。
実力を欠片も出しておらず、手加減されているのが判る。
どうして手加減する、オレは敵だってのに。
ああ、オレを殺しては困るからか。オレの力が必要だからか。その力でガキを助けたいからか。生まれてからずっと不幸だった可哀想な子供を、この世界が、この世界そのものだと名乗る奴が、助けようと。
怒りが男の脳を染める。逆上しながらの上段は、胸から下をガラ空きにするのに充分であった。
「ぐあっ!!」
クレストの一撃が入る。
並の人間なら、それだけで無力化するに足りる重さだった。
腹を伝って爪先にまで痺れが走る。吐きそうだ。
踏み留まろうとした足が、泥酔者の如くふらふらと泳ぐ。横に薙ぐだけの足払いで、どさりと男は地面に倒れた。
「……もう、やめて欲しい」
「………………」
「戦うのをやめて、俺に力を貸して欲しい。フィリアを救う為に、君の力を――」
「なんでだ……」
「……?」
「……オレを、オレを助けてくれる奴は誰もいなかった!! 誰ひとり!! 誰ひとりだ!!
なのになんで、同じく不幸なガキを助ける為に動かなきゃならない!!
なんで、世界自らが助けに動いてるんだよォ!!」
男が叫ぶ。
その迫力に押されてか、クレストも黙っていた。
「何が世界だ――」
泣いてはいない。
だが男の声には、嗚咽が混じっているように聞こえた。
「誰も、ガキのオレを助けてなんざくれなかった。
誰も守ってなんざくれなかった。
苦しむオレに、世界はたった一回の手さえ差し伸べちゃくれなかった!
飢えを凌ぐパン切れ一枚も、腐ってく傷を拭う為の布も!
傷口にたかる虫を一匹ずつ摘み取った事があるか。その虫さえ食うしかなかった気持ちがわかるか。世界なんてもんがどれだけクソッタレだったか、オレは誰より知ってるんだよ!!」
「………………」
「なんで、なんでお前みたいな奴がっ!!
お前みたいな凄い奴が、たった一人の人間を助ける為に動いてやがるんだァッ!!」
慟哭は擦り切れていた。
痛む喉、割れる声にも構わず、男はクレストに向かい叫び続ける。
「なんでだよ……」
風船が萎むように、男の声が途切れた。
だがその先は、声にされなくとも判る。
なんで、その子供は助けられようとしてるのに、オレの事は助けてくれなかったんだ。
項垂れる姿には、クレストと戦っていた先程までの荒々しい覇気は微塵も窺えない。今ならば、戦闘訓練などしていない全くの素人でも容易に殺せるだろう。
「……すまなかった。君がそんなに苦しんできた事を、俺は知らなかったんだ。
知る術はなかったし、助ける術もなかった。
君の言う通り、世界と等価である事なんて何の役にも立たない。
世界は個の為に何もしてくれない。世界には何もできない。だから――」
クレストは男の元に近寄る。
「今からで良ければ、君の事も俺が守ろう」
「ふざけんなよ――」
男の顔が上がった。歪んだ目がクレストを見上げる。
慟哭の間もこれだけは手放さなかった棍を、腕と腹の筋力だけで一直線に突き出した。棍の先端は鋭く尖らせている。男の技量ならば、槍に等しい扱いが可能だ。
狙い通りに、それはクレストの胴体を貫通した。
男が腕に力を込める。引く。抜けない。
クレストが棍の上に手を乗せた。力を込めているとも思えない指先からヒビが入り、棍全体に広がっていく。
希少なダマスクス鋼が、砂糖菓子のように砕け散った。
ほっそりした指が鎖を握って引く。黒鉄の鎖が、じゃらじゃらと腹に穿たれた穴から抜ける。
クレストは壊れた棍を捨てようとして、ふと手を止めて、横にそっと置いた。
一部始終を男は見ていた。
終わった。
負けた。
「殺せよ」
「殺さない」
「殺せ」
「殺さない」
「殺せっ!」
「殺す訳にはいかない」
男の形相が憤怒に彩られる。
舌を噛み切ろうとした瞬間、クレストの爪先が鳩尾にめり込んでいた。
激しく男が咳き込む。
「げほっ、ゲホッ、げっはあっ!!」
「――死なせる訳にもいかない。
すまない。やっと、俺にとっては君がやっと掴んだ希望なんだ」
「……希望に対する扱いじゃねえな、これは。
たいしたお持て成しだ。てめえの言う守るってのは、怪我人の腹に蹴りをぶち込む事か」
「すまない……」
クレストはただ、しみったれた顔をして詫びるのみ。
つくづく化け物だと男は思った。蹴られたばかりの箇所に手を当てる。苦しいが喋れない程ではない。
「初対面の、ましてやこんな仕事をしに来た奴に任せていい事じゃねえだろ。
裏切った奴がまた裏切るなんて、性懲りもなく続いてきた人間サマの歴史だ。
表面上はあんたに従うフリをして、いざ森を出れたらさっさと逃げるたぁ考えられねえのか?」
「君はそういう真似はしないだろう」
「あんたの申し出を受け入れて、今の依頼主を裏切るような奴が?
出発点からして破綻してんだよ、あんたのその言い分は」
男は懐を漁る。無性に、酒か煙草が欲しい。
「勘だ」
「ああ?」
「君は実力以上に、ただの悪党とは違う気がする。
目が、声が、言葉が、君を取り巻く要素の何もかもが俺にそう告げている」
「カンかよ、くっだらねえ! この世で最悪に一番アテにならねえ感覚だ!」
「その世界としての、俺の勘だよ」
忌々しい代物を、また持ち出す。
男は鼻を鳴らした。
「はっ、また世界、世界、世界、世界か!
次は何を出すよ! お日様か お月様か、素敵にきらめく星空か、どうせなら持ってる全部を出してみろ!」
絶叫した途端、男を取り囲む世界が変わった。
本能が、男の激高すら制止して息を飲ませる。
何だ。
男は気付く。あの吸血鬼が、目の前にいない。
だがそれだけではない。奴の姿が一瞬で消失したという他に、何かが変わった。
音か。違う。温度、違う。風、違う。色。近いが違う。
光、そう、光だ。
梢から差し込む陽光によって作られる、地形の陰影が失われている。
草花も、樹木も、石も、あらゆる方向から絶えず注がれる光に、一切の影を帯びぬその物ありのままの姿を、そこへ映し出していた。
不可思議な光景だった。
おそるおそる、男は自分の手を見た。幾重にも胼胝のできた厚い皮膚は、柔らかなオレンジ色に包まれていた。
しかしそれもすぐに、別の色へ移り変わっていく。若葉そのものの緑へ、そして流れる清流の色へ。
「こっちだ」
声に空を振り仰ぎ、男は絶句した。
確かにそこにあった筈の空を、無数の色が覆っていた。
赤、黄、青、緑――見る者の心を空白にする程の色達が、空のあった空間を埋め尽くしている。
無限の色のうねりを、同じ色をした何か大きなものが、悠然とたゆたっていた。
世界全てに覆い被さるように広げられた、その形。ひときわ巨大なその二枚が、翼である事は疑いようがない。
竜。ドラゴン。魔物に通じる者達の間でさえ、ほぼ幻と謳われる生物。
男もその姿だけは知っていた。竜は伝説として、はじまりの吸血鬼などより遥かに名の知れた存在であるのだ。
そこで男は、ひとつの勘違いに気付く。はじめ、色の中を竜が飛んでいると思った。だがそうじゃない、あの色全てがあいつなのだ 光と見紛う色の洪水こそが、あの竜の体と命そのものなのだ。
「真竜アルカンシェル。俺の唯一の肉親のひとり。
君達の語り継ぐ、”はじまりの吸血鬼”のひとり」
無限の色のドームに、クレストの声だけが響く。
どこか厳かにさえ聴こえる声の、その持ち主の姿を男は思わず探す。
が、この中では何より目立ちそうな艶のない漆黒は、どこにも滲んでいなかった。
「しかし、これは偽物だ。
本物は一欠片を俺の中に残して、この世界を旅する風に化けてしまった。
見る事はできない。言葉をかわすこともできない。触れる事もできない。
俺にはもう、真の意味で仲間と呼べる存在は誰もいないんだ」
穏やかな声は、深い諦観と、寂しさとを感じさせた。
「だからこそ、掬いあげた存在は大切にしたいんだよ。
たとえそれが一時の気紛れでも、不公平でも……」
見上げる男の前で、竜の形が崩れていった。
何の余韻も残さず、数瞬後には、ありふれた山林の光景が戻ってくる。
そして、忌々しい黒衣の長身も、元通りそこに立っていた。
偽物だと、奴は言った。おそらく形だけ真似て作り出したか、幻術に近い手段でイメージを投影したのだろう。
ひとまずそのどちらでも、男にはどうでも良い気分だった。眼球に直接あの色達がへばり付いてしまったかのように、頭の奥がチカチカと明滅している。
「お願いだ、俺の大切な子を助ける為に、どうか君の力を貸して欲しい」
また、クレストが頭を下げた。
男は、どさりとその場に腰を下ろした。今日だけで何度、この単純動作を繰り返した事か。慌ててクレストが駆け寄る。
「だ、大丈夫かい?」
「大丈夫に見えるのか、阿呆。
そのお喋り下手な口を動かすのをやめて、まず休ませろ――」
介抱したものかどうか、男と自分との間をウロウロさまよっていたクレストの手が、ぴたりと止まる。目を丸くした事で幾らか様になったその顔を、さも憎々しげに睨めあげて男は言う。
ああ本当に、このツラに煙を浴びせかけてやれる煙草が欲しい。
「あとオレの名前はウィルだ。覚えとけクソ吸血鬼」
そこで精神と肉体の限界に達した男は、ばったり後ろに倒れると気を失った。




