第3話 眠れない夜
-Father Side-
娘が寝たあと、リビングのテーブルに置かれたカタログを手に取った。
昼間、SUBARUでもらってきたものだった。
レガシィのカタログ。
その下に、もう一冊。
青い車が表紙に載っている。
BRZ。
手に取ったのは、そちらだった。
「…………」
別に、買うつもりはない。
今日だってレガシィを見るためにSUBARUへ行ったのだ。
今の車もずいぶん乗った。そろそろ買い替えてもいい。
だったら次も、家族四人で普通に使える車がいい。荷物が積めて、後ろにもちゃんと人が乗れて、遠出をしても困らない。
レガシィなら何も問題はない。
一方で、BRZは二ドアだった。
後ろの席は、見るからに狭い。荷物だって、それほど積めそうにない。
十二歳と十歳の子どもがいる父親が、わざわざ選ぶ車ではない。
そう思う。
思うのだが。
カタログを開いた。
青いBRZが、大きく載っていた。
昼間、その車を見つけた瞬間の、あんねの顔を思い出す。
「お父さん、これがいい」
まさか、娘の口からそんな言葉が出てくるとは思わなかった。
あんねが車に興味を示したことなど、これまで一度もない。
自分だってそうだった。
車は必要だから乗る。
それ以上でも、それ以下でもない。
だからこそ、あの顔が妙に頭に残っていた。
青い車を見つめて。
運転席に座って。
届きもしないペダルへ足を伸ばして。
ハンドルを握って笑っていた。
あんなに嬉しいものなのか。
車って。
もう一枚、ページをめくった。
*
翌日。
昼休みに、職場の後輩に何気なく聞いてみた。
車が好きな男だった。
以前から、車を買い替えるなら何がいいだの、新しいタイヤがどうだの、聞いてもいない話を時々してくる。
こういう時くらいは役に立つかもしれない。
「BRZって、どうなんだ?」
後輩が顔を上げた。
「……BRZ?」
「うん」
「先輩が?」
「なんだよ」
「いや」
後輩は笑った。
「先輩の口からBRZって単語が出るとは思わなかったんで」
失礼なやつだ。
「昨日、スバル行ったんだよ。レガシィ見に」
「はい」
「そしたら娘がBRZ見つけて、これがいいって」
「最高じゃないですか」
返事が早かった。
「何が」
「娘さん」
「十二歳だぞ」
「なおさら最高ですよ。俺ならBRZにします」
「お前の車じゃない」
後輩は笑っている。
相談する相手を間違えたかもしれない。
「四人家族なんだぞ。二ドアだし、後ろ狭いだろ」
「でも四人乗りですよね?」
「そういう問題じゃないだろ」
「子どもが小さいうちならいけますって」
「十二歳と十歳」
「いけます、いけます」
何を根拠に言っているのか分からない。
「で、買うならMTですよね?」
「なんでそうなる」
「BRZですよ?」
「答えになってないぞ」
「MT乗れないんですか?」
その言い方に、少しだけ引っかかった。
「いや。乗れるよ」
即答してしまった。
「じゃあMTでいいじゃないですか」
「最後に乗ったの、だいぶ前だけどな」
そう言ってから、記憶をたどった。
実家の親の車がマニュアルだった。
免許を取った頃には、それを借りて乗っていた。五速までだった。
坂道発進で何度か失敗したこともある。それでも慣れてしまえば、特別なことだとは思わなくなった。
その後、自分で車を持つようになってからは、ずっとATだった。
最後にクラッチを踏んだのは、いつだろう。
「一回乗れば思い出しますって」
後輩は簡単に言う。
「そんなもんか?」
「そんなもんです」
ずいぶん無責任だった。
しかし。
乗れないわけではない。
たぶん。
「試乗してみたらいいじゃないですか」
「だから、買うとは言ってない」
「はいはい」
「本当に」
「分かりました」
絶対に分かっていない顔だった。
*
その夜。
パソコンの前に座った。
検索窓に文字を入れる。
BRZ 後部座席
検索。
やはり狭い。
分かっていたことを確認しただけだった。
大人が長時間座るには厳しい。
だが、子どもなら――。
十二歳と十歳。
今なら乗れる。
では、三年後は。
五年後は。
そこまで考えて、手が止まった。
買うと決めてもいない車の五年後を、俺はなぜ心配しているんだ。
検索窓に戻る。
BRZ 実用性
読む。
また検索する。
BRZ 燃費
読む。
BRZ 6MT
読む。
気がつけば、調べる項目が増えていた。
横に置いていたカタログも開く。
6MT。
昨日までなら、ただの記号だった。
今は妙に気になる。
六速マニュアル。
実家の車は五速までだった。
六速なんて必要なのか。
そう思いながら、シフトノブの写真を見る。
クラッチを踏んで、一速に入れる。
アクセルを少し踏んで、クラッチをつなぐ。
昔は考えなくてもできた。
今でもできるだろうか。
できるとは思う。
たぶん。
試乗して、最初の信号でエンストする自分を想像した。
助手席には、あんね。
「…………」
それは嫌だな。
いや。
かなり嫌だ。
ページをめくる。
S。
R。
RA。
値段も違う。
装備も違う。
RAは――。
装備表を少し見て、次へ進んだ。
これは違う。
Rなら十分だろう。
だが、昼間ショールームに置いてあったのはSだった。
青いボディに、大きなホイール。
フォグランプもついている。
見比べる。
R。
S。
もう一度R。
そしてS。
差は三十万円ほど。
安くはない。
だが、何年乗るかを考えれば――。
「…………」
だから。
まだ買うとは決めていない。
俺は何を真剣に比べてるんだ。
その時、廊下から足音がした。
「まだ起きてるの?」
妻だった。
「うん。もう寝る」
「そう」
妻の視線が、一瞬だけパソコンの画面に落ちた。
そこには青いBRZが大きく映っている。
つられて画面を見る。
それから妻を見る。
何も言わなかった。
そのまま寝室へ戻っていく。
「…………」
なんとなく、言い訳をする機会を失った気がした。
まあ、いい。
再び画面へ向き直る。
ブラウザを閉じようとして、ふと思い出した。
昨日、妻が言っていた。
――高橋涼介みたいでいいんじゃない?
誰だ、それ。
その時は聞き流した。
検索窓に文字を入れる。
高橋涼介
検索。
漫画の登場人物らしい。
医学生。
白いRX-7。
赤城。
そして。
白い彗星。
「…………」
しばらく画面を見た。
妻は、これを知っていたのか。
それも意外だった。
それより。
白い彗星。
昼間のBRZが浮かんだ。
鮮やかな青。
だったら。
青いBRZなら。
青い彗星。
「…………」
おいおい。
何を考えているんだ、俺は。
ブラウザを閉じた。
*
数秒後。
また開いた。
今度はBRZの画像を見た。
青。
やっぱり、あの色がいい。
そこまで考えて、また手が止まった。
「……俺が?」
思わず声に出た。
昨日まで、青がいいと言っていたのは娘だったはずだ。
いつから俺まで青を選んでいる。
時計を見る。
十一時を過ぎていた。
もう寝よう。
十分調べた。
そもそも、買うつもりで調べていたわけでもない。
車を買い替えるのだから、候補について知っておくのは当然だ。
そう。
候補。
いつの間にか、BRZは候補になっていた。
パソコンを閉じた。
レガシィの方がいい。
普通に考えれば、そうだ。
四ドア。
後席も広い。
荷物も積める。
家族四人で出かけるにも困らない。
何より、買ったあとで「やっぱり不便だった」と後悔する可能性が低い。
BRZを選ぶ理由はない。
少なくとも、合理的な理由は。
なのに。
寝室へ向かおうとして、もう一度カタログを見た。
青いBRZ。
その横に、昨日のあんねが浮かんだ。
運転席に座って。
ハンドルを握って。
嬉しそうにこちらを見ていた。
もう一度連れていったら、喜ぶだろうか。
いや。
間違いなく喜ぶ。
試乗できるなら。
あいつはたぶん、助手席に乗ると言う。
そこまで想像して、少し笑った。
俺も、乗ってみたい。
それは認める。
少しだけ。
その隣で娘が喜んでくれるなら。
それも、まあ。
悪くない。
もう一度見に行くだけだ。
乗ってみて、違うと思えばレガシィにすればいい。
その方が納得できる。
そういうことにしておこう。
明日、あんねに言おう。
今度の休み。
またスバルへ行くぞ、と。




