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あんねの蒼  作者: Anne
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1/3

第1話 父は、車に興味のない人でした

父は、車に興味のない人でした。


少なくとも、私が十二歳になるまでは。


車は走ればいい。


雨の日に濡れず、夏は涼しく、冬は暖かく、ちゃんと目的地まで連れていってくれる。それで十分。


たぶん、父にとって車とは、そういうものでした。


洗車は汚れたらするもの。


タイヤは減ったら替えるもの。


ボンネットなんて、父が自分で開けているところを見た記憶すらありません。


そんな父が、ある日、一台の青いスポーツカーを買いました。


――正確には。


私が、買わせました


これは、私と一台の青い車の話です。


          *


二〇一二年、春。


「レガシィ?」


助手席のあんねが聞くと、父は前を向いたまま「そう」と答えた。


「何それ」


「車」


「それは分かる」


十二歳にもなれば、そのくらいは分かる。


「この前、病院で話してたらさ。いいんじゃないかって勧められて」


「誰に?」


「友達」


「ふーん」


あんねは窓の外へ顔を向けた。


それ以上、特に聞きたいこともなかった。


父が今乗っている車の名前だって、よく知らない。


最近、父が「そろそろ替え時かな」と言っていたのは覚えている。


だから知り合いに勧められた車を、休みの日に見に行く。


今日はそれだけのことだった。


「すぐ終わる?」


「見るだけだから」


「ほんと?」


「ほんと」


父親の言う「見るだけ」を、あんねはあまり信用していなかった。


家電量販店でもホームセンターでも、大人は「見るだけ」と言ってからが長い。


案の定だった。


SUBARUの店に着いて十分もすると、あんねはすっかり退屈していた。


ガラス張りの明るいショールーム。


磨かれた床。


きれいに並んだ車。


テーブルの上にはカタログが積まれ、その向こうでは父が営業の人と話している。


「今回のレガシィですと――」


知らない言葉が続いている。


あんねはストローを吸った。


ずずっ、と音がした。


紙コップの中には、もうジュースが残っていない。


振ってみる。


からん。


氷が鳴った。


もう一度。


からからん。


父がこちらを見た。


やめなさい。


声に出さなくても分かった。


あんねは紙コップをテーブルに置いた。


頬杖をつく。


時計を見る。


意味もなくカタログを一冊取る。


開く。


閉じる。


もう一冊取る。


それも閉じる。


暇だった。


本当に、暇だった。


やがて椅子から降りた。


「ちょっと見てくる」


父が営業の人との話を止めて、こちらを見る。


「遠く行くなよ」


「行かないよ」


どこへ行くというのだろう。


車屋なのだから、車しかない。


あんねはショールームを歩いた。


大きな車があった。


銀色だった。


覗いてみたけれど、特に何も思わなかった。


隣には白い車があった。


これも同じだった。


どの車もきれいだった。


どの車も新しかった。


でも、それだけだった。


そもそも何かを探しているわけでもない。


ただ、父の話が終わるまで時間を潰していただけだ。


そして。


あんねは足を止めた。


青かった。


最初に覚えているのは、それだった。


深くて、鮮やかな青。


ショールームに差し込んだ春の光が、低いボンネットの上を滑っている。


ほかの車とは形が違った。


低い。


屋根も低い。


鼻先は薄く、地面にぺたりと張りついているように見える。


少しだけこちらを睨んでいるようなヘッドライト。


大きくはない。


さっき父が見ていた車より、ずっと小さい。


なのに、その車だけが妙に目立っていた。


あんねは近づいた。


正面から見る。


少し離れる。


今度は横へ回る。


後ろへ回って、また前へ戻ってくる。


どうしてそんなことをしたのか、自分でも分からなかった。


ただ、もっと見たかった。


「……かっこいい」


口から勝手に出た。


車を見て、そんなことを思ったのは初めてだった。


窓の向こうに黒いシートが見える。


ドアは二枚しかない。


車高も低い。


実用的とか、使いやすいとか。


そんな言葉とはたぶん反対側にいる車だった。


もちろん、十二歳のあんねはそんなことを考えてはいない。


ただ、かっこよかった。


車の横に、小さなプレートが置かれていた。


そこにアルファベットが三文字並んでいる。


BRZ


「びー……あーる……ぜっと」


声に出して読んだ。


何の略なのかは知らない。


それでも、その三文字は一度で覚えた。


「気になる?」


突然後ろから声をかけられ、あんねは振り返った。


父だった。


隣にはさっきの営業の人もいる。


「これ何?」


「BRZっていう車です」


営業の人が答えた。


「今年出たばかりなんですよ」


「新しいの?」


「そう。出たばかり」


それだけで、急に特別なものに思えた。


あんねはもう一度、青い車を見る。


それから父を見た。


「お父さん」


「何」


「これがいい」


父が黙った。


営業の人も、一瞬黙った。


「……何が?」


「これ」


あんねはBRZを指さした。


「これにしよう」


「何を言ってるんだ」


「車買うんでしょ?」


「今日は見に来ただけ」


「じゃあ買うならこれ」


「なんでお前が決めるんだよ」


もっともだった。


しかし十二歳のあんねに、もっともな話はあまり通用しない。


「だって、こっちのほうがかっこいい」


「お父さんはレガシィを見に来たんだよ」


「でもこっちがいい」


「ドア二枚しかないぞ」


「二枚あればいいじゃん」


「後ろ狭いぞ」


「私、前に乗るし」


「そういう問題じゃない」


営業の人が横を向いた。


笑っている。


父は小さくため息をついた。


あんねは気にせず、BRZの中を覗き込んだ。


「これ、乗っていい?」


「もちろんですよ」


営業の人がドアに手をかけた。


「運転席、座ってみます?」


「うん!」


「おい」


父が何か言ったが、もう遅い。


大きなドアが開いた。


あんねは身体を滑り込ませた。


「低っ」


思わず声が出た。


今まで座ったことのある車とは、まるで違った。


黒いシートに身体が沈む。


目の前には丸いハンドル。


あんねは両手で握った。


もちろん、運転なんてできない。


ペダルへ足を伸ばしてみる。


遠い。


「届かない」


「当たり前だろ」


父が呆れたように言った。


「十二歳なんだから」


あんねはハンドルを握ったまま父を見上げた。


「お父さん」


「何」


「これ欲しい」


「だから、なんでお前が欲しがるんだよ」


営業の人がとうとう笑った。


あんねも笑った。


そして、もう一度前を向いた。


フロントガラスの向こうに、ショールームの大きなガラス窓がある。


その向こうには道路。


さらに向こうには、春の空。


この車であそこを走ったら、どんなふうに見えるんだろう。


そう思った。


車を運転してみたい。


たぶん、それが最初でした。


          *


「ただいまー」


家に帰ると、あんねは靴を脱いで、そのままリビングへ向かった。


手には青いBRZのカタログを抱えている。


「お母さん、見て」


キッチンにいた母が振り返った。


「何?」


「これ」


カタログを渡す。


母は表紙を見た。


青いBRZ。


「車?」


「うん」


「レガシィ?」


「違うよ。BRZ」


「へえ」


母はページをめくった。


「これ買う」


「……誰が?」


「お父さん」


「買わないよ」


玄関の方から父の声がした。


少し遅れてリビングへ入ってくる。


母はカタログから顔を上げた。


あんねを見る。


父を見る。


もう一度カタログを見る。


「……レガシィは?」


「見てきたよ」


父が答える。


「うん。そうじゃなくて」


「こっちのほうがかっこよかった」


あんねが言った。


「お前が買うんじゃないだろ」


「でも私も乗るもん」


「免許取れるまであと六年あるだろ」


「助手席」


父が何か言おうとした。


その前に、母がBRZの写真を見ながら言った。


「でも、いいんじゃない?」


「え?」


父が母を見る。


あんねも母を見る。


思いがけない援軍だった。


「ほら」


母はカタログを少し持ち上げた。


「高橋涼介みたいで」


沈黙した。


「……誰?」


父が聞いた。


母が目を丸くした。


「え、高橋涼介知らないの?」


「知らない」


「お医者さんで、スポーツカー乗ってる人」


「誰の話?」


「『頭文字D』」


「漫画じゃないか」


「そうだけど」


母は何でもないことのように、またカタログへ視線を落とした。


「あなたもお医者さんだし」


「そこしか合ってないだろ」


「じゃあいいじゃない」


「何が?」


「これ」


母がBRZを指さした。


父はしばらく何も言わなかった。


「……なんでお前までそっちなんだよ」


あんねは笑った。


母も笑った。


父だけが納得していなかった。


その日の夜。


あんねは自分の部屋でもう一度カタログを開いた。


青いBRZ。


前から。


横から。


後ろから。


何度見ても飽きなかった。


車のカタログなんて、今まで一度も欲しいと思ったことはなかったのに。


ページを閉じる。


少しすると、また開く。


その繰り返しだった。


父は言いました。


「どうせすぐ飽きるよ」と。


父は昔から、わりと慎重な人でした。


そして時々、とても大きく予想を外します。


          *


三日後。


夕食の途中で、父が何でもないことのように言った。


「今度の休み、またスバル行くぞ」


あんねの箸が止まった。


「ほんと?」


「うん」


「なんで?」


「試乗」


あんねは父を見た。


「レガシィ?」


父は味噌汁の椀を持ち上げた。


少しだけ間があった。


「……BRZ」


向かい側で、母の箸も止まった。


「え?」


父は聞こえなかったふりをして、味噌汁を飲んだ。


「ちょっと待って。何を試乗するって?」


「BRZ」


「レガシィじゃなくて?」


「まだ何も決めてないよ」


「そうじゃなくて」


母が笑い始めた。


あんねも笑った。


「何だよ」


父だけが不満そうだった。


父は、車に興味のない人でした。


少なくとも。


この日までは。

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