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マージナイト・プリンセス  作者: 瀬尾優梨
第6部 碧空の覇者 
188/188

碧空の下で

 大聖暦千七百七十一年。それは、後の歴史で「東方戦争」と呼ばれる戦乱が起きた年である。


 同年の冬の月にほぼ時を同じくして勃発した戦乱。東大陸の北、南、東で起きた三つの争いは、どれも規模は小さなものではあった。だがこの出来事が、後の大陸を大きく動かしていくことになるのだった。


 北のバルバラ王国付近で起きた、バルバラ王国とドメティ公国の衝突。

 同年に大公位返上したドメティ公がバルバラ王国の女王を殺害し、王国の乗っ取りを企てた。彼の企みは、姉の死を受けて帰国した妹王女によって打ち砕かれた。多くの竜騎士やドラゴンを殺した大公は王女の剣によって首を落とされたと伝えられているが、ごく一部の少数派な歴史書のみ、「実は王女に忠誠を誓った騎士が、王女の代わりに元大公の血を被った」と記述している。この真偽は幾世紀経った後も議論の的になったが、結局明確な答えは出てこなかったという。


 南のオルドラント公国で起きた、オルドラント公国とフォルトゥナ公国の衝突。

 ドメティ大公と同じく大公位放棄したフォルトゥナ大公が、リデル王国諸侯を唆して魔道士連合部隊を作り上げ、長年の敵であったオルドラント公国に攻め入った。古来から魔道士が生まれにくく、南部草原民族とは不和が続き、さらに有能な大公を喪ったばかりの公国は苦戦を強いられたが、信頼する部下とリデルからの応援を受け、若き大公は見事宿敵の首を討ち取ったのだ。その際、魔力を持たないはずの大公が数々の魔法を披露したとか、フォルトゥナ公国軍に大公の旧友がいたとか、様々な逸話が残されている。


 東のクインエリアで起きた、後継者闘争。

 当時の大司教マリーシャが反大司教派によって捕縛され、新しい大司教を立てようと反乱が起きた。その動乱に立ち向かったのは、大司教の末裔である少女魔道士。彼女は過激派の神官を討ち取り、聖都の解体という形で混乱を治めた。強引と言えば強引ではあるが、諸侯の協力もあって次第に聖都クインエリアは廃れ、女神信仰の基盤を立て直すという大変革をもたらすことになったのだった――











 凍てつく冬の冷気は去り、大地には草木が芽生える。雪解け水が土壌を潤し、霞の中、大陸はまた新しい春を迎えていた。


(いい天気)


 馬車の窓から顔を出していたレティシアは春風に髪を靡かせながら、緑濃い大地を見回していた。風が彼女の肩口の長さの髪を持ち上げ、擽るように首筋に当ててくる。

 そんな悪戯坊主な春風を気にすることなく、レティシアは澄んだ空気を胸一杯に吸った。


 皆と別れてから、一体どれくらいになるだろうか。クインエリア崩壊から今まで、長かった。


 あの後。レティシアはリデル騎士やレティシアに好意的な神官たちの力を借りて、宣言した通りクインエリアを「捨てた」。歪な大司教制度の撤廃を提案し、大司教選定に使われている杖を処分したのだ。


 いきなり目の前でレティシアが選定の杖を粉砕するものだから、数名の神官はその場で気絶した。だがレティシアとて無断で行ったわけではないし、杖の力を借りたからこそ、あれほど容易く破壊することができたのだ。


 レティシアはきちんと杖に聞いたのだ。そろそろ役目を終えてみるのはどうかと。

 杖は最初こそ渋っていたが、しばらくするとレティシアの言葉に賛同してくれた。聖女エリアが己の魂を注ぐことで、選定の杖は作られた。杖の中に生き続けていたエリアは、自分も永遠の眠りに就くべきだと悟ったのだ。


 杖を砕く際、「エリア」の方からひとつだけ頼みがあった。それは杖を破壊した後、その残骸をクインエリアの大地に埋めてほしいということ。「彼女」は、残された自分の魔力をクインエリアの大地に流し、枯れ果てた彼の地を緑で溢れかえらせたかったのだという。

 それは、数百年前にエリアが生きていた頃のクインエリアを蘇らせたいという、聖女の最初で最後の我が儘だった。


 エリアの言う通り、レティシアは杖の残骸をクインエリアの大地に埋めた。効果が現れるのはまだまだ先だろうが、確かにレティシアはクインエリアの土から、命の息吹を感じていた。もう数年もすればあの神殿も廃墟となり、深い緑と蔦に覆われることになるだろう。


 大まかな作業が終わった後、レティシアは騎士とセレナを一足先にアバディーンへ戻らせた。エドモンド国王とティエラ王太子への報告と、大司教制度の撤廃に関する手続きを円滑に行うためだった。そしてその後もレティシアは旧クインエリアに留まり、エドモンド王の承認と、クインエリア地方の保護が下りるまで神殿の仕事に励んでいた。

 大司教の身分は捨てたのだが、地方の行政や過激派の始末など、することはいくらでもあった。レティシアは父の代から大司教家に仕えてきた熟練の神官たちの手を借り、毎日舞い込んでくる職務をこなしていったのだった。


 そして事後処理がひとまず収束して大陸のあちこちで春の訪れが報告された頃、レティシアは神官たちに後を託して別れを告げ、クインエリアを発ってアバディーンに戻ってきたのだ。クインエリアよりも緑豊かなアバディーン王都は、既にむせ返るような新緑の香りに包まれていた。


 頃は、春の月の半ば。レティシアたちは今日、アバディーンの草原で再会することになっていた。

 激務に追われる中届いた手紙は、差出人がバルバラ女王となったノルテにだった。全員を代表してなぜか彼女が「旧ディレン隊再会計画」なるものを立ち上げたそうだ。

 といっても、大がかりなパーティでもないし、これといった準備物も要らない。ノルテの字で「もってくるもの」と書かれた箇所には、「健康な体と笑顔」とのみ、記されていた。











 馬車が停まる。

 恭しく手を差し伸べてくる御者を丁重に断り、レティシアはぴょんとタラップを使わずに飛び降りた。側にいた若い御者がぎょっと目を瞠るが、レティシアはどこ吹く風だ。

 彼はレティシアを「大司教の末裔」として見ているが、これがレティシアの本来の姿なのだから。


(いつまでもお姫様扱いされるなんて、私の柄じゃないしね)


 そして、うーんと品なく背伸びする。青年御者があわあわと狼狽える中、腰と足をぐるぐる回すストレッチ体操をし、その場でくるりと一回転する。そして自分の荷物を取ると、御者に後金を渡してさっさと歩きだした。


 レティシアが下ろしてもらったのは、王都の城壁の外。王都の家族が休日のピクニックとして訪れる、緑広がる草原地帯だった。御者は城壁の中まで入ると申し出たのだが、レティシアの方から断った。何せ仲間の中には巨大なドラゴンに乗ってくる者もいるのだから、狭い街中よりも見通しのいい場所の方がいいのだ。


 空を仰ぎ見れば、どこまでも続く青い世界が。

 今日は雲ひとつない晴天だ。

 抜けるような青空は、まるで誰かの双眸のようだ。


 レティシアはゆっくり、瞬きした。そうだ、今日やっと会えるのだ。

 青い空の目を持つ彼に。


 南の馬車道を、ゆっくりと一台の馬車が北上してくる。レティシアが見ている間に、馬車の姿はどんどん大きくなる。

 城門の手前で、馬車に随行していた騎兵のうち一騎が一群から逸れてまっすぐ城門の方角へと進んでいく。そんな仲間を気にすることなく、馬車とその他の騎兵は方向転換してレティシアの方へ向かってきて、間もなく停止した。


(来た)


 とくん、と胸が甘く疼く。無意識のうちに、短くなった髪に手を翳してゆっくり、ブーツで青草を踏みしめて馬車の方へ向かう。


 御者が座席のドアを開ける。レティシアと違って、馬車から出てきた青年は据えられたタラップを使って降りてきた。そして軽く自分の服を整え、まっすぐ、レティシアを見つめてくる。


(ああ、そう。この顔だ)


 最後に会った時と全く変わっていないような、変わっているような。懐かしさの中に、隠しようもない疲労と苦悩の混じった新鮮味も入っている、そんな彼の顔。

 でも、あの時から変わっていない。優しく細められた青い双眸と、春の日差しも白旗を挙げてしまうような、暖かい微笑み。


「レティシア」


 記憶の中よりも、少しだけ低い声。

 ふわり、抱きしめられた。洗剤の清潔な香りと、柑橘系のコロンの匂いが混じっている。

 細い指先がレティシアの髪を掬って持ち上げ、さらさらと零す。


「……髪、短くなったね」

「クラート様は、長くなりましたね」


 そう茶化すように言い返すと、クラートは小さく笑った。レティシアの言う通り、彼の髪は肩に掛かり、横髪がレティシアの頬を擽っている。そろそろリボンで結ばなくてはならない長さになるだろうが、その髪の長さも彼に残っていた子どもらしさを完全に取り払い、一人の青年に仕立て上げているようだった。


 お互い、至近距離で見つめ合ってくすくす笑う。オレンジの髪と金の髪が風を受けて空中に舞い、絡み合う。

 ふと、思い立ってレティシアは聞いてみた。


「……クラート様、レイドは?」

「……僕よりもレイドの方が気になる?」

「いいえ? でも、お一人で来られるとは思えなくって」


 最初こそ拗ねたようなクラートだったが、レティシアが即答したので幾分安心したのだろう。ほっと目元を緩ませ、顎で城壁の方を示した。


「レイドはさっき、別れたよ。レティシアも見えただろう? あいつは先に城に行って、セレナを迎えに行くそうだよ」


 先日、セレナからも手紙が届いた。それによると、彼女はレティシアの使い走りを終えた後も王都に留まることにしたらしい。手紙によると、ティエラ王太子のために「王太子専属魔道士団」なるものが発足したらしく、セレナは是非と志願したそうだ。女性王太子であるティエラの護身と心理的なサポートを兼ねた、女性魔道士のみの部隊なのだという。もうすぐ入団試験があると語っていたので、今頃王都で勉強しているのだろう。


「そうですか――レイドも元気にしていますか?」

「ああ、相変わらずあいつに小突かれながら、僕は仕事をしているんだ」


 二人は手を繋ぎ合い、並んで草原に立った。


「……いい眺めだな」


 クラートが目を細めて言う。レティシアは頷き、クラートの手をぎゅっと握った。

 いつの間にか、クラートの手はレティシアの手をすっぽり包み込むくらい大きくなっていた。


「……ミランダにも、この景色を見せたかったな」


 ぽつり、付け加えられた言葉に、レティシアははっとした。


(そうだ、ミランダは……)


 クインエリアでの仕事中に届いた、オルドラント対フォルトゥナ抗争の報告書。クラート陣の勝利だと安心しきって読んでいたレティシアは、「元フォルトゥナ公国勢、エステス伯爵家伯爵ミランダ・エステス戦死」の一文に言葉を失った。

 予期していなかったわけではない。魔道士として有名なエステス伯爵家の令嬢なのだから、フォルトゥナ側に着くだろうとは事前に分かっていたことだ。


 それでも。

 敬愛するクラートと敵対していたとしても。生きていてほしかった。

 またあの、挑戦的で勝ち気な微笑みを見せてほしかった。


 だがオルドラント攻防戦は激戦を極めたという。ミランダが生きるためには、クラートが死ななければならない状況だったのだ。だから、そんな場で「両方とも生きてほしい」なんて無理な願いだとも、分かっていた。


「……ええ、きっとミランダも空から見てますよ」

「でも、空からだったらこの青空を仰ぎ見ることはできないな」

「それもそうですね」


 クラートもレティシアも、そしてもうじき来るだろうノルテも。

 皆、自分が生きるために誰かの命を奪ったのだ。自分を守るために、立ちはだかる者を潰したのだ。

 それでこそ得た勝利であり、勝利を得たため、この青空の下に立つことができているのだ。


(私たちは、英雄でも勇者でもないんだ)


 己の身を守るために、人を殺した。

 ふいに、レティシアの手を掴むクラートの手にぎゅっと力がこもった。


「クラート様?」

「……これから、だ」


 クラートは真っ直ぐ前を見つめている。その目に、生命の息吹を感じさせる緑の大地を映して。


「これから、僕たちは全てを作り上げていくんだ――ミランダたちの命を奪ったことを、決して忘れない。彼女たちを死なせてまでして得た勝利を、無駄にしない……」


(クラート様……)


 ゆっくり、レティシアは頷いた。それでも足りず、何度も何度も頷いて、クラートの手を握り返す。


「……クラート様。あの時の約束です」


 ゆっくり、クラートがレティシアに視線を注ぐ。

 二人は向き合い、レティシアは両手でクラートの手を握って胸の高さまで持ち上げた。


「私を、オルドラントに連れて帰ってください。クラート様のお側で、オルドラントが栄えていく姿を見させてください」

「レティシア――」


 クラートの瞳が揺れる。同時に、レティシアの鼻の奥もツンとしてきた。別に泣きたいわけではないのに、意味も分からず喉が熱くなり、ぎゅっと息が苦しくなる。

 クラートはそんなレティシアを真摯な眼差しで見つめ、そして少しだけ困ったように眉を寄せた。


「……参ったな。時期尚早だと分かっているのに、意志がぐらついてしまう」

「はい?」

「僕の大公としてのスキルが上がるまではと耐えていたのに、どうして君は僕の決心が揺らぐようなことばかり……」

「何の話ですか?」

「いや、こっちの事情だよ」


 クラートは前髪を掻き上げ、小さく笑った。そして、きょとんとするレティシアの腰を引き寄せ、片方の手をレティシアの後頭部に宛った。

 自然とクラートの方を仰ぎ見て体を密着させる形になり、レティシアはえっと声を上げて目を丸くした。


「クラート様?」


(いや、この状況って、まさか……)


「……願掛けしたけれど、前借り分ということで」


 なおもクラートはレティシアに理解できないことを呟き、そしてゆっくり体を傾けた。

 二人分の吐息が混じり合い、鼻先が触れあう。クラートが顔を傾け、唇を寄せてくる。それまで視界一杯にクラートの顔が広がっていたレティシアだったが、彼が顔を傾けた拍子に彼の背後がちらりと見え――


「……あっ! あれ、ノルテです!」


 びしっとクラートの背後を指さし、レティシアは北の空から飛んでくる一騎のドラゴンの姿に、ほっと息をついた。


「よかった……アンドロメダが死んでしまったと聞いて、心配していたんです。ノルテも新しいドラゴンの相棒を見つけたんですかね」

「……………………」

「……あっ、今城門から出てきたのって、レイドとセレナじゃないですか? ほら、馬に二人乗りして! ……クラート様、後ろ……」


 見てくださいよ、との言葉は最後まで出てこなかった。

 吐息まで吸い取られそうなほど熱い口付けに、全てを奪われてしまったから。


 レティシアが完全に固まり、目を白黒させる間クラートはレティシアに唇を重ね、ついばむように何度も唇を食んできた。

 クラートが唇を放して漸く、レティシアの脳みそが再活動した。一時停止状態から復帰したレティシアの脳みその回転は凄まじく、ぼかん、と顔が破裂したかのように熱くなる。


「う、あ、あ……何……?」

「何って……君があまりにも無防備だから、つい意地悪してしまった」


 そう、至極真面目な表情でのたまうクラート。彼はレティシアと違ってひとつも息を乱すことなく、なおもがっちりとレティシアの肩を両手で掴んできている。


「僕がこれほど君にキスしたかったというのに、君はやれドラゴンだのやれセレナだの、よそ見ばっかりするから」

「うっ……!」


 クラートのお言葉が胸に突き刺さる。キスされるまで数秒だったというのに、思考回路が吹っ飛んでつい、クラートの背後の光景に目がいってしまった。

 あの時は何とも思わなかったのに、今になって羞恥がこみ上げてきた。それも、いろいろな種類の。


「……まあ、オルドラントに戻ったらもっと遠慮なくさせてもらうけど」

「う、えぇ……?」

「これでも我慢したんだからね、褒めてほしいくらいだよ」


 どこか拗ねたように言い、クラートはそこで漸く、背後を振り返った。そしてドラゴンと馬の姿が大きくなっているのを見て、チッと舌打ちする。


「クラート様、なんだかオーラが黒いです」

「もう時間切れか――ったく、どっちも仲よさそうに二人乗りしてから」

「何言ってるんですか。時間はまだまだありますよ」


 顔をしかめるクラートの手を取って、レティシアは微笑んだ。


「これから私はオルドラントに戻るんですから。まだ、時間はありますし、それに――」


 私だって、クラート様とキスして嬉しかったんですから。


 こそっと、耳元で囁く。

 そして、ぴしっと硬直したクラートを置いて踵を返し、ドラゴンと馬に向かって駆けだす。


「レティシア!」

「ほら、皆を迎えに行きましょう!」

「もう一回! さっきの言葉を聞かせてくれ!」

「今はお預けですー!」


 不満そうで、でも嬉しさを隠しきれていないクラートにもう一度笑いかけ、レティシアは草原を駆けだした。


 大きく手を振って、緑の大地を踏みしめる。









 ここから、新しく始めるのだ。


 碧空の下で、仲間たちと共に――

これにて完結です

ありがとうございました!

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