11月27日
■十一月二十七日
「二人共、準備はできたか?」
それは、事件が解決して二週間後のことだった。
ようやく海外出張から帰ってきた父さんと共に、私達は引っ越しの準備をしていた。
……そう。この街を去るのである。
もう荷物は、全て新居へ送った。おかげでつい先日まで物に溢れていた家の中は、すっからかんだ。だから後は、我々が出ていくだけなのだが――
「ちょっと待って。最後にもう一回、家の中を見て回りましょうよ」
母さんが、名残り惜しそうに提案してきた。
「この家には、色々な思い出があるから……」
「ああ、そうだな……」
もう十数年住んでいた家だから、二人共思い入れがあるのだろう。しんみりとした表情で頷き合うと、玄関から入っていく。
その背中を見送ってから、私は松葉杖を突きながら道路に移動した。
外の景色は、一か月前と比べると見事なまでに変化していた。半分以上抉れてしまった一軒家。真ん中から折れて、倒壊してしまっているビル。隕石でも落ちたのかと勘違いされそうな大きなクレーター。
この荒れ放題の土地が、今の皿久米市なのだ。
◆◆◆
あの戦いからすぐに、皿久米市は蠱毒から解放された。
だが器として使われた傷跡は復元されず、皿久米市は被災地域として全世界へ認識されることとなる。
国としても、今回は単なる自然災害として扱うことに決めたらしい。テレビでもネットでも、具体的なことは語られなかった。
最終的な死者数は二十二万三千五百人。
蠱毒の特性上、遺体が残らないので正確な人数が把握し辛いが、ほぼ間違いないだろう。ちなみにこの記録は、世界単位で見ても上位に割り込めてしまうほどの大災害だった。
そんな地に人が住めるわけもない。よって皿久米市の生き残りは、市外へと出て行かなければならなくなった。この地は再度、政府の手により大がかりな復興作業が行われることになるらしい。
それを最初に伝えてくれたのは、リコリスだった。
一週間前。私が自室で物思いに耽っていた時に、奴は突然ベランダに降り立ったのだ。
「……久しぶりね」
窓を勝手に開きながら、リコリスは眩しそうに目を細める。
「そろそろアンタも、引っ越しの準備をした方がいいわよ。撤去命令が出るだろうから」
リコリスは、いつもの際どいボンテージ姿だった。そんな奴がピンヒールを履いたまま部屋に上がろうとしたので、私はすぐさま戸を滑らせた。
今さら、こんな奴と話すことなどないからだ。
「ちょ……ちょっと待ちなさいよ。少しくらい話をさせてくれたって――」
「誉れある異端審問官の一人が、こんなところで何をしているのだ?」
リコリスの言葉を遮って、私は吐き捨てる。
「貴様にはやるべきことが山ほどあるであろう。殺してしまった住民への償い、それに全滅してしまった異端審問官部隊に関する報告は上へ済ませたか? 未だに貴様を放置しているなんて、聖庁とは随分緩い組織なのだな」
「…………」
私の分かりやすい皮肉に、リコリスは真顔で見つめ返してくる。
彼女の瞳は以前よりも暗い色に染まっていた。その様子を見るに、彼女にも何らかの処罰があったらしい。
「……ふん、言うじゃない」
気を取り直すように、リコリスは頭を掻く。
「実はね、あれからコルチカムと秋丁字琢磨の関係性に裏付けが取れたの。それをアンタにも教えておくべきかなって思ったんだけど」
その言葉に、思わず手が止まってしまった。
するとリコリスは、ニヤニヤと微笑みながら部屋の中へ入ってくる。
「コルチカムと秋丁字が最初に出会ったのは、学生時代。たまたま二人共、同じ大学の同じゼミを取っていたみたいね。そこでは単なる顔見知り程度だったらしいけど、コルチカムが異端について話しているのを秋丁字も聞いていたようよ。彼の日記に、そんなことが記してあったわ」
リコリスは懐から取り出したメモ張を読みながら、淀むことなく言う。
「それから二人がコンタクトを取ったのは、一年前。秋丁字の妹・茉莉の病が発覚して半年後ね。昔、コルチカムが異端について話していたことを覚えていた秋丁字は、ダメ元で彼に連絡をしたみたい。そうしたら、思いがけずノリノリな返事が返ってきたとのことよ」
と、リコリスは小さくため息を付く。
「秋丁字はコルチカムにかなり感謝していたみたいね。妹の死の実況中継までされたのに、全然恨んでなかったようだわ。退魔の手袋の件などを含めても、コルチカムは随分上手くサポートをしていたみたいだから、当然といえば当然だけど」
そこでリコリスは、ちらりと私を見やる。
「ちなみにアンタをさっさと殺さなかったのは、スケープゴートとして利用するためだったみたいね。まぁ、アンタが異端に手を染めたのは間違いないんだから、身代わりとしては最適だったんでしょうけど」
そこまで一気に説明すると、リコリスはぱたりとメモ帳を閉じる。
「……って、ところかしらね」
「それで? 今日は私を殺しに来たのか?」
「殺さないわよ」
不愉快そうに顔をしかめながら、リコリスは言い切る。
「アンタを殺さないのが、アタシに与えられた罰の一つ」
リコリスは冗談や嘘で言っているわけではないらしい。真剣な眼差しを向けられて、私も少なからず動揺してしまった。
「罰? どういうことだ? 異端者は根こそぎ処刑するのが聖庁の方針ではないのか?」
「アンタは特例なのだそうよ」
忌々しそうに舌打ちをしながら、リコリスはつぶやく。
「アンタが言うように、今回アタシが犯した失態は相当なものだった。配下である異端審問官を全滅させて、理由があったとはいえ一般市民を殺した。しかも、コルチカムの裏切りに最後の最後まで気付かなかったんだから」
あの時のことを思い出しているのだろうか。リコリスは頬をぴくぴくと痙攣させていた。
「そんなアタシに対して、聖庁が下した罰は『夏見柚彦を生かす』ことだった。目の前に汚らわしい異端者が居るのに、罰するのを許されない。アンタという異端者に、アタシは一生手出しできないの。ふふ、ふふふ……あはははは!」
痙攣は顔だけでなく腕や足、体全体に広がっていた。やはりあの時の経験が、彼女の精神を蝕んでいるようだ。
「今日、こうしてアンタに会いに来たのも聖庁の命令よ。あえてアタシを連絡係に使うなんて、お父様も人が悪いわ。酷い罰よ」
「それのどこが罰なのだ?」
顔を引きつらせるリコリスに、私は至極冷静に問いただす。
「今回の事件、罪を犯した者は私と貴様を除いて全て命を落としている。正直私は、大量殺人を示唆した貴様も死ぬべきだったと思っている。そんな貴様がこうして生きているだけでも、僥倖なのではないか?」
「それは、アンタの物差しで見た価値観でしょう? アタシは異端者が何よりも憎いのよ。生理的に許せないのよ」
リコリスは神経質そうに、両手でメモ張を強く握りしめる。
「それに、その理屈だとアンタも死ぬべきだったんじゃないの? 秋丁字も言っていたわよね。みんな死んだのは、アンタのせいだって」
「…………」
リコリスの言葉に、私は口を噤んでしまう。
彼女が指摘したことは、まさしく私も悩んでいた事柄だったからだ。
「……ふふ。まぁ、いいわ」
満足そうに息を吐くと、リコリスは再度窓へと手を掛けた。
「それじゃあまたね、夏見柚彦」
「『またね』って……言っておくが、私はもう、貴様と一生会うつもりはないぞ」
「アンタにそのつもりが無くても、聖庁にはあるの」
私の突っ込みに、リコリスは静かに微笑んだ。
そのあまりにも不自然な笑顔に、私はつい慄いてしまった。
「いいでしょう? だってアタシ達、『友達』なんだから」
そんなうすら寒い言葉を残して、リコリスは去って行く。
親しみを微塵も感じさせないその台詞は、彼女の気持ちを十分に表現しているように思えた。
きっとあいつは、また忘れた頃にやって来るのだろう。
◆◆◆
そんなことを考えながら道路に立っていると、
「夏見君。どうしたんですか?」
なんと眼前に、雪柳が現れたではないか。
雪柳は、以前とまったく変わらない服装でそこにいた。暑苦しそうなファーの付いたコートに、ブーツ。荷物が少ないところを見ると、散歩でもしていたのだろうか。
「き……貴様、生きていたのか……?」
「生きてましたよ! 壁が崩壊する瞬間も、しっかり貴方の後ろにいましたよ!?」
「そ、そうだったのか!?」
「そうですよ!」
心外だ、と言いたげに雪柳は眉を吊り上げる。
「夏見君って、全然私に興味ないですよね。そういえば、クラスでも隣の席だったのに一回も話してくれませんでしたし……」
「すまん」
形だけでも謝ると、雪柳は意外そうにこちらを見やる。
「夏見君でも謝ったりするんですね」
「普通はそれくらいするだろうに……」
「でも以前の夏見君だったら、絶対謝らなかったと思いますよ。それどころか、私のことを無視していたかも」
「そうか?」
「ええ。中身も性格も、元の夏見君に戻ってしまいましたけど……少しだけとっつきやすくなった気がします。これも椿さんの影響でしょうか?」
不意打ちのように椿の名を耳にして、思わず身を固くしてしまう。
「ねぇ夏見君。私、器の中で蟲を観察していた時に、一つ疑問に思ったことがあったんですよ」
雪柳は私の反応に気付いていないようだ。そのまま、こちらにずずいと身を乗り出してくる。
「蟲って、他の蟲の力を吸収して成長していたじゃないですか。その成長具合は個体によってまちまちでしたけど、体が大きくなったり、新しい武器を手に入れたり……。とにかく、器の中で生き抜くために、どの種も戦闘能力に特化した成長をしていましたよね」
「ああ、そうだったな」
一体彼女は、何のためにこんな話をしているのだろう。
もう全て終わったことではないか。異端の研究は異端審問官の仕事だ。素人の雪柳が手を出す領域ではない。
だが次の発言で、私は彼女の言いたいことを理解する。
「なのに……なんで、椿さんだけ人型だったんでしょうかね」
その質問に、私は咄嗟に答えられなかった。
得意げに疑問点を披露する雪柳を、ただただ見つめることしかできない。
「秋丁字さんが飼っていたドロセラも、例外的に人型を取ることがあったそうですね。でも彼女の場合、人型形態は完全に擬態として使用していたと思うんですよ。本体は、あの大きな大きな獣の姿です」
雪柳は腕を大きく振りながら語り出す。その姿はさながら、プレゼンを行っている研究者のようだ。
「でも椿さんは、最初から最後まで人型を保っていました。私は、彼女が昆虫らしい姿をしていたところを一度も見たことがありません。これは夏見君も同じじゃないでしょうか?」
そして雪柳は、じっと私の目を覗き込んできた。
その目を見るに、すでに彼女の中ではある仮説が存在しているらしい。しかしそれを、あえて俺の口から語らせたいようだった。
この女、意外に性格が悪い。
「……知らん」
だが、私は短く言い捨てた。
彼女がつけ入る隙すら与えず、事務的に、ただ淡々と断る。
「話はそれだけか? ならもう、一人になりたいのだが」
「……そう、ですか?」
雪柳は残念そうに俯いてしまう。
賢い彼女は、私が何も話さないと理解したのだろう。申し訳なさそうに、ぺこりと頭を下げてくる。
「お引止めしてすみませんでした。新しい生活、上手く行くといいですね」
「貴様はこれからどうするのだ?」
「私は、親戚の家に引き取られることになりました。両親……もう、居ないですしね」
「……そうか」
それを聞いてから、両親共に揃っている自分の幸運を尚更実感する。
そして、自分の罪の大きさも……。
「私、これからたくさん勉強します。生物についても、異端についても。この際、異端審問官になっちゃうのもアリかもしれませんね」
「あれだけ壮絶な経験をしても懲りないのか。すごいな、貴様は」
「だって、悔しいじゃないですか」
雪柳はくしゃりと顔を歪める。
「私、全然役に立てませんでした。自分からお手伝いを志願したのに、最後だって皆さんの足を引っ張ってばかりで……」
それは、雪柳が単なる一学生なのだから仕方ないのではないだろうか。私はそう思うのだが、彼女は違うらしい。
「だから私、頑張ります。絶対に、くじけたりなんかしません!」
「貴様のそのポジティブさは、ある意味賞賛に値するな……」
半ば呆れながら言うと、雪柳は何故か頬を赤くする。
「えへへ、そうですか? なんか照れちゃいますね」
この女、どこまでも皮肉が通じないらしい。
分かった。だからこいつは、椿のような分かりやすい阿呆に惚れたのだ。
「……応援する。頑張ってくれ」
「はい! ありがとうございます!」
元気よく返事をすると、雪柳は駆け足で去ってしまう。
もう、こちらを振り返ることもない。彼女は彼女の道をまっすぐ進んでいくのだ。
……なんだか、私が置いて行かれてしまったみたいだな。あの時と、同じように。
妙な焦燥感に駆られて自宅を振り返ると、母も父もまだ出てきてなかった。おそらく、夫婦揃って思い出に浸っているのだろう。
……ならば少し、散歩をしてきてもいいだろうか。
そう思い立つが否や、私はゆっくりと松葉杖を前に差し出した。もちろん雪柳が走って行った先とは真逆の方向に。
困ったことに、頭の中ではさっきの雪柳の言葉が呪いのように渦巻いていた。
「なんで、椿さんだけ人型だったんでしょうかね」
そのお粗末な質問に、私は吹き出しそうになった。
そんなの、決まっているだろう?
あいつが私のことを好きだったからだ。
だからあいつは人間になろうとしていた。蟲としての能力向上を犠牲にしてでも、人型を保とうとしていたのだ。私の恋愛対象となるために。
こんなことを他人に言ったら、単なる自惚れだと馬鹿にされるかもしれない。
だが椿の体に入っていた時、私がどれだけあいつの感情を読み取っていたと思う? どれだけあいつの気持ちを与えられていたと思う?
こちらが望んでいなくても、あの女は雪崩のように流し込んできたのだ。
私への気持ちと、願いを……。
「ここは……」
そして皮肉なことに、街は椿との思い出に満ち満ちていた。
この通路では、椿と共に異端審問官を尾行した記憶がある。
自衛隊に認識されなかった異端審問官達に、椿がビクビクと怯えていたのを覚えている。
その先にある一軒家では、白椿の花があの時と変わらぬ姿で咲き誇っていた。
ここに椿の木が生えていたからこそ、彼女の名前は椿となったのだ。
そして次の角を曲がると、小さな橋の上に出る。
そこは、椿と初めて喧嘩した場所だった。
雪柳を当然のように振った椿に、私は随分酷いことを言った気がする。
「……ふざけるな」
そんなことを考えていたら、無意識の内に口から声が漏れ出ていた。
どこを歩いても何をしても椿のことを思い出すなんて、最悪だった。
だって私は、あいつに何もしてやれなかったのだ。与えてもらってばかりで何一つ返せなかった。この命も、今現在の私自身も、彼女によって構成されているようなものなのに。
気付けば私は、橋の真ん中で立ち止まってしまっていた。
以前の私だったら、一匹の昆虫が私のために命を投げ出したところで、気にも留めなかっただろう。むしろ、それが当たり前だと思っていたはずだ。
だが、私は変わってしまった。
他ならぬ、彼女によって変えられてしまった。
「椿……」
口の中で彼女の名をつぶやくと、緩やかな南風が私の全身を包んだ。
……随分と、懐かしい感触だ。
自転車に乗っていると、椿がこうして追い風を起こして支援してくれたことがある。そのおかげで、遅刻指導を免れたことが何度かあった。
そうだ。彼女はいつも、私の傍にいたのだ……。
「これは重傷だな。風にまで、あいつを感じてしまうとは……」
自嘲気味に笑いながら、私はゆっくりと瞼を閉じた。
こうすれば、すぐにでも彼女の姿が浮かび上がってくる。
初めて私の前に姿を現した時、椿はなんと言っていたか。
確か……おおよそ彼女らしくない、かしこまった口調で――
「お待たせしました、我が主」
私が答えを出す前に、後ろでよく知っている誰かが囁いた。
END




