11月12日・午前……1
■十一月十二日・午前
男達が逃げ出した後、学校へ帰還した僕達が見たのは――地獄だった。
ぐしゃっ、がらがら、ぐちゃっ、どしゃ、びちゃびちゃ……悲鳴に混じって、そんな生々しい音が聞こえてくる。
蟲が人間を狙って襲撃していたのだ。
学校を守るために残った異端審問官達は、かなり苦戦しているみたいだった。
仕方ないよね。だって、夜通し蟲と戦い続けていたんだもん。しかも一般人を庇いながらだ。疲れていないはずがない。
「アンタ達! 待ってて、今助けるから――」
「ちょっと待て!」
リコが援護に向かおうとすると、そのマントを引っ張る男がいた。
……立花市長だ。
「これは一体、どういうことなんだ! 何故、朝になったのに蟲は撤退しようとしない!?」
市長は髪の毛を振り乱して、発狂せんばかりの勢いで叫んでいる。
もう、昨日見せていたような余裕はどこにもない。砂埃と血でドロドロになりながら、親の仇のようにリコを睨んでいた。
手袋を付けているリコを目視しているところを見ると、彼も異端への耐性を持っているらしい。
「昨日の会議で、貴様は言っていただろう! この作戦さえ成功すれば人間は蠱毒から除外されると! なら、今のこの状況はどういうことなんだ!? まるっきり逆じゃないか! おかげで秘書が死んだぞ! 私を庇って、無様に! 跡形もなくなってしまった! どうしてくれるんだ!?」
「……アンタ達。先に行ってて」
「はっ!」
部下を行かせてから、リコは再度市長へと向き直る。
「結論だけ述べますと……作戦は失敗に終わりました。また、魔法陣が破壊されたことにより、昼夜関係なく蠱毒が発動するようになってしまいました」
「はぁ!?」
淡々としたリコの報告に、市長はますます激昂してしまったらしい。こめかみに青筋を浮き立てながら、リコの胸倉を思いっきり掴んでくる。
「ふざけるな! 最悪の状況じゃないか! 何が異端審問官だ! 貴様らはプロなんじゃないのか!? どうしてやること成すこと全てが後手後手なんだ!? ええ!?」
「……申し訳ございません」
「原因は何だ? なんでそうなった!? 言ってみろ! 言い訳があるなら今すぐ言え!」
「それは、今言及するべきことでは――」
「僕のせいですよ」
話に割り込むように、口を開く。
「……は? 貴様が、だと?」
「そうです」
血走った市長の目を見据えながら、僕は頷いた。
「異端審問官の考えた作戦に問題はありませんでした。あなたに説明しても理解できないでしょうから詳細は省きますが……とにかく、僕の行動が原因で今の状況ができ上がったんですよ」
自分でも、なんでこんなことを言っているのか分からない。
ただもう、全てがどうでも良かった。何もかもが煩わしかったんだ。
「……そうか。貴様のせいか」
僕の投げやりな懺悔に、市長は茹でダコのように顔を赤黒く変色させる。それを見て僕は、怒り狂うと人はここまで表情が歪むのか、と何故か場違いに感動していた。
「貴様が余計なことをしたせいで……!」
市長はリコの胸倉から手を離し、今度は僕に飛びかかってくる。
すると大きな大人の手が、眼前に迫ってきて――
『やめろ!』
その刹那。椿の悲痛な声と同時に、静電気が弾けるような音が場に響いた。
『お願いだ。もう、やめてくれ……』
なんと、僕に届くはずだった市長の手が、銀色の膜に弾かれたらしい。
……椿が、守ってくれたんだ。
『こいつをこれ以上責めないでくれ……何も、言わないで……』
椿は今にも泣きそうな声を上げながら、銀色の矢を展開していた。
その標的はもちろん――市長だ。
「ひ……あ……あ、あぁ……」
市長はもはや、まともな言語を喋る余裕すらないようだった。地べたに這いつくばって、ガタガタと震えている。
『……止める……消す……』
椿は椿で、完全に頭に血が上りきっているらしい。痙攣して定まらない指先を市長に向け、照準をゆっくりと合わせていた。
開きっぱなしになっている口の端からは、涎がたらりと垂れていて――
「ちょっと柚彦! さっさと止めなさいよ!」
「……え?」
「このままじゃ、椿が人殺しになるわよ! いいの!?」
リコにそう言われて、はっと我に返った。
「つ、椿、落ち着いて……! 殺しちゃダメだ!」
すぐに振り返って、自転車の上の椿を覗き込む。
『っ……!』
瞬間、ルビーのような瞳の奥にある、瞳孔がキュッとしぼんだ。
それだけで椿も、自分を取り戻したらしい。唇を動揺に震わせながら、展開していた矢を静かに仕舞ってくれた。
『……すまない。こんなつもりじゃ、なかったんだが……。こんなことをするつもりなんて、これっぽっちも……』
片手で目頭を押さえながら、椿は擦れた声で言う。
手を痙攣させ、冷汗をどっと流しているその姿は病人のようだった。確かにずっと体調は悪そうだったけど、ここまで酷くはなかったはずなのに。
何かがきっかけでこうなった? それとも、緩やかにこうなっていったのか……?
「椿さん……限界みたいですね」
そっと椿の頬に手を添えようとすると、後ろから誰かに声を掛けられる。
見ると、ふらふらと蛇行しながら、雪柳がこちらに近づいて来ているところだった。
「雪柳、無事だったのね!」
「はい。手袋のおかげで、なんとか……」
煤けた頬を拭いながら、雪柳はにこりと微笑む。
……ちょっと待って。そんなことより今、変なことを言わなかった?
「椿が限界って、どういうことなの? 雪柳は何か知ってるの?」
「あれ? 夏見君は、オオミズアオについて調べなかったんですか?」
僕の問いかけに、雪柳はキョトンと目を瞬かせる。
「オオミズアオって……椿の元になっているっていう昆虫のこと?」
「そうです」
雪柳は、こくりと頷く。
「オオミズアオは、ヤママユ科の蛾だってことは前にもご説明しましたよね。実はこのヤママユ科の蛾の一部には、共通の特徴があるんですよ」
「共通の、特徴……?」
「そう。それは……成虫になると口が退化してしまうという点です」
雪柳が提示してくれた情報は、確かに初耳だった。
でも、それが椿と何の関係が……?
「そのためオオミズアオは、成虫になった後は一週間程度で死んでしまいます。新たに栄養を補給できないからです」
「……それは、元々の昆虫としての特徴でしょう? 椿にはちゃんと口があるじゃない」
「そうですね。でもその代わり、体がありませんね?」
自転車の上の椿を見やりながら、雪柳はつぶやく。
「椿さんのその透明な体……ずっと気になっていたんですよ。今まで見てきた蟲の中にも、巨大化したり、戦闘用に特化したものはたくさんいました。けど、椿さんのように実体がないものは一匹もいませんでした。それが一体どういうことなのか……私、今まで考えていたんです」
雪柳は曇りない眼で、こちらを見つめてくる。
「結論から言うと……椿さんのその体は、退化した口と同じようなものなんですよ。椿さんは蠱毒の蟲だから、他の蟲を倒して栄養を得ることはできる。けど、その栄養を蓄える実体がないから、飢えを満たせない。いくら蟲を殺しても、その力は全て蟲としての成長に使われてしまう。他の蟲は成長するのと同時に飢えも満たされているようですが、椿さんは違う」
そこまで一気に言うと、雪柳は大きく息を吸った。
「つまり椿さんは、蠱毒が始まった時点からずっと絶食状態だったんですよ」
「だ、だから……?」
「椿さんは怒りで頭に血が上ってしまった時、あまりの空腹で本能を制御できなくなってしまったんじゃないでしょうか。だから、人間にまで攻撃しようと……」
その言葉に、脳の奥の奥がチリチリと痛んだ。
「そうだったの、椿?」
『…………』
「今まで体調が悪そうだったのは、飢餓状態だったからなの? 死にそう、だったからなの?」
『…………』
椿は、雪柳の説明にも僕の質問にも答えずに黙っていた。
これだけのことをして、説明をされて、肯定も否定もせずにいるなんて……答えは一つしかないじゃないか。
雪柳の憶測は、事実なんだ。
椿は、今現在も僕のせいで苦しんでいる……。
「ちょっと、どこに行くの?」
自転車に乗って飛び立とうとすると、リコが慌てて前に立ち塞がってくる。
「アンタには、あの男のこととか色々説明してもらいたい――」
「……邪魔、しないで」
カチカチとペダルを前後に動かしながら、僕は囁く。
「蟲を殺すんだ。一匹でも多く。椿が早く、楽になれるように……」
その時僕は、どんな顔をしていたんだろう。
リコ達の驚愕に引きつった表情を見ていたら、ほんの少しだけ興味が湧いた。




