第2節:物理学の授業
俺の特別授業は、村の広場で、すぐに始まった。教科書も、黒板もない。あるのは、この村にある、ありふれた道具と、俺の知識だけだ。生徒は、ロイドをはじめとする村の若者たち全員。そして、ボルツやセーラ、アリアたち科学教室の主要メンバーも、固唾を呑んで授業の成り行きを見守っている。
「さて、諸君。物理学、と聞いてもピンとこないだろう。簡単に言えば、これは『楽をするための学問』だ」
俺の掴みに、若者たちはきょとんとしている。
「楽を……する?」
「そうだ。例えば」と俺は、広場の隅に転がっていた、子供の頭ほどの大きさの岩を指差した。「ロイド、あの岩を、素手で持ち上げてみろ」
ロイドは、元兵士としてのプライドがある。彼は「ふんっ!」と気合一閃、全身の筋肉を隆起させて岩を抱え上げた。だが、その顔は真っ赤になり、額には汗が滲んでいる。
「……重い。だが、持てなくはない」
「そうか。じゃあ、今度はこれを使ってみろ」
俺は、彼に一本の頑丈な木の棒と、支点にするための小さな石を渡した。
「これは……?」
「テコだ。その棒の端を岩の下に差し込んで、真ん中あたりを石で支え、反対側の端を、指一本で押し下げてみろ」
ロイドは、言われるがままにテコをセットした。そして、訝しげな顔で、棒の端を人差し指で、ぐっと押し下げる。
すると、信じられないことが起こった。
あれほど苦労して持ち上げた岩が、まるで羽のように、いとも簡単に、くいっと持ち上がったのだ。
「なっ……!?」
ロイドは、自分の指と、持ち上がった岩を、信じられないという顔で交互に見ている。
「な、なんだこれは……!? 俺の指一本の力で、あの岩が……!」
その劇的な光景に、見ていた若者たちから「おおっ!」というどよめきが起こる。
「これが、物理学の基本の一つ、『テコの原理』だ」と俺は説明した。「支点、力点、作用点。この三つの位置関係をうまく調整すれば、小さな力で、何倍、何十倍もの大きさの力を生み出すことができる。岩を持ち上げるという『仕事』の量は同じでも、人間が感じる『力』は、劇的に小さくなる。つまり、『楽』ができるわけだ」
俺は、地面にテコの原理の図を描いた。支点を作用点に近づけるほど、力点に加える力は小さくて済む。それは、この世界の誰もが経験則としては知っていたかもしれない。だが、それを「原理」として理解し、意図的に応用できる者は、誰もいなかった。
「次に、これだ」
俺は、ボル刃物に作らせておいた、いくつかの滑車と、丈夫なロープを取り出した。そして、村で一番高い木の枝に、麻袋いっぱいに石を詰めた重い荷物を吊るした。
「ロイド、今度はこれを、ロープ一本で引き上げてみろ」
ロイドは、ロープを肩に担ぎ、歯を食いしばって引っ張り上げる。荷物はゆっくりと持ち上がっていくが、彼の腕の血管はちぎれんばかりに浮き出ていた。
「では、次に、この『滑車』を使ってみよう」
俺は、定滑車と動滑車を組み合わせた、簡単な仕組みを木にセットした。そして、ロープの端をロイドに渡す。
「引いてみろ」
「……うおっ! か、軽い! さっきの半分以下の力で上がるぞ!」
ロープを引くたびに、荷物がすいすいと持ち上がっていく。そのあまりの軽さに、ロイドは自分の力を疑っているかのような顔をしていた。
「これが『滑車の原理』だ。動滑車を一つ使うごとに、必要な力は半分になる。二つ使えば四分の一だ。これもまた、『楽をするための知恵』だ」
テコの原理、滑車の原理。俺が次々と実演してみせる「力の法則」は、若者たちにとって、まるで魔法のように見えただろう。だが、それは誰にでも再現可能な、科学の力だった。
最後に、俺は授業の核心に触れた。
「そして、これらの原理は、ただ重いものを持ち上げるためだけにあるんじゃない。敵を倒すための、最高の武器にもなるんだ」
俺は、地面に、村の周りの簡単な見取り図を描いた。
「敵は、西の街道から、馬に乗ってやってくる。彼らの武器は、そのスピードと、突撃の威力だ。つまり、運動エネルギーだ。ならば、俺たちはそのエネルギーを、利用し、逸らし、そして、彼ら自身に返してやればいい」
俺は、街道の特定の場所に、×印をつけた。
「ここに、落とし穴を掘る。だが、ただの穴じゃない。底には、先端を尖らせた杭を並べる。そして、穴の上は、巧妙に偽装する」
「しかし、騎馬隊の先頭が気づけば、すぐに避けられてしまいます!」
ロイドが、的確な指摘をする。
「その通りだ。だから、先頭の数騎が穴に落ちた瞬間、俺たちは次の手を打つ。これだ」
俺は、街道の両脇の、小高い丘の上に、丸を描いた。
「ここに、巨大な『テコ』を設置する。巨大な丸太を何本も、丘の斜面に並べておくんだ。そして、敵が落とし穴で混乱した瞬間、その丸太を固定しているロープを切る。テコの原理で、丸太は凄まじい勢いで坂を転がり落ち、敵の側面を粉砕するだろう」
「……!」
ロイドの顔から、血の気が引いた。彼は、その光景を想像し、兵士として、その恐ろしさを瞬時に理解したのだ。
「さらに」と俺は続けた。「村の門の前には、深い堀を掘る。そして、唯一の入り口である跳ね橋には、滑車の原理を応用した仕掛けを施す。敵が橋に殺到した瞬間、子供一人分の力で、橋を跳ね上げる。橋の上の敵は、堀の底へ真っ逆さまだ」
若者たちは、ゴクリと喉を鳴らした。自分たちが今学んだ、物を楽に持ち上げるための「平和な知恵」が、これほどまでに恐ろしい殺戮の道具へと変貌する事実に、彼らは戦慄していた。
「戦いは、数じゃない。知恵だ」
俺は、生徒たちの顔を見回した。
「俺たちの科学は、命を救い、生活を豊かにするためにある。だが、時には、俺たちの手で築き上げたものを、守るためにも使わなければならない。アードラー辺境伯に、思い知らせてやろうじゃないか。このグレイウォールを、ただの百姓の村だと思って舐めていると、痛い目にあうということをな」
俺の言葉に、恐怖に怯えていた若者たちの目に、次第に闘志の光が宿り始めていた。それは、自分たちの未来は、自分たちの知恵で守り抜くのだという、強い決意の光だった。




