第2節:小さな巨人
俺は、科学教室の生徒たちと、不安げな顔で集まってきた領民たちを、活気を失った村の広場に集めた。ボルツの鍛冶場から聞こえていた槌の音も、今は止んでいる。誰もが、次々と仲間が倒れていく原因不明の病に怯え、仕事を手に付ける気力さえ失っていたのだ。
「みんな、聞いてくれ」
俺の声が、重く沈んだ空気に響く。集まった人々の視線には、期待よりも、疑念と恐怖の色が濃かった。水の呪いを解き、土地を蘇らせた俺への信頼も、死の恐怖の前では揺らぎ始めていた。
俺は、地面に木の枝で、奇妙な絵を描き始めた。それは、理科準備室の教科書で見た、破傷風菌の模式図。マッチ棒のような形をした、小さな生物の絵だ。
「俺たちの敵は、こいつだ」
俺は、地面の絵を指差した。
「目に見えないほど小さな生き物、『細菌』。そいつらが、この村の土の中にいて、俺たちの体の傷口から中に入り込み、毒を出して悪さをしている。これが、この病の正体だ」
領民たちは、ざわめいた。「さいきん?」と、聞き慣れない言葉を口々にし、気味悪そうに地面の絵を見つめている。それは、彼らの知るどんな生き物とも似ていなかった。蛇でもなければ、虫でもない。ただの、不気味な記号の集まりにしか見えなかった。
「馬鹿なことを言うな!」と叫んだのは、ロイドという名の、元兵士の若者だった。「生き物なら、目に見えるはずだ! 俺は戦場で、ありとあらゆる獣や魔物を見てきたが、そんな豆粒よりも小さな生き物なんているもんか!」
彼の言葉は、この世界の常識そのものだった。無理もない。顕微鏡という「新しい眼」を持たない彼らにとって、微生物の存在など、悪霊や妖精の類と変わらない、荒唐無稽な与太話にしか聞こえないのだ。
「そうだそうだ! 領主様は、俺たちを騙そうとしてるんじゃねえか?」
「水の時みたいに、また何か難しい言葉でごまかしてるだけなんじゃないのか……」
一度は俺に寄せられた信頼が、目に見えない絶対的な恐怖を前に、脆くも崩れ去ろうとしていた。人々は、理解できないものよりも、たとえ絶望的であっても、慣れ親しんだ「呪い」という概念の方に、安らぎを見出そうとしていた。
俺は、彼らの反応を冷静に受け止めた。パニックに陥った集団を、正論だけで説得するのは不可能だ。教師として、言うことを聞かない生徒を力でねじ伏せても、本当の理解は得られないことを、俺は嫌というほど知っている。必要なのは、彼らが自ら気づき、行動するための「きっかけ」だ。
「わかった。信じられないなら、それでもいい。俺が間違っているのかもしれない」
俺は、一度、彼らの不信感を受け入れた。その意外な言葉に、領民たちは少し戸惑った表情を見せる。
「だが、事実として、患者は増え続けている。このまま何もしなければ、この村は全滅するだろう。それだけは、確かだ。原因が信じられなくても、対策を取ることはできる。これから俺の言う通りにやってみて、もし一人でも新たな患者が出たら、その時は好きにしてくれて構わない。俺を村から追い出したっていい」
俺は、賭けに出た。俺自身の信用と、この村での立場、その全てを賭けた、科学の実験だ。
俺の真剣な眼差しに、領民たちの間の動揺が、少しだけ静まった。
「いいか、敵が傷口から入ってくる、という仮説が正しいとすれば、まずやるべきことは二つだ。一つは、できてしまった傷口を『清潔』に保ち、そこにいるかもしれない敵を殺すこと。そしてもう一つは、そもそも敵を体に近づけないように、俺たちの体そのものを『清潔』にすることだ」
俺は、彼らの日常生活を思い浮かべた。畑仕事で泥だらけになった手で、そのままパンを掴んで食べる。トイレの後も、手を洗う習慣はない。そもそも、彼らの世界には「体を洗う」という行為自体が、特別な儀式でもない限り、ほとんど存在しないのだ。
「俺たちは、目に見えない敵に、あまりにも無防備すぎる」
俺は、広場の中心に、使われずに放置されていた大きな調理用の鍋を設置させた。そして、村人たちに、家々の竈に残っている「灰」と、料理で使い、古くなって捨てられる寸前だった動物の「脂」を、ありったけ持ってくるように指示した。
「これから、この村で革命を起こす。あんたたち自身の手で、この病から仲間を、家族を、そして自分自身を守るための、最強の武器を作るんだ。その名も、『石鹸革命』だ!」
俺の唐突な、しかし力強い宣言に、領民たちは、何が始まるのか全く理解できないまま、ただただ呆然と顔を見合わせるだけだった。




