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大雨の日の翌朝、祐一郎は短い警告文をうけとった。『やめておけよ』という、雑誌の活字を一文字ずつ切り抜いた不揃いな文字が、便箋のまんなかに六つ並んで、朝刊のあいだに挟まって、郵便受けに入ってた。
「どうかした?」
花が首をかしげてキッチンに立ち、あくび交じりに、玄関で立ちすくんだ祐一郎の背中に声をかけた。
祐一郎は、なんでもないと小さく笑い、便箋を尻ポケットに突っ込んだ。キッチンに新聞を持っていき、花に見せるようにテーブルのうえにひろげる。そうやって手を動かしながら、心のなかをのぞかれないように、いろんなことを矢つぎばやに言う。
「いや、あの、あれだ、そろそろ出かけるけど、朝ご飯は、トーストとチーズと、サラダに好きなドレッシングをかけてさ。お昼はゆでたスパッゲティと、トマトソースが冷蔵庫のなかにあるから、それをレンジであっためて食べて。夕飯は帰ってきてから作るよ」
「うん」
「あと、アマゾンに注文してた本が午前中に届くだろうから、出かけないで受けとっといてほしいんだ」
「ねえ、そんなに読まれたくないの?」
花が折り込みチラシを引きぬいて、新聞より先にひろげる。祐一郎の返事を待たずにつづける。
「祐一郎が、いやだったらさ。あたしは読まないよ。でも、たまに見ようとしなくても見えちゃうこともあるけど、それは許して」
花の言葉は優しかったけど、同時にこわくもあった。見ようとおもえば、いつでも心をのぞけるんだろう。渉の死にざまや、祐一郎の身に昨夜起きたことを、少女が知るのはいつになるだろう。
玄関のドアを開けると、昨夜降っていた雨は上がって、足元のアスファルトもところどころ乾いている。
――この手紙と、昨日の犬のやつらは……やっぱり関係あるよね。
振りかえると、花が冷蔵庫を開けながら、片手をひらひらさせていた。
白髪の少女と、昨夜の白い獣の姿が重なりあって、祐一郎は軽く頭をふった。
「いってきます」
といってドアを閉めると、雨上りのきれいな空気が、コートの隙間から入ってくる。成関高校に通勤するため、駐輪場の原付へと歩いていく。
出勤して職員室に入ると、野々原先生がめずらしく先に来て、祐一郎の隣の机に座っていた。早いですね、と挨拶すると、片手で酒をあおる仕草をする。徹夜で飲んじゃったらしい。この人はいい先生だと思うんだけど、ときどき破天荒なことをするんだよな。
剣治のことを話題にすると、ちょうど欠席の連絡があったという。引っかかるものを感じ、祐一郎は一日中、落ちつかない気持ちで授業を進めていった。
帰り道、この日は犬の襲撃はなかった。
アパートのドアを開け、郵便受けから夕刊を引きぬいたとき、祐一郎は玄関に見慣れない靴があるのに気がついた。
電気のついていない、西日の射したうす暗いキッチンを覗くと、麻衣が窓ガラスにもたれて立っていた。祐一郎にむかって片手をあげる。
「やあ、遅かったわね。お邪魔してるわ」
といい、指に挟んでいるタバコに口をつけ、煙を吐く。黒のデニムパンツに黒のカーディガンの真っ黒な身なりで、目線をキッチンのテーブルにむけた。
花がパイプ椅子に座ってテーブルにつき、射しこむ西日が白髪をオレンジ色に染めている。飲みかけていたミルクのコップを一息で空にしてテーブルに置き、立ちあがる。
祐一郎はキッチンの入り口に立ち、夕刊をつかんだままで背筋を伸ばした。麻衣がこのアパートを訪ねてくるのは初めてで、何か始まるような気配を感じる。
花はいつものデニムをはいて、祐一郎があげた縞模様のセーターを着てる。ゆったりと歩み寄ってきて、「おかえりなさい」と「ただいま」をいって二人で向きあう。花が何か言いたそうな顔つきに見えたので、祐一郎はだまって待った。日焼けした頬っぺのふくらみに西日が貼りついて光ってる。
「なんていうのかな」と花がうつむいて言う、「あのね、ぜんぶ、ありがとね」
祐一郎の肩がふるえ、右手に持った夕刊が、くしゃくしゃと音をたてる。花の言葉に続きがありそうで、それを聞くのが怖い。なぜなら、少女の声がかすれてるように聞こえたから。
「じゃあね、祐一郎。さよなら」
といって花が祐一郎の横をすり抜け、玄関でパタパタとスニーカーをはき、ドアノブに手をかける。キッチンの入り口と玄関ドアのあいだ、三メートルくらいしか離れてないのに、ひどく遠いような気がする。「だいじょぶだよ」と花の唇が動いて、コートも着ないで外へ出ていく。
麻衣がすぐ横に立って、祐一郎の腕をグイとつかむ。
「なんなんですか、これ?」
と祐一郎は成りゆきに面食らって、間抜けな声で聞いた。
「花ちゃんは、研究所内に避難してもらうわ。急な話で悪いんだけど、あなたたち二人の安全のためよ」
「安全のため、ってことは――すると、昨夜の犬のやつらですか? 所長か彰良さんがぼくにけしかけたんじゃないんですか」
と祐一郎がいうと、麻衣が手をはなし、目を丸くして驚いてみせる。演技でないとしたら、あれは彰良が勝手にやったんだろうか。わからなかった。
「初めて聞く話だわ」
と所長がため息まじりに答えた。
「犬をけしかけたって、どういうこと? 大丈夫だったの」
祐一郎は力なくうなずいて、昨夜のことを説明する。帰り道で、いきなり奇妙な犬に襲われたこと、二匹で協力して祐一郎を狙っていたこと、犬たちにグロテスクな触手が生えていたことも。ぜんぶ聞き終わると、所長が湿り気のある息をすごく長く吐いた。
「そんなこと、あったんだ……。なら、なおさら、あなたをこれ以上関わらせないことが、わたしたち全員のためかもね」
「……」
「ごめんね」
「……大丈夫です」
「研究に関わったことが原因で、あなたが事故にあっちゃったら、中野城製薬研究所全体が問題視されてもおかしくないもの」
麻衣の主張に、いちおうの道理を感じて、祐一郎は唇を噛んで足もとを見た。汚れたフローリングの床に、日差しがにぶく反射して目にしみる。
「ぼくがいなくなって、研究がうまくいくなら、それでいいんですけど……でも、あいつ、死んじゃうんですか?」
祐一郎の声はふるえた。
「そうならないように、できる限りのことをするわ」
「そりゃ、そうでしょうね」
祐一郎の皮肉を聞き、麻衣が泣き笑いみたいな表情を浮かべ、黒いコートのボタンを留めて、玄関から出ていく。
取り残された祐一郎は、人気のなくなったアパートを見まわして、脱力し、キッチンの床板に頬をつけて横になる。
――なにが、『だいじょぶ』だってんだ?
悲しみとむなしさが祐一郎の手足から力をうばい、床に横たわったままで意識が薄れていく。なにが、こんなに悲しいんだろう。花が居なくなることか、研究所に行けなくなることか、少女が死んでしまうのに止められそうにないことか、そのぜんぶなんだろうな。そこまで考えたところで、祐一郎はスーッと眠り込んでしまった。
「ちくしょう、なにが、大丈夫だってんだよ……なにが。ちくしょう」
祐一郎は低くうめいて、冷えて凝り固まった体を、フローリングの床から起こした。重いまぶたをあけて、作業机のあるリビングへ這っていき、震えながらパソコンの電源を入れる。このアパートに仕掛けた盗聴器に入っているはずの、花と麻衣の音声を再生するためだ。
よほどグッスリ眠ってしまったみたいで、時刻は深夜三時をまわろうとしている。
祐一郎が目的のファイルを見つけ、マウスを操作して日時を前日の十五時ごろにすると、しばらくして、耳に詰めたイヤホンから、あわてた様子の花の声が流れだした。
「おかえり。あれ、麻衣? ……祐一郎は?」
麻衣が眠そうな声であいさつし、二人はしばらくがさごそ物音をさせながら、他愛もないやりとりをした。その年の十一月末の寒さとか、かといって暖房を効かせすぎると頭がぼーっとするとか、そんなことだ。
やがて二人とも席に着いたらしく、動きまわる物音が消え、ノイズのなかで、会話が再開される。
「あなたを、ここから研究所に移したいの」
ノイズまじりだが、はっきり聞き取れる声で、麻衣が語りかけた。
盗聴器を置くという発想は、自衛が必要、と剣治にいわれて思いついた。通販サイトで買って二日後に届いた盗聴器は、びっくりするほど軽かった。こんなに早く、盗聴器が役に立つ時がやってくるなんて、祐一郎は予想していなかった。ただ剣治の剣幕におされて、冷蔵庫の裏のコンセントに仕込んでおいたのだが、じっさい使うことはないだろうとさえ思ってた。
会話が続く。
「祐一郎はどうなるんです?」
と花がたずね、一拍おいてまた麻衣が答える。
「彼があなたの実験に関わることは、もう、ないわ」
麻衣の声色に、沈むような調子が加わっていた。
「どういうことですか、それ」と花が追及する。
「そのままの意味でとっていいわ。祐一郎くんを、このままあなたに関わらせることはできなくなったのよ。……これは、私の判断」
花が沈黙し、相手のつぎの言葉を待つ。
「このままだと、危険なの」
「あたしが、ですか?」
「ううん。あなたじゃなく祐一郎くんのほう。このまま彼が深入りすれば、彰良が……彼を殺すかもしれない」
祐一郎は背筋を伸ばし、びくりとふるえ、目を閉じて耳を澄ます。
「あなたが居なくなれば、研究との接点がなくなるから、助かると思う」
「あたしが、いなくなれば」
その言葉の響きが、花は気にいったみたいだ。祐一郎にはそう聞こえた。想像のなかで、少女が目を伏せて両手で握りこぶしを作り、黙ったままうなずく姿が見えた。
花がためらわずに答える。
「いいですよ」
祐一郎の体がまたふるえた。会話の成り行きが意外で、聞きつづけるのがこわい。怯える祐一郎をよそに、所長と少女が、ノイズのむこうで聞き取れないくらい小さく、笑っている。
――なにがおかしいんだよ。
わけがわからないまま、ノイズまじりのくすくす笑いが途絶え、不意に麻衣が、「ねえ、花ちゃん」と呼びかけた。
「花ちゃんの望みって、なに?」
「望み、って。変なことを聞くんですね」
花の声がすこし上ずった。それも一瞬のことで、つぎの言葉を吐くときには落ちつきをとり戻していた。
「あたしの望みって、死ぬことですよ」
それを聞いた麻衣が黙ってしまうのを、祐一郎は泣きそうな顔になって聞く。先週、花を迎えに行ったとき、同じように死を望まれたときのことを思いだす。まだ一週間もたっていないのに、すごく昔のことみたいだ。
冷蔵庫のドアを開けて、閉めて、テーブルにペットボトルを置く音が、いやにはっきりひびく。
花が話題を変える。
「さっきのあれ、あたしがここから研究所に移るってやつ。急がないといけないんですか?」
麻衣の返事が聞こえてこない。少女が投げやりに要求をいう。
「べつに、死んだって構わないんですけど、祐一郎にお別れをいえないのは、嫌です」
「死んだって……ってさ」ようやく麻衣が答えた。その声が落ちつきはらっていたから、きっと、ただ黙ってたんじゃなくって煙草をくわえたんだな、と祐一郎には見当がついた。
「あなた、彼となにかあったの?」
祐一郎は息をのみ、耳をすます。すると、イヤホンのなかで、花がバカみたいに笑った。
「ちがいます。死んじゃうのはどうしようもないけど、さよならは、がんばれば言えるから」
麻衣がまたみじかく黙り、少女の言葉を噛みしめる。
また、人が歩く物音、かちゃかちゃいう食器の音、冷蔵庫のドアの音が聞こえてくる。テーブルをはさんで、麻衣がタバコをふかし、花が夕飯を食べているところを、祐一郎はまぶたの裏に思い浮かべる。
「祐一郎、か」
「はい?」
「あなたは、祐一郎になにを感じるの? なんにもないのに、そこまでこだわるの」
「こだわってるかどうかなんて、自分でも、わかりませんけど」
花の声は、低くつめたく、他人のもののように、祐一郎には聞こえる。その声が、少しかすれて、つぎの言葉になる、「だって、いまのこれが――いっしょにいて、ご飯食べて、たまにキャッチボールして、ゲームして――この部屋もさ、あんまり広くないし、一階だし道路の音もうるさいけど……気に入ってるから」
「祐一郎のことも、そうだよ。気に入っちゃったんですね」
花が、ぽつりと、つけ加えた。麻衣がやわらかい声を出す。
「彼が来るまで、待ちましょ」
それから二人は声を出さなかった。やがて玄関ドアの開く音がして、部屋の主の帰宅する物音が鳴る。
祐一郎は、パソコンを切り、イヤホンを耳から外した。そして、はあ、とため息をついて椅子のうえで仰向けになった。
危険とか、花が死ぬとか、彰良が祐一郎を殺すとか、現実感がない二人の会話が、祐一郎の頭のなかに浮かんでいる。でも、と祐一郎は思いかえす。じっさいに、じぶんはサトリみたいなふしぎな白犬に、おそわれたばかりだ。あれがもう一度起こったとしたら、こんどこそ、身を守れる自信はない。
花は、実験体として、消えていくんだろうか。本人は、それでいいと思ってるのだ。だけど、ぼくは、本当にそれでいいのか? ほかに、道はないんだろうか。
祐一郎は、携帯電話をとり出した。