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 月曜日の深夜三時、祐一郎は計画どおりに中野城製薬研究所に忍びこんだ。裏口のドアのカギを開けて体をすべりこませる。

 アパートから研究所までの通いなれた細い道でも、林に囲まれた中にひっそりと建っている研究所の敷地に入ってからも、あたりは静まりかえっていた。祐一郎の意識は透きとおって高揚してる。

 ふだん使っている机の隣の席に、祐一郎は座った。パソコンを起動し、以前、盗み見たことのあるパスワードを入力する。読み込みがはじまった。マウスポインタが画面にあらわれるまで、祐一郎のパソコンより長く感じられるのは、扱っているデータ量が多いからだろう。

 祐一郎は、剣治の指示に従って、彰良のパソコンを起動していた。その中に記録されているはずの、実験映像のデータを盗んでほしいと、少年が祐一郎に要求したからだ。

 やがて、表示されたホーム画面から、動画フォルダを見つけ、都合のいいことに日付順に整理されているそのなかから、目的の日付を見つけ出す。渉が死んだ日に記録された動画を開く。

 モニターにあらわれるものを祐一郎は凝視した。

 実験室らしかった。薄いマットレスの簡素なベッドと、パイプ椅子、蛍光灯の明るい光、うす汚れた白っぽい床。その床に広がっていく血だまりに目が留まり、祐一郎の背筋がふるえる。

 カメラは実験室の天井の角に取りつけられているらしい。部屋の中央で、彰良と渉がベッドを挟んで向かい合って立っている。

 彰良はやや前傾姿勢で、横幅の広い体の右脇に、黒くてぴかぴかした拳銃を抱えていた。渉はうつろな目をしていて、少年のそういう目つきを見るのは祐一郎には初めてだった。

 お互いに異様だった。

『八十三番、わからないか?』と彰良が呼びかけている。

 渉が、『ゆういちろう』とつぶやく。

 少年の顔が左右に揺れだして、脳天から額にむかって赤いヒビが入る。額が割れて、血液がどくどくと流れ出る。心臓の鼓動に合わせて、頭から肩へ、胸へ、どぷ、どぷっ、と血しぶきがあふれる。渉の顔面は、小ぶりな鼻まで縦に割れかけていて、頭がい骨の隙間から赤黒いかたまりが少しずつ顔を出していた。

 はじめのうち祐一郎は、渉の脳みそが異常に膨れているのかと思った。もしかしたら、脳のなかの心を読む部分を使いすぎて、脳が大きくなった結果、頭がい骨が割れたのか。でも、そうだとしたら、圧力から眼球がとび出したりするはずだけど、渉にそんな様子はみられない。残る可能性は、なにか非常に硬いもの――あの赤黒いもの――が、頭がい骨をつらぬいたということだろうか。でも、あれはなんだ?

 祐一郎はモニターに顔を近づけ、渉の頭部に目をこらす。

 触手……だろうか。直径十センチくらいの何かが、彰良のほうへ伸びる。ぎこちなくふるえながら伸びていく、小学生のころ動物園で見たニシキヘビみたいに太くて赤黒い触手。

 突然、触手が勢いよく突き出て、しなりながら彰良の頭を横殴りにした。彰良は片腕をあげて側頭部を守ったが、ガードのうえから吹きとばされて、丸い体が床をゴロゴロ転がる。壁にぶつかってようやく止まったとき、彰良はすでに黒光りする銃を体の前にかまえてた。

 彰良が銃口を渉の頭部に合わせる。一発目の銃声が鳴りひびく。触手の先がはじけ飛び、実験室の壁が赤く染まる。二発目の銃声で、渉の頭部は八割がた吹きとばされる。渉の体が実験室の床に倒れ、それっきり動かなくなった。死んだんだ。

 モニターの前で、祐一郎は机をこぶしでたたき、大粒の涙をこぼした。何度もしゃくりあげて、しばらく流れる涙の筋をぬぐうのも忘れてた。それでも何かを見つけようと、動画のそのシーンを、何度か繰り返し再生してみた。胃液が逆流してくるので口を手で押えた。

 けっきょくはなにも分からなかったけれど、渉が死んでしまう光景を何度も見つめては、自分が何をするべきだったか、今度はどうするか、考えていた。

 三十分後、祐一郎は動画ファイルを新品の黄色いUSBメモリにコピーして保存し、鞄にしまい、腫れかけた目をこすりながら立ちあがった。研究所を出る途中で、祐一郎は渉の亡くなった実験室をのぞきたい衝動にかられたけど、また泣いてしまう気がして我慢した。

 渉は死んだ、いや、殺された。だけど、あれは、寿命や事故と呼べるんだろうかと、死にぎわの様子を見てしまったいまとなっては、祐一郎には納得がゆかなかった。

 帰り道、祐一郎は歩きながら何度も下をむいて首を振った。あの赤い角か触手のようなもののことを考えると、脳裏には、科学雑誌で読んだ、冬虫夏草というキノコのことが思いだされた。

 蝉などを養分にして成長する、キノコの一種のことだ。あの触手は、渉の脳に根を張っていたのか、全身に巣食っていたのか。いやそもそも――。

 自宅のドアノブに手をかけようとしたとき、図ったように、携帯電話がポケットのなかでふるえた。電話をとると、剣治が落ちついた声でねぎらった。

「先生、お疲れさまでした」

「どうも。きみ、眠くないのかい?」 

「眠いっすよ。その調子だと、うまくいったんですか」

「うん」と祐一郎はうなずくけれど、うまくいったという気分にはなれない。ただ黙って、少年が指示するはずのことを待った。

 祐一郎の気持ちを察したのか、剣治も余計なことはいわず、動画のデータを明日持ってきてほしいとだけいった。

 そうして最後に、「それじゃ、おやすみなさい」と挨拶した。

「あ……おやすみ」

 戸惑った顔をして、祐一郎は電話口で頭を下げていた。玄関灯に飛んできた季節外れの蛾が、ばたばたと音をたてている。ドアノブに手をかけたまま、剣治という少年に湧いてきた親近感をおしこめるため、下唇を強く噛んで数秒待った。

 花を起こさないようにと、慎重にドアを開け、足音を殺して祐一郎はトイレを済ませ、寝床にむかう。データの入ったUSBメモリはバッグに入れたまま、玄関わきの廊下に置いてある。布団のうえで苦い唾をのみこみ、遅刻だけはしないようにと、祐一郎は目覚まし時計と携帯のアラームをいつもより念入りに確認し、目を閉じた。



 火曜日の放課後、祐一郎と剣治は、立ち入り禁止の屋上で話をし、動画を収めたUSBメモリを手渡した。

 少年は苦しそうに目を閉じて祐一郎の報告を聞き、黄色いメモリを受け取ると、曇り空を見あげた。それから、中のデータを知人といっしょに見ること、明日には何かしら花を助ける方法について話せるだろうということを、丁寧だけどところどころ軽薄な言葉づかいでいった。

 最後にもう一度、空を見あげた。風の音が鳴っていた。

「雨、降ってきそうっすね」

 じっさい、帰り道、祐一郎がその日の授業の後始末を終え、校舎を出る午後七時ごろには、すっかり暗くなった空から台風みたいな激しい風が吹きつけ、ザアザアの雨が降っていた。

 成関町の駅前から二キロもはなれると、街灯はあるが、人通りは全くないという、ひっそりした住宅街にはいっていく。この辺の土地では駅前だけがにぎやかで、駅が徒歩圏内でない人たちは、車を使用する。だから、夜にひびく物音は車の走る音だけで、歩道には人影がない。まして、強い風雨の日は、なおさらだ。

 祐一郎もふだんは原付通勤だけど、強風のせいで、原付を置いて帰るにした。成関高校から駅を挟んでむこう側にあるアパートまで、傘をさし、風に揺られて歩く。

 成関高校から成関駅まで徒歩で一五分、駅からアパートまでさらに三十分かかる。駅前を通りすぎ、国道から家と家のあいだの細い道に入り、三つ目の角を曲がったとき、祐一郎は襲われた。

 突然、背後から吠え声がして、振りかえると一匹の犬が祐一郎の肩に前足でしがみつき、頭に噛みついてきたんだ。痩せた白犬の頭部めがけ、祐一郎は革のカバンを振りかぶり、めちゃめちゃに打った。二度、三度と重い鞄で叩くと、ようやく犬が地面に転がった。路上に転がった犬の細長い胴体のうえで、つめたい冬の雨つぶがはねる。祐一郎としては、人通りのない裏道で、とつぜん襲いかかられたので、ほかに対処する術がなかった。

 白犬は何事もなかったように起き上がると、鼻づらをこちらに向け、ピンク色のぶあつい舌を出した。犬は荒く息を吐き、ぶつけられた頭頂部から血を流して、傷口から白っぽい頭蓋骨をのぞかせている。両眼がウサギみたいにまっ赤だった。

 祐一郎は傘を放り投げて駆けだした。靴音と乱れた呼吸音だけが、二、三メートルの幅に整備されたアスファルトの細道にこだまする。

 逃げながらときどき後ろを振り返ると、犬は赤い血を流しながら、祐一郎を追いかけてくる。距離は縮みはしないが、引き離すこともできない。

 昨日まで、そいつは犬だったんだろう。逆三角形に垂れた長い耳と、丸みのある鼻頭、五歳の子どもぐらいの大きさの白犬。だけど犬って生き物は、人間の頭に牙を立てようとはしないもんだ。

 風がもっと強くなってきた。祐一郎は打ちっ放しのコンクリ壁に挟まれた急な階段を下りる。吹き荒れる風雨にさらされて、祐一郎の体が階段の途中でぐらりと揺れる。

 こめかみに片手をあててみると、鮮血が手のひらにべたりとひっついてきた。あらためて、じぶんのおそわれている危機の重大さに、寒気をおぼえながら、階段を二段とばしでおりていく。濡れた石段に足をつくたび、傷つけられた側頭部の痛みが増してくるみたいだ。

 ――なんなんだよ、あれは。

 また祐一郎は、肩ごしに背後をちらりとのぞく。階段のうえで、白い犬はこちらを見下ろしてたたずんでいる。見逃してくれるのだろうか? 胸をなでおろし、よろめく体で階段を下りきって、灰色の壁に手をついて顔をあげ、アパートにつづく二車線道路脇の歩道を見すえる。するとまた、白い生き物が、前方の路上から、こちらにむかって駆けてくるのがみえた。

 もう一匹、いるのだ。冗談じゃない、と祐一郎は片手で顔をおおった。

 ただ居るだけじゃない。二匹目の白犬の頭に、触手のような赤黒いこぶが、頭がい骨の隙間から生えているのが見えた。

 祐一郎は周囲を見まわし、状況を整理する。相手は背後の階段のうえで一匹がこっちをにらみ、前方からもう一匹が近寄ってくる。目の前はひろい道路だが、道路を挟んで前後は放棄された畑といま降りてきた林で、助けてもらえそうな人家はない。戦って切り抜けるしかなさそうだ。祐一郎の腰が落ち、鞄を握る右手に力がこもる。

 前から来る白犬が、鼻づらを地面近くつけ、祐一郎と一メートルほど離れた歩道のうえで急停止する。おたがい、相手の隙をうかがって、そのまま数秒が経つ。背後から近寄ってくる気配を感じ、祐一郎はあわてて振りかえる。

 白い体と黄色い牙が、階段の途中の暗がりに浮きあがった。そいつは跳ね上がり、祐一郎の頭部めがけて落下してくる。とっさに頭を手でおおいながら屈み、それをかわす。と、もう一匹がとびかかってきて、祐一郎が頭をかばっている左腕に噛みついた。

 激しい痛みが腕から全身にひろがり、祐一郎は腕を振りまわす。白犬を階段の横壁に叩きつける。一回、二回、三回目で、ようやく顎の力が緩み、犬が水たまりにころがる。

 すぐに二匹目が頭にとびかかってきたので、祐一郎は右手で鞄を振って叩き落とす。息つく間もなかった。しかも、二匹ともなんのダメージもないらしく、すぐに起きあがって祐一郎に寄ってくる。

 ――殺す、しかない。

 こいつらが狙う場所は、常に人間の頭部だという直感が、祐一郎の体を動かした。左手で鞄のなかのペンケースからハサミを出して固く握る。頭の前に鞄をかまえ、目の前の白犬めがけて突進すると、予想どおり、祐一郎の頭をねらって犬の前頭部がのびてくる。

 祐一郎は左手で鉄製のハサミを握り、鞄の陰から手を伸ばして、刃を犬の眼球めがけて振り下ろした。やわらかく鈍い手ごたえがあって、白犬の目に刃が半分ほど突き刺さり、犬が苦悶の声をあげる。後ろにいた白犬が、仲間の悲鳴を聞いて、1メートルも後ずさった。

 鞄を押しつけて、犬の体を濡れた地面に倒し、さらに左手をふって、犬の目のくぼみをハサミの刃でえぐった。それから、弾けるようにとびのいて、雨降りのアスファルトのうえで、ガードレールにもたれかかる犬を、ハサミを握りしめたままの祐一郎は、まばたきもせずに見つめた。いまの一撃にどれほどの効果があったか、たしかめる意味で、うすぐらい街灯がちらちら照らす犬の体を見据える。

 うつろに空いた穴みたいな目で、白犬がふらりとガードレールからはなれ、前のめりに崩れていく。同時に、頭蓋がパカッと割れて、あかぐろい触手が祐一郎めがけてのびてくる。

「うわっ」とまた顔のまえに鞄をかかげると、かろうじて間にあって、衝撃をうけてうしろに倒れたが、祐一郎は無傷ですんだ。歩道をころがり、雨と泥でよごれた体を起こしてみる。犬はガードレールわきの 路面に手足を伸ばし、片目に開いた深い穴から血を流し、ぴくりとも動いていない。どうやら、死んでくれたらしい。

 祐一郎はアスファルトに手をついて立ちあがり、死んだ白犬のほうへおそるおそる歩きだす。

 ――なぜ、この犬は、僕をおそったんだ?

 路上にたおれた犬に近づき、死がいのうえにしゃがみこみながら、考えをつのらせる。犬の頭部は、ほぼ左右対称にむごたらしく割れていて、隙間から赤黒いこぶか角のような肉のかたまりが、十五センチほども突きでていた。

 もう一匹のほうは、仲間が殺されたことに恐れをなしたのか、いつの間にかいなくなっている。

 祐一郎は死んだ犬のそばにしゃがんだ。渉が死ぬ前、頭から突き出ていた肉塊を思いだす。濡れた手を伸ばし、犬の頭から突きだしているグロテスクな肉にさわる。ぶよぶよしていて、まだ少し生ぬるい。祐一郎の冷え切った脳みそで、疑問が渦を巻いている。

 ――どういうことだろう……?

 どうみても、こいつらに、計画的に人間を襲撃する知能があるとは思われない。ということは、そうさせた人間が、関わってるのか。もっとわからないのは、『サトリ』が特殊な人間である、という前提が崩れそうなことだ。

 サトリが人間の突然変異でないとしたら、何なんだろう。いまはもう、それが不完全ながら犬にも――あるいは、犬としても――存在することがわかった。あるいは、サトリの遺伝子情報を、犬に組み込むことができたのだろうか。でもどうやって行ったのか、そんなこと?

 彰良に会って、どう考えるか聞いてみたかった。そのために、自分がデータを盗み、剣治に渡したことを話さなきゃならなくっても、いまなら構わないような気がする。だって、データを盗んだ時点で、じぶんはもう引きかえせないところに来たんだから。

 びしょ濡れのままの体が、夜風でますます冷えていくのをやせ我慢して、やっと雨脚の弱まってきた住宅街の舗道を、祐一郎は両腕で体をかき抱いて歩いていった。


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