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第三話 縄張り争いなクラスルーム

 俺の朝は早い。

 朝五時には既に起床しており、布団を畳むと二階から降りて、洗面所で身だしなみを整える。

 それが終わったら、台所に降り立って、朝食の準備をする所なのだが、今日は同時に弁当を作らねばならない。

 俺が謎の部活に参加させられてから二週間が過ぎ去った、つい昨日、右腕のギブスが簡易版に取り替えられて、無茶をしない限り動かすのには支障がなくなったのだ。そうなった以上、憎き能面女に俺の家庭力を見せ付けなければならない。

 コンセプトは春。

 お花見気分が味わえる、春のうららかな息吹を感じさせる弁当を作る。そのために、いつも以上に早く起床した俺である。妹や母、朝早い父もまだぐっすり眠っている時間から、俺は一人蛍光灯の明かりの下で、調理器具を見据えていた。

 弁当は基本的に冷めるものだ。

 料理とは出来たてを口に入れることが何よりも美味しく食べるコツであり、その前提を覆す弁当には、それなりの工夫が必要になってくる。

 肉は冷めると脂が舌触りや味を悪くするから、炒める時に水溶き片栗粉を加えてトロミをつけたり、卵でふっくらと包んでやると冷めた脂の影響を受けにくい。炒め物は植物性の油で、揚げ物は食感に気を配るために衣に工夫を、ハーブを使って冷めた料理にもしっかりとした味を、などなど、一つ手間を加えれば冷めても美味しい弁当が出来上がる。

 彩りは勿論だが、もれない、しみない、くずれない、を意識して、食材と料理を選ぶのも美味しくするコツである。

 しばらく、作業に没頭していると、父が起きてきた。時計を見れば時刻は六時半、八時には仕事場にいる父は大体六時半から七時前くらいまでには起きて来る。

「おはよう、父よ。今日は弁当作ったから持っていけよ」

「む、…………」

 父は言葉になっていない音を発した後、右腕をグッと上げ俺に向けてきた。

 基本的に父は無口な人間である。そのせいで勘違いされがちだが、心根は人一倍優しい。どうしてこんな父からあの妹が生まれてきたのか、未だに解けぬ人類の謎である。

 父が朝食を終え、仕事に向かって数十分、時刻は既に七時十五分を回っている。

 しかし、妹の奴はまだ起きて来ない。

 小学校は我が家から遠くないが、登校は八時十分まで。これは比較的遅めの時間帯だとは思うが、時間的余裕は既にない。

「はぁ…………」

 俺は再び二階へと戻り、妹の部屋へと侵入した。

 もはや毎日の恒例行事なのでノックすらしない。

 スヤスヤと幸せそうにベットで眠る我が妹は、上はTシャツ下はパンツだけという格好で、布団をさも恋人のように抱いていた。

 何と言うだらしのない姿だろうか。

 女性に夢を描く男子諸君、残念ながらこれが現実である。

 ざっと部屋を見渡すと、その有様も酷い。

 読み散らかされた漫画、ラノベ、床に置かれたノートパソコン、それとお菓子の袋。吊るされていない制服、それと脱ぎ散らかされた下着、この部屋がもし彼女の部屋だったならば、破局待ったなし、だろう。

 妹の下着など、さらには半裸など、たとえそれがどんな絶世の美女であろうと、既に女とは認識しないのだけれど、これはそれ以前の問題だ。少なくとも、ここに寝ているのが美少女な彼女でもきっと俺は興奮できない。

 こいつはとにかく出したものを片さない。床がさもゴミ箱だと言わんばかりに、何でもかんでも床に散らかす。片腕を骨折してから掃除してやっていなかったので、いつにも増して凄惨たる有様だ。

 最低限度、女の子の部屋としてこの部屋が成り立っているのは、何を隠そう、というか隠す必要もなく俺のおかげだ。白と薄いピンクで整えたこの部屋の最低限度の調度品は全て俺が用意したものである。

 白塗りのカーテンと絨毯を敷いてやったし、組み立てた学習机には教材を置いていたのだが、今ではゲームが出しっぱなしで置いてある。本棚を用意してやったのにテーブルの上にはラノベと漫画が積み重なっているし、手鏡に櫛、その他おめかしセットもテーブルの上においてやっていたのだが今では床に置かれている。

 これで、平然と生活が出来るのが、彼女が彼女たる所以なのかもしれない。

 我が妹ながら、将来が心配である。

「おい、起きろ、妹よ」

 俺はスヤスヤと眠る妹の頬を潰すように、突く。

 こいつは寝つきがいいから、朝日だとか、叫び声だとかでは起きる気配も見せない。起こすには、物理的接触による刺激が一番手っ取り早いのだ。

「…………むぅ……あに……きちくぅ……」

 おい、お前はどんな夢を見ている。

 その寝言は色々とアウトだ!

 てか、起きてるよな、絶対起きてるよな!

 そうは疑うものの、いつもの台詞が出てこないから多分まだ起きていない。

 俺は怒りに任せて、左手で、その頬を握り引っ張る。

「おい、起きろ、愚妹よ」

 すると、妹は力の入っていない手で、俺の手を掴み、退けようと試みながら、

「むむぅ、後五日……」

 なんて、いつも通りの台詞を言う。

 年中頭ん中ゴールデンウィーク女め。

 脱水症状になるぞ、ついでに餓死の危険もある。

「却下だ、遅刻すんぞ」

 俺は妹の頬をさらに引っ張り布団から引き離す。

「あによ……おお、偉大なる兄メシアよ、どうか、どうか御慈悲を……」

 俺は知っている。

 お前が貰ってきた簡易版聖書を枕代わりにしていたほどに、宗教に興味関心がないことを。幾らなんでも罰当たりだ。キリスト教徒の皆様に土下座しなさい。

 だから幾ら祈っても神の慈悲などない。

 大人しく、今すぐに起きるがいい。

 すると、先ほどまでとは一転して急に態度を変える我が妹。

むぅう、起きるから手を離せ、乙女の肌を汚す変態めっ……」

 ふむ。

 攻勢に出たつもりだろうが、甘い。

「取り合えず、この部屋を何とかすれば乙女と認めてやろう」

「やっぱ、乙女じゃなくていいです……」

 即答。

 ノータイムで乙女を諦めやがった。

 清清しいまでに怠惰に正直な妹である。

 だが、今日はまだ可愛げがある。抱っこしてと言わないし、起こしてとも言わないし、着替えさせて、とも言わない。流石に骨折している兄にそこまで要求をしない程度の常識は会得しているらしい。

「……あーー、だりぃ……兄、おんぶして……」

 うむ、なるほど。

 確かに抱っこ、は、要求しなかった。

 やはり妹には常識も良識も存在していない、か。お兄ちゃんは失望しました。

 俺は失意の元、妹の布団を引っぺがした。

 それでもなお、気だるそうに座り込み目を擦る妹は、いつまでたっても次のアクションを起こそうとしない。

 全く、腹立たしい限りだ。四十秒で支度しなという名言を知らないのか。

「着替えろよ、パンツで学校いくつもりか、お前は……」

「兄はもっと、愛を起こせる栄誉が与えられていることに感謝すべき、超絶美少女の下着を見れて嬉しいでしょ? ほれ、ほれ、感想は?」

 なんて、着替えながら言う妹に、俺はため息も出てこない。

 俺は妹が脱いだTシャツとそこいらの服を畳んでいく。なんだこのそこはかとなく嫌な流れ作業。

 繰り返すようで申し訳ないが、妹に生物学的な性別は存在しないのである。

 まだ絵に描いた下着の方が性を感じられるのだ。

「はぁ…………」

 俺は結局感想としてため息を投げた。

 すると妹は、

「兄、だからモテない」

 なんて言う。

 失礼なやつめ。

 だが、構わない。

「将来はモテる、金の力で」

「それはモテるとは言わない。愛はモテるけど」

 知っている。

 というか、予測はつく。

 何せ、贔屓目に見なくとも、うちの妹は可愛い。それは間違いない。本性を知らなければ、という意味のある枕詞がつくのだけれど。

「男女交際は大人になってからだ、でないと俺が許さん」

 赤の他人ならともかく、妹につまらない後悔をさせるわけにはいかない。

 破局しか行き着く先のない恋路に妹を立たせるなんて絶対にさせん。

「なぜ兄が決める?」

 何故?

 愚問を。

 俺がお前の兄であるからに決まっている。

「家族だからだ。将来の結婚相手にしてもいいって男が出来たら、自由にすればいい」

 少なくとも多感な時期を終えて冷静な判断ができるようになるまでは、交際は避けて欲しいと切実に思う。

 だからといって、妹の自由な恋愛を無意味に阻害するつもりも俺にはない。

 年収一千万、とは言わないでやる。好きな相手と居ればいい。

「ま、お馬鹿な同級生に興味ないけど」

 と、妹は言った。

 さも、当然のように。

 まあ、仮に妹の見た目に騙されたとしても、本性を知れば逃げていくことだろう。老人ホームの介護よりも難易度が高いぞ、こいつの世話は。将来の夫には心から同情の念を贈ろう。

「お前の本性を受け入れてくれる相手が、見つかるといいな」

 それだけは、心配なのである。

 上辺でなく、本性の付き合い。

 そんなものは、学生の恋愛に求めるべきことでもないし、婚約者であっても簡単にできることではない。

 だから、ほんの少しだけ、心配してやる。

 だが、そんな俺の心配をあざけ笑うかのように、

「案外もう、見つかってるかもよ」

 そう言って、妹は生意気にも、はにかむのだった。







 緊張の余り汗がぽつん、と滴った。

 肌を撫でる春の風では、清涼剤にには些か足りない。沈黙の中、俺はごくり、と生唾を飲み込んだ。

 そして遂に――

 裁定を下す箸が、伸ばされる。

 その先にあったのは黄金色の宝石だ。

 箸で巻かれた卵が切り取られる。だが、俺が巻いただしまきは崩れない。

 手応えは無く、箸の上で黄金が揺れる。

 それは、少女の口に運ばれて、俺はただその様を見つめていた。

 解けゆく層の食感と、卵の甘味、そして絶妙に引いた出汁の旨みだけが、彼女の口腔内に広がっていることだろう。

 だが、少女はそれでも無表情を崩さず、沈黙は続いた。

 やがて――

「驚いた――」

 少女はだしまきの余韻に浸りながら、待望の一言を口にする。

「――おいしいわ」

「どんなもんじゃーいっ!」

 俺は年甲斐もなくガッツポーズを決めてしまった。

 この冷徹な能面女に、うまいと言わせられれば俺の料理の腕も中々のものだろう。早坂に味見を頼んでみて、味を保障されていたから自信はあったのだが、それでも、こいつの口からその一言を聞くまでは安心できなかった。

 俺は大きく息を吐き出した。

「桜香る春尽くし弁当、自信作だ」

 さくら雑穀おむすび、梅紫蘇おむすび、そして花ずしが織り成す主食、その傍には香のものが添えられている。おかずは高校生らしいものを多く用意した。若鶏のから揚げ、エビフライ、菜の花とたけのこのベーコン巻き、春野菜の煮物、かぼちゃのマッシュ、そして最後に、出し巻き卵。

 完成まで約一時間と二十三分(朝食も込み)。

 久しぶりに力を入れて料理をした気がする。

「カップめんより美味しいわ」

「比較対象がしょぼい! 素直に喜べねーよ」

 いや、あれはあれで美味しいけれども。

「あら? 私の主食にけちをつけるつもりかしら? インスタント食品が一体どれ程の利益を上げているかしらないの? 相変わらず低脳ね」

 どうして俺は何故ご馳走しておいて暴言を受けなければならないのか。

 クソ、これだから人生はままならない。

 てか、主食がインスタントって。

 料理しろよ、女子力を疑われるぞ。

「体に悪いぞ」

 と、俺が言うと、彼女はおにぎりを小さな口で頬張った。

「知ってるわ……でもいいの……」

 そう言ってから、もう一口。

 何故か諦めたように呟く、その言葉を、俺は聞き流そうとした――

 けれども、耐え切れない違和感が襲ってくる。

 それなりに、人の感情の機微に俺は敏感だ。趣味と言うか暇が多いから人間観察は良くやっている。

 無表情は確かに、感情を隠すのには最適だ。

 だけど、呼吸のリズムが少しだけ変わったことに気づけば、何か考えていることがあるのは分かってしまう。我ながら不必要な特技だ。

 だからと言って、成功者の考えることなど分からない。

「よく分からんが、悩み事か?」

 聞いてどうなるでもない。

 むしろ、どうにもならない。

 多分、どうもできない。

 好奇心は時に迷惑にしかならないのだろうことは理解できる。だからこれも、俺の勝手だ。

 勝手に聞く。その後のことは、またその時になってから考えればいい。

「別に」

 お前にそんなしおらしい、女の子っぽい反応など求めていない。

 だが、彼女の眉はいつも以上に動いていた。

 さてさて、能面女の悩みか。

 新田のように単純であればいいのだが、そんな訳がない。

 学生らしく、いじめられているとか。

 ないな。

 俺は自分の答えを即座に否定する。

 こいつのことだ、上履きに画鋲でも入れようものなら、犯人を突き止めた上で、犯行現場を録画し、脅迫する程度のことはやって見せるだろう。孤独に嘆くタイプでもない。

 じゃあ、恋の悩み。

 それもない、か。

 こいつのことだ、気になる男子の弱みを握り、情報を洗って、家族でも人質に取り、その上で付き合え、ぐらいは言いそうに思える。

 じゃあじゃあ、体の悩み。

 背はそれなりに高い、顔は言うまでもなく美人、肌は純白、手足もモデルのようだ。不満を口にすれば全国の平凡女子から非難轟々だろう。

 それでも、強いて足りない部分をあげるとするならば、

「胸が膨らまない、とか?」

 と、つい、口にしてしまってから後悔する。

「………………」

 俺は今、無言で馬鹿にされていた。万の言葉を尽くしても語りきれないであろう侮蔑を受けている、そんな気がする。

 彼女の視線は言っていた。

 お前はどうしようもないほど愚鈍なクズだな、と。

 そして、

「低脳の貴方に一応教えて上げるわ。胸とは脂肪の塊であり、膨らみに期待できることなど何もないのよ。決して、夢など詰まっていないわ。ついでに言うなら、女性の価値はそのバランスにこそあるのよ、理解しておきなさい。私は総合的に見てこのプロポーションが一番適しているの、分かるかしら? いいえ、ミジンコ並みの知能しか持ち合わせていない貴方にはきっと分からないでしょうけれど。 後――」

 一息に言い終わった後、彼女は食べ残りの弁当を口いっぱいに頬張って。やけ食いをするかのように咀嚼しきった後に、

「――最低」

 と、言い残して、去っていった。

 後に残ったのは、思わず言葉を失った俺と器用に退けられたベーコン巻きの具であった菜の花だけ。

 俺はそれを口の中に放り込む。 

「好き嫌いすんなよ、大きくならねーぞ」

 静かになった屋上で俺は、誰に向けるでもなくそう呟くのだった。







 空に昇った太陽の日差しが、徐々に色を変えて行くそんな放課後、俺は一割未満の義務感と九割以上の強迫観念に駆られて、部室へと足を運んだ。

 そして、いつも通り重く感じてしまうドアを開いて、教室の中に立ち入ると、

「なっ……!」

 そこには少女の死体があった。

 しかも、それは以前見たことのある女子生徒で、くしゃくしゃになっている髪をサイドテールに編んでいることからも、以前相談に来たであろう新田結衣であることが推測できた。

 ドアを閉め、できるだけ誰にもこの状況を知られぬように、部屋の隅々を閉鎖してから彼女に近づく。

 だが、近づいても机に突っ伏した少女から呼吸音は聞えてこないし、生きている気配をまるで感じなかった。しかも、以前ならこうして俺が近づいただけで恥かしそうに距離を取ったり、顔を赤らめたりしていた彼女が何も行動を起こそうとしない。

 これは異常なことだ。

 俺は冷静に彼女の腕を取る。

「冷たい…………」

 それも信じられないほどだ、生者の温もりを全く感じない。

 本当に、死んでいるのでは、と信じかけたその時。

 トクン、と。

 弱々しい心音が聞え、脈があることが確認できた。

「何だ、生きてたのか……びっくりさせんなよ……」

「…………」

 そう言ってみたものの、返事はない。

 まるで屍のようだった。これが演技だとしたら、彼女はアカデミー主演女優賞も夢ではないだろう。

 俺に手を握られ、脈を取られていると言うのに、羞恥による心拍の加速も見られない辺り、彼女は本気で凹むような何かがあったことは間違いなかった。

 俺は彼女の手をそっと放し、自分の特等席である教室の端にある椅子を引いて、妹の部屋からパクってきたライトノベルを一冊取り出した。それを、机の上においてから、尋ねる。

「で、何かあったのか?」

 そう、聞いてみたはものの、凡その検討はついていた。

 こいつはどっかの能面女と違って、感情も読み取りやすいし、悩み事も分かりやすい。

 今日あった一つの行事と彼女の問題を重ねれば、自ずと答えは見えてくる。

 秒針が、時間を刻んでいく、が――いつまで経っても、何も答えない。

 机に突っ伏したまま、微動だにしない。

 そんな彼女に向けて、俺は静かに口を開いた。

「班分け」

 俺が言った瞬間。何の反応も示さなかった少女の体がピクリと動いた。

 図星か。

 今日の放課後クラスでオリエンテーション合宿の班分けが行われた。確か五人一組で分かれろと言われ、俺はまあ、知り合いなどいないわけで、偶々同じクラスだった早坂のおまけとして、浮かれ系男子の班に入った。

 まあ、こいつの場合、俺と同じく組む相手がおらず、残り物になって、その上でどこかに入れてもらった、といった所か。だが、それだけならこうも落ち込む理由にはならない。

「はぁ、黙られると何も分からん……何かあったなら言えよ、そのために、ここに来たんだろ?」

 まあ、その相談相手は俺ではなく、琴月の方かもしれないが。つか、あいつは何をやっている、早く来いよ、部長だろうが。

 女子の問題に、男の俺が口出しをすべきではないのかもしれないが、俺も色々とやってしまった以上、それなりの責任がある。

 進めた手段が裏目になることなど珍しくもない。その結果がこれだとしたら、放っておいて本を読むのは余りにも筋違いだ。

 俺が新田を見つめていると、少女は暗闇から少しだけ顔を上げて、

「…………」

 そんな闇の中から、微かにだが瞳が見えた。

「…………わ、……わ、たし…………ごめ、んなさい…………」

 そして、今にも泣きそうな顔で。

 震えるような声で。

 そんなことを言う。

 何を謝っているのか、何処に向けて謝っているのか、何に対して謝っているのか、何もかもが不明なまま――少女はただ無価値に言葉を発している。

 俺は彼女が何に脅えているのか、分からない。

「どうしたんだ?」

 と、もう一度聞く。

「…………せっかく……色々して貰ったのに、わた、わた、私……緊張して、何も言えなくて、声かけて貰えたのに……な、仲良く、できなくて……」

 なるほど。

 予想通りと言えば、予想通り。

 だけど、それだけではないはずだ。

 そこまで聞いて、俺は少し自分の提案が浅はかだった、と反省した。

 彼女は周囲と比べることで自信が作れない。むしろ、誰かと比べれば自分が下だと考える人間である。そうであるならば、切っ掛けを掴むことは難しい。

 そして、失敗し続ければ、とあるリスクが付き纏うことになる。

「何を言われた?」

「…………」

 返ってきたのは再びの沈黙。

 だけど、これも大体の想像はつく。

 例えば、

 あいつ急にお洒落して高校デビュー? とか、

 きゃはは、でもでもあんまり上手じゃないよね、誰か教えてあげなよー、とか、

 先に日本語覚えたほうがいんじゃね、だとか、

 まあ、そんなことを言われたのかもしれない。

 俺ならそんな戯言全く気にしないし、琴月ならば努力を馬鹿にするな、と言うかもしれないし、早坂なら逆にすげーだろとか自慢するだろうし、四ノ宮ならば正面から理路整然と打ち負かすであろう。

 でも、彼女は―― 

 新田結衣と言う少女は、きっと何も言い返さないまま、俯くか、無理をして口元に笑みを作るのか、きっとそんな所であろう。

 反省しなければならない。むしろ、猛省すべきだ。

 結果を急ぎすぎた方法が裏目に出た。だけど言い訳をするならば、時間がなかったのも事実だ。今週の臨海学校オリエンテーション合宿までに、友達を作ることが彼女の目標であったのだから。

 しかしながら、この結果を知れば、きっとあの暴力ゴリラは俺を許さないであろう。

 俺がどうすべきか頭を悩ましていると、再び、新田は弱々しい声を発した。

「あ、の……違うんです……私……あの…………自分が、その…………情けなくて……」

 彼女は途切れ途切れではあるが、事情を話した。

 それを、聞いて、俺は少しだけ彼女のことを誤解していたことに気づいた。甘く見ていたと言ってもいい。

 失礼な勘違いをしていた。

 つまるところあれだ。

 新田結衣は俺が思っていた以上に、心根の強い女の子であった、ということなのだろう。

 事の発端は、やはり、臨海学校の班分けだった。

 当初彼女はクラスの中で、それなりに話をできる仲になった知り合い以上友達未満の女子生徒と同じ班になれれば、と考えていたらしい。

 だけど、うまくいかなかった。断わられた、と言う。もう五人決まってしまったの、ごめんなさい、と。

 彼女はそれを妨害とは認識していないのかもしれないが、きっと何らかの悪意が働いていたと、俺は思った。

 いや、やはり彼女は気づいていて、あえて気づかない振りをしているのだろう。

 基本的に、新田のような人間は善意よりも悪意のほうに敏感になっているのだから。

 取り残された彼女へと声をかけたのは、クラスの中心的存在であった、東条由香里とうじょうゆかりという人物であったらしい。彼女は一人でいる新田にこう言った。

『あら、結衣ちゃん一人~? じゃあじゃあ、うちらの班に入る? あ、でも、先約いるし、その子と交代ってことで入れてあげてもいいよ? お願いしてくれたらね、ね?』

 と、まず真っ先に班決めなど終えているはずの人物が、そんな提案をしてきた。

 新田は二つの班に断わられた、と言った。

 普通、声をかければ正面きって断わりを入れる日本人は少ない。だが、理由があれば断わる人間は多い。

「縄張り争い、か」

 それともただの嫌がらせか。

 おそらく両方。性格的に若干後者の意味合いが強いかもしれないが、何処にでもある、クラス内ヒエラルキーを示すための、威圧と牽制。その被害者として選ばれたのが、気弱で無口で、容姿にも特に優れていない、普通以下と認定された新田結衣と言うわけだ。

 下らない。

 これだから社会という奴は、人間という奴は、人生という奴は、下らない。

 リーダー格が同じ群れに命令をする。あいつを少し疎外しようと。それによって、優越感に浸ろうと。そして今度は、周辺の弱小集団に圧力をかける。勿論直接的に言うのではなく、空気を作る方針で。

 例えば、

『えー、あの子を一緒の班に誘うの? なんか暗い感じじゃない?』

 とか、言って。

 さも、自分は特別に疎外したいんじゃないんですよ、アピールをしながら。

 同調しなければ、お前がおかしいと言わんばかりに。

 そして、そんな空気が広がって、悪意に満ちたイジメが自然に出来上がる。

 それを、利用したのが群れ社会のボスである東条とやらだ。あえて自分の班に入れてあげることで懐の深さを周囲にばら撒き信頼を得、やがて時間とともに孤立していく新田を自然とパシリにでも使うようになる。それに周りは反発できないし、反発しようともしないだろう。

 彼女と言う捌け口を元に、クラスの掌握が可能なのだ。

 断わっても、行き場のない彼女の選択は、たった一つしか残されていない。

『……お願いします、私を班に入れて貰えますか』

 と、新田は崩れた笑みで言ったのだろう。

「…………ごめんなさい、私……色々して貰って……貴方にも、彩音ちゃんにもよくして貰ったのに……な、な、なんりも、で、でぎなぐて……」

 彼女は悲しくて泣いているのではない。

 悔しくて泣いていた。

 色々と会話の技術を琴月に教えて貰って、話題の話を教えて貰って、荒い化粧と中途半端な髪型を学んで、それでも何も変われなかった悔しさを、心の内に溜めているのであろう。

 目元に溜めた雫が零れないように上を向いて、平静を装って会話しようと笑みを作って、それでも、口元が震えて声がうまく出ていなくて。

 努力もした。

 必死にもなった。

 変わろうともした。

 期待を胸に勇気を振り絞った。

 それでも、そんな小さな希望さえも、嘲笑うかのように否定するのが、現実というやつなのだろう。

「…………わ、だし……どうしたら、良かったのかな……?」

「…………」

 そんな少女の疑問にさえも、答えを持たない自分の無知が、酷く情けなくて、嫌気がさした。 

 少女の歪んだ顔さえも、元に戻す方法を知らない自分が情けない。

「分からん」

「…………」

 俺の言葉に、新田が俯きかけたので、俺はそれを遮るように言葉を続けた。

「一人の正論なんて空しいだけ。力のない正義など何の意味も持ってはくれない。綺麗ごとじゃあ社会は回らないし、何をしてもどうにもならない理不尽だって世の中にはごまんとある。誰かの悪意があることに周囲は気づかないことが多いし、気づいた所で誰も助けてはくれない。強いものがそうと決めれば、その辺を歩いている俺達モブキャラクターにできることなんて何もない」

 結局、俺のような人間が思いつく回答など、全て外れ、良くてニアピン賞だ。

 世界は正解じゃないことが、正解となって回っているのだから。

「だけど――」

 それでも、お前は知っておくべきだ。

「お前の努力は否定しない。俺が否定させない。いいか、知っておけよ、新田結衣。誰かが馬鹿にしたとしても、誰かが蔑んだとしても、誰かに否定されたとしても――――変わろうとした人間だけが、変わることができるということを」

 やればできる、だとか、明日から頑張るだとか、そんな言葉を吐く人間は、結局やらないからできないのと同義なのだ。

 彼女は少なくとも、この二週間で変わろうとした。

 その意思は、その努力は、この俺が知っている。

 琴月と放課後何度も会話していたのを知っているし、話題の情報を集めようとしていたことも知っている。自分でお洒落を調べたことも知っているし、失敗にめげなかったことも知っている。

 モブキャラクターは、モブキャラクターで、日々上を目指して進んでいる。その速度は疎らだとしても、彼女はここ二週間で上へと進んだのだ。

「うまくいかなくても、綺麗ごとだとしても、お前の努力は俺が見届けた。今はそれだけしかないが、我慢しろ」

 そうとしか、俺は言えない。

 将来の糧になる、だとか、きっといつかは、とか、そんな曖昧なことは言えないし、言う気もない。

 無駄な希望は本人のプレッシャーにしかならないのだから。

 友達を作りなさいとか言う教師や家族は、友達ができにくい人種がいることから目を瞑っているだけだ。

 皆と仲良くしなさい、なんて理想を押し付けてくる教師や家族は、現実を教えることすらしていない、ただの怠慢に過ぎない。

 それが、どれだけのプレッシャーか、気にも留めない俺には分からないが――

 立ち向かった彼女の勇気は分かるつもりだ。

 俺は、新田に一色ものの無骨なハンカチを手渡した。

 無駄な理想と違って、現実は常に警戒しておかなければならないほど残酷だ。だから俺は彼女に現実を突き付ける。

「涙を拭け。多分これからもっと辛くなるし、悲しくなる」

 イジメはきっとこれからが始まりだ。

 少女はクラス内で過酷な立ち位置になるだろうし、周囲は誰も助けてくれない。

 俺も助け方など分からない。

 だけど、幾つかの対抗手段くらいなら思いつく。きっとそれは優しい彼女を傷つけることになってしまうだろうけれど。

「――どうしても辛くなって、学校に通いたくない、転校したい。そんで、死にたいって思うようになったら俺に言え――」

 何の自信も確証もないが、拠り所くらいにはなるであろう。

 俺は酷く傲慢だと思いながらも口を開いた。

「――何とかしてやる」

 うまくいくかなんて知らん。

 できるかどうかも知らん。

 でも、俺は彼女の代わりに自信を持って断言する。

 涙の奥で揺れる瞳に語りかけるように、言葉を投げ付けてやる。

 すると、新田はくしゃくしゃだった顔をさらにくしゃくしゃにして、それでも精一杯の笑みを作って、

「……ぁ、ありがとう、ごいましゅ……!」

 なんて、擦れた声で言っていた。

 そんな綺麗とも言えない、むしろ汚いとすら言える笑みに、俺は満足して、視線を取り出した本へと向けた。

 すると、今度は――

「お待たせ! いやー、実行委員になっちゃって、クラスの子達が中々解放してくれなかったのよ。ってあれ、結衣ちゃん来てたんだ、いらっしゃい……ってあれあれ? 何で泣いてるの? あれ、もしかして奴隷一号に何かされた? おいこら、馬鹿奴隷! どういうことだ、これはっ!」

 勢い良く扉を開けたと思えば、勢い良く勘違いしている、琴月の登場である。

「ちょっと、あんた、何無視してんの! ぶん殴るわよ! 結衣ちゃんが大人しいことをいいことに、なんか、へ、変なことしたんじゃないでしょうね!」

 激昂する彼女には、新田の、ち、違うんです、なんてか細い声は届いていないのだろう。

 俺はそれに、苦笑を漏らし、必死に琴月を止めようとしてくれている彼女に、補足するように伝えた。

「訂正する、俺達が、だったよ」

 すると、今度こそ彼女は満面の笑みで、

「はいっ!」

 と、頷くのだった。

 喧騒が少女の不安を消し去ってくれれば、どれ程人生は楽な道のりであろうか。

 乗り気でもなんでもない、強迫観念に苛まれて始めた活動は、どこかの誰かさんのように本来の目的を忘れたまま、新しい段階へと進んでいく。

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