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白河院は荘園を集積したい

荘園制が発達すると、林田郷にも荘園が成立する。讃岐の林田郷は治安三年(一〇二三年)には石清水八幡宮の荘園になった。石清水八幡宮は承平天慶の乱で朝廷から反乱平定の祈願を受けた。反乱が平定されたため、石清水八幡宮への朝廷の崇敬は益々篤くなった。国司の横暴を排除する権威が高まった。

この治安三年は国司の横暴が問題になっていた。丹波国の人々が丹波守の藤原資業の苛政に怒り、京都の邸宅を焼く事件が起きた。荘園になることは国司の苛政から逃れるための選択肢になった。


源致公の子の源致任みなもとのおきただは寛徳二年(一〇四五年)に越前守になる。致任の子の源定俊は大膳大夫や越前守、修理少進、兵庫丞を歴任した。


定俊の子の高屋為経は近江国神崎郡高屋庄に進出して拠点とした。ここから高屋と名乗る。為経は播磨国にも進出し、赤穂郡大領になる。大領は郡司の長官である。郡司の四等官は大領・少領・主政・主帳である。為経は赤穂郡で常楽庵を結んだ。常楽庵は後に常楽寺になる。赤穂郡の東は林田郷のある揖保郡である。林田郷に近づいてきた。


白河天皇が応徳三年(一〇八六年)に譲位して院政が始まる。日本史の中世がいつから始まるかは議論がある。中世を鎌倉時代からとする説と院政期から始まるとする説がある。武家政権という観点では鎌倉時代、荘園制を重視すると院政期からとなる。

「今や院政期こそは、荘園・公領制度が確立する中世の成立期、すなわち新たな時代が切り開かれる画期と考えられている」(元木泰雄『保元・平治の乱を読みなおす』日本放送出版協会、2004年、5頁)

播磨の林田郷の一部は林田荘となる。林田荘は寛治七年(一〇九三年)に賀茂別雷神社(上賀茂神社)の荘園になった。この際に祝田神社は賀茂別雷神社の摂社の貴船神社の祭神を勧請して相殿として祀り、貴船大明神と称するようになった。

寄進地系荘園は寄進する相手次第で没収や消滅してしまう。このため、開発領主は、寄進する相手により強力で安定した者を選択する必要があった。特に延久の荘園整理令が出ると摂関家に寄進しても荘園の廃止を免れ得なくなった。このため、上皇が有力な寄進先になった。


武家貴族では源氏の源義家の名声が圧倒的に高かった。今様では以下のように謡われた。

「鷲の棲む深山には 並べての鳥は棲むものか 同じ源氏と申せども 八幡太郎は怖ろしや」

清和源氏が摂関家、桓武平氏が桓武平氏と結びついて勢力を伸ばしたと言われる。後者は正しいが、義家は白河院の近臣になっていた。摂関家と結びついていたのは義家の弟の源義綱であった。義家と義綱は河内源氏の棟梁の座をめぐって争う関係であった。

義家には荘園の寄進が相次いだ。義家は東国の武士の功労に私財で報い、その信頼を集めた。これら武士達は、義家の武力・地位を頼りに田地を寄進した。しかし、一介の武士に次々と寄進が集まることは、朝廷にとって看過できない問題であった。白河上皇は諸国の武士や農民が義家に寄進することを禁止した。次第に源氏は抑圧され、反対に平氏が台頭していく。


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