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源義親は冤罪を晴らしたい

源義親みなもとのよしちかは源義家の嫡男である。義親は対馬守になり、悪対馬守義親として武勇を称賛された。悪とは悪いという意味ではなく、勇名である。


ところが、太宰権帥の大江匡房おおえのまさふさは康和三年(一一〇一年)に官物を押領し、人民を殺害したとして義親を告発した。匡房は白河院の近臣である。匡房と藤原伊房ふじわらのこれふさ藤原為房ふじわらのためふさは白河院の近臣中の近臣中であり、三房と呼ばれた。

三房と言えば北畠親房ら後醍醐天皇の近臣の三房が有名である。この三房は白河院の三房を真似したものであった。


義親は冤罪であると主張した。大宰府の軍勢と戦ったことについては、大宰府の理不尽な収奪に対する抵抗であると主張した。朝廷は義家の郎党の豊後権守藤原資道を対馬国に派遣し、説得して召還させようとした。ところが、資道は義親と会って話を聞き、冤罪と確信した。逆に義親に従って官吏の殺害に加わった。


匡房の告発の背景は見解が分かれる。

第一に武士の棟梁として名高い源義家の勢力を叩く白河院の陰謀とする。

第二に義家も院近臣であるため、院近臣同士の権力争いとする。朝廷が義家の郎党を派遣したことは白河院の源氏潰しの陰謀ではなく、むしろ白河院は穏便に済ませようとした根拠になる。


朝廷は康和四年(一一〇二年)に義親を隠岐国に流罪と決定した。義親にとって理不尽な流罪であり、憤怒を抱え続けた。義親は悔し涙を流しながら連行されていった。隠岐国に向かう途中の出雲国で、出雲守・藤原家保ふじわらのいえやすの目代を殺害して官物を奪い、反乱を起こした。後の源頼朝も挙兵も第一歩は目代の殺害である。


朝廷は嘉承二年(一一〇七年)に因幡守であった平正盛たいらのまさもりを追討使に任命した。正盛は白河院に伊賀の所領を寄進するなどして重用され、北面の武士として活動していた。


正盛は僅か一か月で義親を討伐した。正盛は入京時に義親ら討ち取った者達の首を掲げて凱旋した。正盛は公的には義親を討伐したとして名を上げ、各国の受領を歴任することになる。ここから源氏は停滞し、平氏は躍進した。源氏と平氏の武家貴族の出世競争が逆転した。


武門の第一人者と見られていた義親をあっさり討伐することは人々に驚きをもって受け止められた。西国では源氏は強みを発揮できず、平氏に利があったのだろうか。

「義親は死んでいない。逃亡しただけである」

このように考える人も少なくなかった。その後も義親を名乗る人物が登場したり、義親を討ち取ったとの報告がなされたりした。


『平家物語』の冒頭では義親も平将門や藤原純友の後に、猛き者として紹介された。

「近く本朝をうかがふに、承平の将門、天慶の純友、康和の義親、平治の信頼、これらはおごれる心も猛き事も、皆とりどりにこそありしかども、ま近くは、六波羅の入道前太政大臣平朝臣清盛公と申しし人のありさま、伝えへ承るこそ、心もことばも及ばれね」


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