靭負の命婦
外からでは感じなかった、淡い沈香が仄かに燻っている。
火取で香を焚いていたのかもしれない。
真雪は、部屋のなかに足を踏み入れた。
本当は、こんな時間に訪れるべきではなかったのかもしれない。
暮れかかる夕空を背後に真雪は悔いたが、それも詮無いことだと気持ちを改めた。
女はまだ僅かに残る黄昏の光のなかで背を向けていたが、ゆっくり向き直ると、真雪を認めて言った。
「こんな時間に殿方の訪があるとは思いませんでした。私は靭負の命婦、美袮と申します」
元は宮仕えをしていた女官であることを匂わせる、落ち着いた声だった。
突然の来訪にも動じないさまを見て、真雪は幾分、気が静まった。
それだけ、男君のあしらいにも慣れているのだろう。
年齢は朝霧の女房と、同じくらいだろうか。
真雪は指貫の袴をはらい、その場に座して言った。
「高麻呂殿は、ここに来れば大原に住んでいた姫君のことを聞けると言っていました。それを頼みに、不躾ながら訪ねてきたのです」
命婦は、
推し量るように真雪を見返した。
「そなたは、なぜ大原にいた姫君のことを知りたいのですか」
こちらの意図を見極めようとする、強い何かが込められた口調だった。
底光りする深い眼差しを受け、真雪は一瞬言葉を呑み込んだ。
ここで偽りを言えば、すべてが無に帰していく予感がした。
真雪は唇を引き結び、正直な気持ちを口にしようと努めた。
「その姫君の、力になりたいからです」
命婦の、僅かに微笑む気配がしたが、それは失笑に近いものだった。
真雪は言葉を続けようとしたが、
それ以外何も思い浮かばず押し黙った。
その沈黙を逡巡ととったのか、命婦はいくらか厳しい声で言った。
「生半可な気持ちならおやめなさい。あの子の一体何を知るというのです」
真雪は、膝の上のこぶしを固く握り締めた。
「何も知りません。でも、今から知りたいと思っているのです」
間髪入れずに命婦は問い返した。
「命を賭けることになってもですか」
真雪は驚いて命婦の方を見た。
不思議と、澄んだ眼差しがそこにあった。
真雪が何も言えずにいると、命婦はさらに言った。
「あの子に関わるとはそういうことなのです。命を差し出す覚悟がないのなら、手をお引きなさい。
関わらないでいるのが御身のため。それでもあの子を助けたいと、心から言えますか」
夢のなかで見た、少女の泣き顔が浮かんだ。
まだあどけない、五つくらいの、短い袙を着た頼りない姿。
助けたい、と思った。
そんな気持ちになるのは初めてだった。
その気持ちの根底にあるものを、確かめたいのかもしれない。
あまりにも不確かな思いを前に、何を話せばいいのか分からないまま、それでも真雪は言った。
「簡単に死ぬつもりはありません。
でも、もしそれで命を失っても、俺はきっと後悔しないでしょう」
それが、今の正直な気持ちだった。
真雪が抱えていた空虚さを、きっとあの姫君も抱えている。
真雪はそう感じた。
だから放っておけないのかもしれない。
自分自身を試したい気持ち以上に、彼女に会いたい気持ちが勝っていた。




