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「ねぇ、ハヤト」
幼なじみに名前を呼ばれ、ふと我に返った。
ホームルームが終わったばかりの放課後の教室。
窓の外から聞こえてくるのはセミの声。
グラウンドにはジリジリと熱い日差しが降り注ぎ、教室の中には蒸し暑い空気が充満している。
1学期も残りわずかとなり、もうすぐストリートキングを決める戦いの日々が始まろうとしていたが……僕は今日も窓の外を眺めていた。
――ピリリリリ。
ふいに携帯が鳴り始めると、ビクリと体が強張ってしまう。
僕は……電話が嫌いだ。
(一体、誰からだろう?)
全く心当たりは無いのだが、いつまでも鳴り続けるコール音を聞きたくなくて、仕方なく出てみると、2年前まで兄さんが走っていたレーシングチームの監督さんの声がした。
『ハヤト君。ストリートレースに出てみる気はないか?』
一瞬、ドキリと心臓が跳ね上がったが、冷静に答えを告げる。
「すみません。僕はもう、レースに出るつもりは無いんです」
2年前から、僕の体は燃料が空っぽになってしまったように動かない。
それは多分、誰のせいでもなくて……。
窓から潮風が流れ込んでくると、なんだか錆びついたまま放置されているマシンのような気分になった。
(やっぱり、エンジンがかからない)
悲しいのか、悔しいのか。
それすら分からないくらい、僕の心は壊れてしまったようだ……。
大きなため息をつきながら立ち上がると、人が通れるくらいの通路を挟んで隣の席に座っている幼なじみが、好奇心に満ちた顔で近づいてきた。
「今の電話、何の話だったの?」
彼女は、僕がレーサーを目指していたことも、2年前に何が起きたかも知っている。それでも応援してくれるのだが……それが嬉しい反面、うっとおしいと感じる事もあった。
(伊織に説明するのは面倒だな)
とは思ったけれど、下手に機嫌を損ねると、後でもっと面倒な事になりそうなので、サラッと明かしておく。
「ストリートレースに出てみないかって誘われたんだけど……断った」
「どうして⁉ 参加してみればいいじゃない」
案の定、彼女は一生懸命、後押ししようとしてくれるが……今の僕は走れるような状態じゃない。
ハンドルを握る気にもなれないし、アクセルを踏む気力すら残っていないのだ。
「もう、走る理由が無いんだよ」
と呟いて、逃げるように教室を出た……。
***
伊織とは3歳からの腐れ縁だが、幼なじみといってもそんなに深い関係ではないし、そのうち愛想を尽かされてしまうかもしれない。
でも、今の僕にはどうしようもない。
大学受験か、就職か。まだ進路を決めかねているものの、高校を卒業すれば、この島に残る理由なんて無くなってしまうだろう。
高校3年。これがきっと、彼女と過ごせる最後の夏……。
***
僕がこの島に移住してきたのは、兄さんと一緒にカートスクールに通うためだった。
幼少期からカート漬けの生活を送り、プロのレーサーになる事が僕たち兄弟の夢だったから……。
でも、校門を出ると、練習用のサーキットには足が向かず、学生寮に戻ってしまう。
(あと半年で、この島ともお別れか……)
むなしい気分で宿舎に近づいていくと、見慣れぬ少年が出入り口の前をうろついていた。
髪はショートカットで、男にしては華奢な体つきだが、背は高め。
やたら大きなスーツケースを引っ張っているので、本土からやってきた転入生かもしれない。
この島では、夏休みの間だけ島内の各地でストリートレースが行われ、1番ポイントを稼いだチームのドライバーが『ストリートキング』と呼ばれるが、1か月以上もホテルに滞在しながら参加するのは大変なので、毎年、夏の間だけ移住してくる学生がいる。
本当はレースに参加するような人間とは関わりたくないのだが……目の前を無視して通り過ぎるのも悪いので、声をかけてみた。
「何号室ですか? 案内しましょうか?」
すると、てっきり男だと思っていた少年の口から、女性のような声がした。
「実は、人を探しているんです。山吹隼人というカート選手に会いに来たんですけど……」
「僕に⁉ 何か用ですか?」
思わず足を止めると、目の前の少年はニコリと笑った。
いや……もしかすると男ではなく女の子かもしれない。
近くで見ると女性のような顔立ちをしているが、彼女(?)の制服は男物で、スカートではなくズボンをはいているし、首元にはリボンではなく、ネクタイを締めている。
(やっぱり男なのか? それとも……)
「はじめまして。ボクは水島涼といいます」
名前を聞いても性別が分からない謎の客人は、ストレートな質問をぶつけてきた。
「どうしてカートをやめてしまったんですか?」
「それは……」
僕の兄さんは、優秀なカート選手だった。
僕も何度か表彰台に上がった事があるので、同世代のライバルたちには、僕たち兄弟が突然消えてしまった理由が気になるのかもしれないが……それをいちいち説明しなければいけない義務は無いし、そもそも初対面の相手に話すような事ではない。
「とにかく、もう公式戦に出るつもりは無いから」
それだけ伝えて立ち去ろうとすると、背後から澄んだ声が聞こえてきた。
「お兄さんの噂を耳にしました。もしかしたら、力になれるかもしれないと思って来たんです」
それはどういう意味なのだろう。
でも……。
(もう関係ない)
僕は背を向けたまま、男子寮の中に入ってしまった。




