招かれざる客・3
「どうも、恐れ入ります」
ロバートに「一身上の事情」について報告したラドストックは、おかしなほど顔を赤らめ、落ち着きの無い雰囲気だった。聞けばマギーの妊娠とほぼ同時期にハウスメイドのハンナが妊娠したと言うのだった。胎の子の父親はラドストックで、ロバートとマギーの結婚式の祝いで「皆が羽目を外した」日に、つい「思わぬ事に」なってしまったらしかった。
普通なら「風紀を乱した」使用人二人はクビになっても致し方ないのであったが……かねてからラドストックに所帯を持たせようとロバートは考えていたし、それなりに風采の良いラドストックと愛らしいハンナはなかなかに似合いのカップルで、相思相愛である事も侯爵家の皆が実はすでに知っていたので、何の問題も無いと言う事になった。簡素な結婚式が無事に新婦ハンナの実家の家族全員と、ラドストックの妹が出席して行われた。カシミールに居る兄からは、簡単な祝いの言葉を述べた手紙が届いただけであった様だ。
「生まれてくるこの子の乳母をハンナにして貰うって言うのは、どうかしら?」
ロバートが考えてもいなかった事をマギーが言い出し、女の上級使用人たちがそれに賛成した。ハンナの後任のハウスメイドはハンナの「気立ての良い従姉妹」を新たに雇い入れる事とした。ハンナに上級使用人にふさわしい教養やマナーを仕込むのは上級職の者達に期待されたが、一番こまごまとしたことを実際に仕込むのはどうやら夫のラドストックの役目になりそうだった。
「言い出したのは私だから、私が教えられることはハンナに教えましょう」
こんな事を言い出す貴族の夫人の話はロバートも聞いた事がない。だが、考えてみればマギーは並みの家庭教師などより人に教える事に向いていたし、それだけの十分な学識も有るのだった。バージルのラテン語とギリシャ語の勉強を見てやる傍らで、ハンナにきちんとした手紙の書きかたを教えたり、初歩的な数学や外国語の手ほどきをした。それだけではなく、ハーグリーブス夫人が食事のマナーを教える相手はバージルからハンナに変わった。針仕事はマギーの侍女役を務めるリジーから習う事になった。侍女がリジーのような若くない女であるのはこれまた珍しい事なのであるが「女主人を補佐する」能力は、経験豊富な人間の方が高いに決まっているのだ。
「なぜ他の邸では、侍女役のレディーズメイドは若く無いといけないように言うのかしら。リジーみたいに酸いも甘いもかみ分けた人間の方が、頼りになると思うのに」
マギーは本気でそう思っているようであった。
「うるさい母親みたいな侍女では嫌だと言う令嬢やら奥方も多いだろうし、自分の勢力の及ぶ人間が夫の愛人だと具合が良いと言う事情も、有るんじゃないのかな?」
「えええ? 夫の愛人?」
「だってさ、歴史上でも王妃の侍女を愛人にした王は多いだろ? それを見習う貴族は当然多いさ」
「そうなのねえ、考えたことも無かったわ……今みたいな状態はロバートにはしんどいんじゃない? 愛人が必要かしら?」
妻の妊娠中に愛人とよろしくやるのも貴族社会では普通の事だが、ロバートは自分の両親の失敗をそのまま繰り返すつもりは無かった。
「僕がそんな事をするつもりだったら、そもそも最初から寝室をこんな構造にしないよ」
よその邸なら夫婦それぞれの寝室はこのような続き部屋ではなく、互いにはっきり独立しているのだ。夫が一階で妻の部屋は二階などと言う邸も珍しく無い。それは互いに愛人を連れ込みやすいようにする配慮でもあるわけだ。
「じゃあ、私が三十過ぎて子供を産んでも、ロバートは構わないわよね?」
「無論さ。マリア・テレジアみたいに十六人ぐらい産んでくれたって、大歓迎だよ」
「さすがにそれは無理でしょうけど、ロバートがそう思っているなら『夫を独り占めするなんてはしたない』と言われても、気にしない事にするわ」
高名な貴族の家であるにも関わらず、結婚後半年以上たっても一向に社交の場に姿を現さないロバートとマギーは「ケチで変わり者」と言う評判が立ち始めていたが、二人とも気にしなかった。どうやら勝手な噂も飛び交っているようだ。
「あの夫婦はまるで下層階級の夫婦のように、いつも同じベッドで寝ているらしい」
そんな風に揶揄する者が少なからず居るのは、ロバートもマギーも承知していた。まあ、ほぼ事実なのではあるが。老侯爵夫人の介護に直接マギーが関わる事や、バージルの教師役を務める事も「使用人の給金を出し惜しみしている」などと言う者もいる。そのくせレイストン・ハウスでは使用人も一日おきに入浴できる事や、使用人の食事が良質であること、給与が「恐らくはロンドンでも一二を争う高さ」である事は貴族の間では黙殺されていた。だが各貴族の使用人たちの間では大いに噂になっていて、全く無視もできないのだった。
「アフトン公爵やキーネス侯爵の所を引き合いに出して、もっと給金を上げろだの、食事を改善しろだの、使用人たちが文句を言うようになって、迷惑している」などとこぼす貴族も近頃は多いらしい。
「夫婦仲が良いのが、いけない事みたいに言われるって、貴族社会ってつくづく歪んでいると思うわ」
マギーは確固とした自分の意見が有るからなのか、他所の人間が勝手な噂をしても気にしない。人が何を言おうと台所に入り老侯爵夫人の食事は自分が作るし、バージルの教育も人任せにしない。別に「妻の社交的な活動」が自分の事業にも家庭にも必要とはロバートは思っていなかったし、現状で構わないと割り切る事にした。今現在マギーがロバートの両親やバージルのためにしてくれている事の方が、はるかに重要だと考えるからだ。
ともかくも邸の内部の使用人同士の関係は「めったに無いほど」良い状態で、家族が穏やかに平和に暮らしているので、無関係な他人がやっかみ半分で口にするような噂など、気にする必要もない。ましてや夫婦それぞれに愛人なり異性の友人なりを作る必要など、全く感じていなかった。
女王陛下と王配殿下は真面目な方たちで、愛人なんてお作りにならないし、あまりに男女関係が爛れた人物はお嫌いだからだ。世の中の雰囲気も王家の雰囲気の変化に連れて変化して行くのは確実だと、ロバートとマギーは考えても居たのだ。
頭脳明晰で我慢強く品行方正な王配殿下は、王室内の財政改革、人事改革に着手した。それまで横行していた物品の横流しも、「うまい汁を吸う」方便も無くなり、そうしたことで儲けてきた貴族連中は王配殿下を敵視した。だが、女王陛下の夫君に対する信頼は厚かったので、そうした連中にとって王宮は居心地の悪い場所になりつつあった。カード賭博と様々な利権のおこぼれを拾って生きて来たらしいレイフ・ボーダナムのような人種にとっては、困った状況になったのだろう。
「あの男が転がり込んでいた某マダムの所から、放り出されたらしい」
そんな噂をロバートが耳にしたのは、あの正門に押し掛ける件が有ってから、二か月ほどしてからだったが、その後レイフはどうやらカード賭博のイカサマで食いつないでいたらしい。だがそのカラクリを見抜いたさるスコットランド貴族に向って発砲して、大けがをさせるなどと言う、とんでもない事件を起こした。どうやらレイフは大酒飲みなだけでなく、アヘンまで常用していたせいでおかしな精神状態になっていたのだろうと言う噂だった。新聞にも名前が大々的に出てしまい、レイフは完全にお尋ね者だった。
「リジーのおかげで不愉快な目には逢わずに済みましたけれど、警察もあのレイフという人を躍起になって探しているようですわ」
マギーの結婚する際に侍女役で奉公するようになったリジーの亡夫は殉職した警官で、息子も警官だ。その人脈のおかげもあって捜査の警官は穏やかな態度であったが、それでも「御親戚ですので、やはり確認させていただきたい」という事で、邸の者達からレイフに関する情報を色々聞いて居たようだった。
だが警官が一番知りたがっていた現在の居所に関する手がかりは無かったようだ。
やがて季節は秋の終わりとなり、バージルの勉強は大いに進み、マギーとラドストックの妻となったハンナは同じ日に出産した。ロバートはオロオロと落ち着きなかったが、もっと落ち着かないのはラドストックだった。幸い二人共に安産であったので、邸の皆は感謝の祈りを捧げた。
「まあ、ロバート、跡取りが生まれたの? マギーにありがとうと言わなくては」
母が言うのももっともだった。
マギーの産んだ息子・サミュエルはブルーグレーの瞳と褐色の髪をした、元気な赤ん坊だった。名前は生まれる前から決まっていた。ハンナの産んだ女の子はナネットと名付けられた。
洗礼の際、サミュエルの教父母はマギーの親友スーと夫、つまり準男爵であるサー・グレアム・レノックスと妻であるレディー・レノックスに引き受けてもらった。ナネットの教父母をロバートとマギーで務めようとしたら「あまりに身分不相応ですから」とラドストックに固辞された。結局その役は、料理人役を引き受けたミリーと夫のボブが務めた。
ロバートとマギーの結婚以来、色々と変化が有ったキーネス侯爵家だが、サミュエルの生まれた1845年はインドからアフガニスタンにかけての地域でかなり大規模な戦闘が発生した。シク戦争だ。これ以降イギリスはインドを本格的に抑え込み利権を確立するようになっていく節目の年にもあたる。ラドストックの兄は昇進したようだったが、一向に本国に戻る気配は無いようだった。その同じ年に女王陛下は御夫君と共にプロイセンにおいでになった。これ以降イギリスでのドイツワインの消費量は大きく伸びて行った。
マギーはヨーロッパに居る友人たちと手紙のやり取りは頻繁に行っていたが、妊娠出産と言う時期では出歩くこともほとんどなかった。何しろロバートと暮らすレイストン・ハウスの東翼から、実母のレディー・バーバラの住むセイフライド・ハウスまで歩くだけで十分な散歩になるのだ。普通の貴婦人のように買い物もあまり好まないマギーは、両方の邸宅の美しい庭の景色を眺めながらのんびり散歩できれば妊娠中は十分だと考えていたのだ。
出産後も激しい運動が出来るわけでは無いので、その日もいつも通り午前中は姑の散歩に付き合い、昼食後は疲れやすいので少し休もうかと思っていた所、メイドたちが慌てて報告に来た。
「レイフ・ボーダナム様のお子だと言う一歳ぐらいのお嬢ちゃまを抱っこなさった御婦人がおいでです」
相変わらずレイフの行方は分からない。ロバートは鉄道会社の事や汽船会社の件で色々忙しいようで、昼間は大抵留守だ。舅はバージルを連れて外出中だ。会うのはやはりマギーの役目になるだろう。
「客間にお通しして」
だが、マギーがその客間に行ってみると、居たのは小さな女の子を抱っこしたメイドだけだった。
「この子のお母さんは?」
「忘れ物を取りに行くとおっしゃって、出て行ってしまわれたようです」
メイドが押しつけるように渡されたと言う手紙を見て、マギーは困惑した。
「奥様、このお嬢ちゃんは……」
「本家で面倒を見てやって欲しいという事らしいわ。レイフさんが結婚した奥様が生んだ娘さんのようね」
「ていのよい、捨て子ですか」
「その子が一歳だからまだよいけれど、余りそういう事はこの子の前では言わないでちょうだい」
「申し訳ございません」
どうやら二歳にもなっていないらしいよちよち歩きの幼女は、実の両親に見捨てられたようなのだ。体をきれいにしてやり、マギーがいずれはナネットにやろうかと思っていた女の子用の服を着せ、一緒にパンケーキと果物を食べてから昼寝をした。
「レイフめ、どこまでずうずうしいんだ」
帰宅早々、話を聞いたロバートはひどく腹を立てた様子だった。
「ロバート、このルチアちゃんに罪は無いのだから、そんな怖い顔をなさらないで」
ルチアというその女の子はロバートをおびえた目で見つめた。
「確かに幼い女の子を怯えさせるのは、いけないな」
だが、やはり腹が立ってならないらしく、熊のように居間を行ったり来たりしている。そうやって、不快な感情をどうにかおさえこもうとしているのは明らかなので、マギーも「落ち着かない」とか「檻の中のクマみたい」とか言わないようにしたが、ルチアがマギーにしがみついているのは、やはりロバートの怒りが伝わるからだろう。そこへ老侯爵とバージルも外出先から戻ってきたのだった。
「おやまあ、ちいちゃなお客様だな。どこの子かな?」
「レイフの子のようです。この置いて行った洗礼証明書と婚姻証明書が偽造じゃないと良いんですが」
「心配なら婚姻登録簿を調べさせれば良かろう。まあ、こんな風に親に放り出されてしまうのだから、嫡子でも私生児でも変わらんがな。女の子だし……にしても、このレイフの置手紙、得手勝手な事ばかり書いてあるのう。何という奴だ」
その手紙の筆跡は貴族的で美しかったが、中身はひどいものだった。自分が貧しく困った立場に立たされたのは、本家の力添えが全く無かったのが大きな原因だ。今の自分は国外に逃亡する必要が有るので、幼い娘は本家に預ける。良識ある方々だから、悪いようになさらないと信じて娘の将来の事もお任せする……と言った実に得手勝手な内容なのだ。
「おチビちゃんも、苦労するなあ」
ロバートがふと見ると、ルチアという子はバージルにしっかりしがみついていた。その様子を見て、マギーは息子のサミュエルの様子を見に行った。
「将来、お前が結婚してやるか」
父侯爵の言葉は適当な思い付きで、全くいいかげんだとロバートには感じられたが、バージルはそうは受け取らなかった様だ。その言葉を聞いて、しばらく考えていたが、やがてゆっくりとこう言った。
「この子が良ければ、それも有りですね」
バージルはニコニコとしてルチアに頬ずりした。すると、ルチアは嬉しげな笑い声を上げたのだった。