招かれざる客・1
「恐れ入りますが、お引き取り願います」
「新たに相続人となられた方が御結婚されたと伺えば、親戚としてはお祝いの一つも申し上げたいのだが」
「ともかくもお引き取り願うようにとの事です」
バージル・メルダは自分に割り当てられた二階の子供部屋の窓からライブオークの大木の上に移った。自分と同じ新大陸の森からこの邸に来たと言うこの常緑のオークは登りやすく、彼のお気に入りだった。ほぼ彼の実父であるらしいセルビー伯爵ロバート・ボーダナムも少年時代は良くその樹に登っていたものだ、とラドストックが教えてくれた。
「いくら皆が注意しても聞いては下さいませんで」とラドストックは苦笑いしていたが、セルビー伯爵との主従関係が冷たいものではないという事がバージルにも感じられた。「木登りが好きな人間にそう悪い奴はいない」と言うのがバージルの亡き母親の意見だった。だから自分と言う子供も出来たのだろうか、とバージルは思った。
この樹に登ると、正門から車寄せにかけての一帯が良く観察できる。
馬車は一頭立てのいわゆるハンサムキャブと呼ばれる辻馬車だ。だが、出てきた男はピカピカの帽子と言いフロックコートと言い、それなりに「紳士」だと身なりで主張している感じだった。片眼鏡と言うかモノクルと言うか、何ともスカした感じだ。ひねりあげたような口髭も気取っている。男は門番と幾度も押し問答を繰り返した挙句、中に入れないとなると唸り声を上げステッキを振り回して、塀から伸びた木の枝を叩いた。
「ステッキを振り回して人の家の庭木の枝を折るなんて、紳士じゃねえな」
バージルは自分のつぶやきを聞かれたとは思えなかったが、片眼鏡の男の鋭い視線が一瞬向けられたような気もした。馬車には赤ん坊を抱いた女が乗っていたようだった。赤ん坊の泣く声と、あやす女の声がしたのだ。男は再び馬車に乗り込み、女に向って語気荒く何か言っているようだったが、すぐに馬車が走り去ったので、会話の内容は全く分からない。
ちょうどその時、木の下をラドストックが通ったので、バージルは急いで樹から降り、呼びとめた。
「なあ、今日もあの門の所で騒いでいた男、何者なんだ? 結婚式の翌日から連日でしつこいけど」
「ああ、あの方は先代の侯爵さまの弟君のただおひとりの男のお孫さんで、レイフ・ボーダナムとおっしゃる方です」
「今日は赤ん坊が居たみたいだ」
「赤ん坊ですか?」
「うん。乗ってきた辻馬車から赤ん坊の声と女の人の声がした」
「かの方も御結婚なさったのでしょうかな……」
ラドストックは考え込んでいる。
「不在のマ……マームと伯爵に伝えなくて良いのかい?」
バージルはついうっかりと「マギーさん」と言いそうになるのだ。
「そうですな。せっかくの休暇を楽しんでおられるのに、どうしたものか悩むところですが、連日ですからなあ……お伝えすべきでしょうか」
「うん。俺はそう思う。あのモノクルのオッサン、何か物騒な雰囲気だったからさ」
「あのう……恐れ入りますが、言葉遣いを直して頂かないと……お留守中のお世話役を務める私としては、やはり困ります。それに木登りもですな……まあ、あまり目立たないようになさって下さい。ともかく、あのレイフ様のご様子は不穏ですな。やはりお伝えしておきます」
「でもさ、何で親戚なのに門の中に入れないんだ?」
「あまりまともなお暮らしぶりの方ではないのです。パブリックスクールを退学なさって、御自身の父君からも勘当されましてな、その後どこで何をなさっていたのやら、あちこちの外国までおいでになっていたようですが、まともなお暮らしぶりでは無いと聞きます。この邸に出入り禁止となられた細かな事情を私は存じませんが、大旦那様と大奥様が大層お怒りになる様な不祥事が御座いましたのは確かです」
「メイドの連中が噂してたみたいに、何か女関係でいろいろあんの?」
「はあ。まあ。余りそう言う話はなさらん方が宜しいですよ。ですが、おっしゃる通りです。色々な女の方と親密になられて金銭を得ておいでのようです。後はカードですな」
「イカサマとか?」
「そう言う噂も有ります。事実そうなのかどうかは知りませんが」
ラドストックはバージルの教育係兼監視役兼話し相手と言う所だ。マギーがそうすべきだとロバートに提案して、ラドストック自身も賛成したのでそのようになったのだ。おかげでバージルは今のところは目に見える形での差別や、不愉快な取り扱いは受けずに済んでいる。
「今日は、マギーさんのじいちゃんが来るの?」
「ミスター・メルダ! 」
「あ? ああ、ごめん。マームのお祖父様がおいでになるの?」
「大旦那様と御一緒に昼間の御食事を召し上がることになるようです。あなたはマナーがまだまだでいらっしゃるから、食後、お目にかかる事となるでしょう」
「飲み食いする時の音は、結構小さくなっていると思うんだけどな」
「ナイフとフォークの音も大切です。姿勢も。ハーグリーブス夫人と御一緒に召し上がって、注意を受けられた点は、きちんと守って行かれるようにお願いいたします」
食事のマナーはハーグリーブス夫人と一緒に食べて学んでいるバージルだが、まだあまり身についていないのだった。
「食べた物が美味いと、つい、いろいろ忘れるんだよね」
「出された食事が美味しかったと思われるのは結構ですが、美味しさを楽しみながら優雅にふるまえるようになるのが目標ですよ」
「ああ、貴族の家って、面倒だね」
「それは否定しませんが、あなたも御家族の一員と皆に認められるように、努力なさってください」
「あー、わかったよ、やりゃあいいんでしょ」
「ミスター・メルダ!」
「分かりました。努力いたします、ラドストックさん」
「適切な言葉をお使い下さい」
「わかった。努力しよう、ラドストック」
「結構でございます」
適切な教師がまだ見つからないので、マギーからの宿題のラテン語とギリシャ語の初歩の書き取りはラドストックがチェックしている。英語の読み書きは不自由が無いので、バージルは様々なジャンルの本を読み漁っていた。一番熱心に読んだのは博物誌的な著作や様々な人物の旅行記だが、大人の女性向けの法律相談に関する本とマナーに関する本もしっかりチェックした。そしてラドストックやハーグリーブス夫人にも質問し、大半の内容を理解し記憶したのだった。
昼になって、マギーの祖父であるアフトン公爵がやってきた。この邸の大旦那様、つまりキーネス侯爵と昼の正餐を楽しむ事になっているようだった。
「食事が終わったら、お会いするの?」
「そう伺っております」
「ナイフとフォークの音、ずいぶん減ったと思うけどな」
「わずかな期間に大変な進歩をなさった事は……認めましょう。ですが、王族でいらっしゃる高貴な方と御食事なさるのは、まだ、無理ですね」
留守の間の食事はミリーが出している。そのせいか朝食に高価な卵が出てこなくなった。代わりに手ごろな値段の燻製ニシンが出てくるようになったのだが、それがハーグリーブス夫人は不満なようだった。これまで出なかった果物が出るようになったのでバージルは不満には思わなかったのだが……
「昔からミリーはケチですからねえ。さすがに今日は、そうもいかなかったでしょうが」
「マ……マームはそうおっしゃってなかったけれど」
「お仕えする方には、無論、あの人だってケチクサイことはさすがにしませんよ」
「昼間っから、ごちそうだね」
「確かに、かなりのものですね」
「お客様はもっとごちそうなんだろうね」
「前菜とデザート、パン・チーズ以外は同じものだそうですよ」
中身は同じでも、食器類が歴然と違う。客用は優雅で繊細な最高級の磁器か銀であるのに対して、こちらは実用一点張りの白い陶器だ。それでも貧窮院あたりの金属製のたらいのような入れ物に比べれば、ずっとまともで上品だが。ナイフとフォークも客と主人が使うのは銀製なのに対して、こちらは鋼だ。
カリフラワーのクリームスープで始まって、ロブスターのオレンジソース、ローストチキン、たっぷりの葉野菜のサラダ、焼きリンゴだった。どれもなかなかにおいしいとバージルは思うが、ハーグリーブス夫人は葉野菜だけのサラダも、デザートがずっと焼きリンゴなのも気に入らないようだった。
「お客様のデザートは、何なのかな」
「アーモンドクリームのパイらしいです。公爵様や大旦那様とのお話が首尾よくいきましたら、御褒美にお出ししましょう」
マギーの祖父であるアフトン公爵とロバートの父キーネス侯爵は、絵画の話で盛り上がっていた。
「ホガースも良いですが、今の画家ではやはりターナーでしょうな。コンスタブルは亡くなりましたし」
「確かに、ターナーは良いですな。水しぶき、波、それにあの蒸気機関車を描いた作品は驚かされました」
「ターナーは風景画ですからな。ロバートと新妻の肖像画が欲しい所なのですが今は安心して肖像画を依頼できる、ゲインズバラのような画家がおりませんなあ」
「いっその事写真で良いのでは無いですか?」
マギーさんの祖父ちゃんは老人だが、頭の柔らかい人なのかもしれないとバージルは思った。
「写真ですか!」
「こちらの様に古い御家柄だと、そうもいきませんでしょうな。おお、来てくれましたな」
バージルが一応、それなりに格好の付いた型どおりの挨拶をすると、老人二人は好意的な視線を向けた。そして、マギーの祖父はバージルに土産をくれた。
「世界中の色々な場所の鉱石の標本だよ。君がそういった方面に興味が有るようだと聞いたのでね」
細かく区切られたガラスの蓋つきの木箱に、様々な地域の鉱石類が産地と名称のカードと一緒に収納されている。十個の石が入っている方は「硬度計だよ」との事だった。そしてフリードリッヒ・モース教授の著作で英訳された物をつけてある。
「ありがとうございます! 興味はすごく有ったんですが、現物を見るのは初めてです」
バージルは興味が有る分野だけに、非常に嬉しかった。
「ダイヤモンドではないですか?」
キーネス侯爵は十番目の鉱石がダイヤなので驚いたようだった。
「亡くなられたモース教授の考案した硬度計では、一番堅い鉱石がダイヤモンドなのですよ。これは宝飾品となる様なものとは違いますが、確かに一応ダイヤではありますな」
「今まで本で読んだだけだったり、話に聞いただけの珍しいものが沢山ありますね。貴重なものをありがとうございます」
「君は何に興味を持ったかな?」
「この砂漠の薔薇、でしょうか。一体どうやってこんな形が出来るのか知りたいものです。それにこの琥珀の中に閉じ込められた小さな生き物が生きていた時代、この世界はどんな様子だったのかと思います」
その答えはアフトン公爵を喜ばせたようだった。
「ふむふむ。明日にでも私と一緒に大英博物館に遊びに行かんかな?」
「え? 宜しいのですか?」
バージルが是非一度は行ってみたいと思っていた場所が、大英博物館なのだ。
「どうですかな? お孫さんを連れて私の懇意にしている若い研究者達に引き合わせたいと思うのですが」
「どのような研究をしている人々ですか?」
「鉱物、植物、動物そして古代の生物ですな」
その場で、翌日に大英博物館に出掛けると言う話がまとまった。それからバージルは自分で贈り物を持って、退出しようとしたら珍しく従僕が近づいてきて「お持ちいたします」と荷物を持ってくれたのだった。無事に自室に戻ったバージルは、大切な会見を上手く終えた御褒美として、美味いアーモンドクリーム入りのパイを食べた。
翌日はバージルも紳士らしい身支度をキチンとして、午後からアフトン公爵とキーネス侯爵と共に見事な四頭立ての馬車で大英博物館に行き、様々な展示物を見た。美術系の展示しかこれまであまり見てこなかったらしいキーネス侯爵も、アフトン公爵の話を聞きながら見る鉱物や標本類は興味深く感じられたらしい。そして、研究員達を訪ねて、様々な興味深い話を聞いた。バージルは尋ねられるままに新大陸の森の中で見聞きした様々な事象について詳細に語り、研究員たちを喜ばせたのだった。そして帰り際に「これは君に上げよう」と一冊の本を渡されたのだった。
「何の本を貰ったのかね?」
侯爵はこの風変わりな孫が貰った物が気になってならない様子だった。
「プロシアのフンボルト教授の『自然の風景』です」
するとアフトン公爵は我が意を得たりと言う表情で、微笑んだ。
「それは名著だ。フンボルト教授は今、研究実績をまとめる様な著作を書いている最中らしいよ。出来ればドイツ語のままで読めるように頑張りたまえ」
その日以降、バージルは祖父であるキーネス侯爵と共に夕食を取るようになったのだった。そしてバージルはラテン語とギリシャ語に加えて、ドイツ語の勉強も始めたのだった。
「ふさわしい教師が決まるまで」キーネス侯爵が教える事になったようだったが、使用人たちの見るところでは、それを侯爵も楽しみにしているようだった。