2-8
僕は。自分で言ってしまうけれど。中々薄情だった。
夜凪さんとセナが邂逅して、翌日から。夜凪さんは完全に僕が見えなくなっていた。登校してから一度、廊下ですれ違っても、まるで赤の他人で。当然連絡も取ってないし、校舎裏に来てくれるわけでもなく。弁当もなしと言われてしまったし。はて、僕の夏はなんだったのか。
でも僕は薄情だった。あまり、感情が動かなかった。まあいいかと。そんな軽く捉えていて。
勿論わかっているつもりだ。僕の行動が彼女を裏切っているのは。なのに何故か焦りも何もなくて。時間が過ぎていくと同時に、彼女が影が僕から薄れていってしまっていて。それがまた悲しくも何ともなくて。そういうものかと。納得までしてしまっていて。
だからある日セナに言われて。僕は妙にしっくりきた。
「だって君は他人に興味がないじゃない」
休み時間。紙パック片手に、彼女はそう軽く言った。
「……確かに」
「今更だよ、こんなこと」
「でもさ。僕が夜凪さんに惚れこんでいたのも事実、だと思いたいところもある」
「なら冷めたんじゃない?」
「こんな簡単に?」
「簡単なことだよ。君はそういう人だった。それが初めて表に出ただけ」
彼女は廊下の窓から外を眺める僕に肩を当ててくる。鬱陶しくもありつつ、一応かまうと。彼女は目を細めて身を乗り出して、僕に煽情的な、獲物を見るような視線を向けてくる。
「律。丁度いいし、本当に私と付き合っちゃう?」
「それはいい」
僕は即答だった。それだけはない。
「なにさ、つまんないの」
「つまるもなにもないよ」
「でも律。寂しいんじゃないかい?」
「そう、だね。寂しいのかな」
いまいち釈然としない。僕は手持無沙汰で、ネックレスに手が向かう。
「わかるよ、そういうの。私たち人間にしては薄っぺらいからね。経験という経験がないのさ」
「一緒にしないでくれ」
「強がっちゃって」
彼女は紙パックを僕に突き出す。僕はされるがままストローに口をつける。中身はあんまり冷たくなかった。
「まあいいさ。こうやって私がかまってあげるんだから。それなら寂しくないでしょ?」
「……」
「なんか言いなよ」
「……セナにかまわれても」
「なるほど。もっとご褒美欲しいんだ?」
彼女はわかった気になっていたずらな笑みを浮かべる。
「いや、いらないから」
「と、言いつつ?」
「ちょっとは欲しいかな」
「うん、素直なのはいいことだよ。でも。塩梅って大事だし」
「僕は何でも喜ぶ自信がある」
「じゃあ今日から君は忠犬で」
「鳴けば満足?」
「試しにどうぞ」
僕はしゃがんで鳴いてみせる。彼女は。見下していた。物理的にも、精神的にも。
「そんな目で見ないでくれよ。君が言ったことだろう?」
「思ったより情けなくてさ」
ならもっとやってやろうと。僕は犬の如く彼女に鳴きながら擦り寄る。丁度いいし、スカートの中に顔を突っ込んでみた。
「バカ」
叩かれた。
「まあこんなものかな」
「律。私は感心させられたよ」
「それはどうも」
「そういう返しをするから馬鹿なんだよね、全く」
そんなしょうもないところで、チャイムが鳴り、僕らの休み時間は終わる。
僕はなんだかんだで、彼女に寄り添われていた。中学の時と同じだ。彼女は空いた隙間を埋めてくれる。夜凪さんのことを忘れさせてくれる。いや、忘れたら駄目だろうか。でも、僕は忘れようとしていた。
そんな毎日だった。
から。これでいいのだと。本気で僕は平常だった。それは何日経ってもそうで。誰に咎められるでもなくて。家に帰っても段々と、夜凪さんのことを思い出さなくなってきていた。
いつも通りベッドで本片手にだらけて、偶に眠りこける。そしていつも通り、未耶のご飯でお腹を満たす。今日もそうだと、疑わなかった。
もう冬だから、時間が過ぎれば窓から差し込む光もなくなって、僕は部屋からリビングに降りて。未耶のいつもの横顔がキッチンから覗けると思ったのに。扉を開ければ未耶が冷たいほど無表情で食卓に座っていた。
「……未耶? どうした?」
「兄さん。とりあえず座ってください」
それは無機質な声だった。僕は促されるまま未耶の向かいに座る。
「えっと……」
僕が戸惑いを隠せないでいると、未耶は真っすぐ見つめてくる。
「兄さん。私は怒っています」
「はい。あの、何かしたでしょうか」
「兄さん、それ本気で言ってます?」
未耶の言葉尻に棘が孕む。気持ち、目つきも鋭いような。
「いや、うん。えー……」
「そこで悩むんですか? まさか兄さんがここまでクズだとは思いませんでした」
「待ってくれ。確かに僕は碌な人間じゃないけど」
「けど?」
「わかった。最近かまってなかったから怒ってるとか」
「違います」
食い気味に否定された。
まずい。非常にまずい。未耶は基本的に温厚だし、僕には甘い。だから、怒るときはそれだけ、重いのだ。
ただ、僕には心当たりがなくて。必死に頭を捻っても出てこないし。
「兄さん」
未耶の声に僕の背筋は正される。
「兄さん、最近セナさんと仲が良いみたいですね」
「ああ、まあ」
「ところで。楓さんとは?」
「……ちょっと。色々と……」
そういうことか。未耶は僕が夜凪さんをないがしろにしていると、言いたいのか。いや実際、しているかもしれないけれども。
「私はずっと言いたいのを我慢していました。最近兄さんから楓さんの匂いがしないし、かと思えば家からはとても濃いセナさんの気配がして。部屋で何をしていたかは大体察してますが、まあそれは百歩譲っていいとしてですね。いやよくないんですけどね。友人は大事ですけど、一線超えそうになるのも、兄さんがアホなのは大前提としてそれはそれで楓さん次第だから私からはとやかく言いませんし。兄さんが誰を選ぼうと私はその人を姉としてし慕いますよ? 人生の選択は自由です。年頃ですから大変なのもわかります。セナさんが魅力的なのもわかります。私が口を挟むことではないのもわかります。兄さんが兄さんなりにセナさんを案じているのもわかっています。兄さんの悩みだってわかってあげたいです。――でも」
未耶はつらつらと途切れず述べて、一旦呼吸で落ち着いて、俯く。
「でも。あまりに楓さんに不義理じゃありませんか」
「……そうかもだけど、さ」
「そうかもじゃありません。そうなんです。……少し楓さんとお話しました。楓さん、言ってました。『安達君をお願い』と。楓さんはまだ兄さんのこと、心に置いていてくれているんですよ」
……未耶とは話しているのか。僕は無視されていたけれど。まだ僕らは繋がっている、としていいのだろうか。
「兄さん。至って当たり前のことを言います。自由には責任が伴います。そして誰が誰にも、傷つけていい理由はありません」
未耶は机の上で、両の手を握り締める。
「私は構いませんよ? 姉が二人いたって。兄さんは本当にもうどうしようもないですから。けれどそうしたいならきちんと折り合いをつけてください。――兄さんは。兄さんは楓さんとセナさんに言えますか? 兄さん自身にも言えますか? 偽りはないと」
未耶があまりにも真摯にそう言うものだから。僕は返す言葉がなかった。
受け止めたさ。僕も真摯に。なにせ妹の言葉だから。
それでも。出てくる言葉はなかった。僕の頭はもやがかかって、考えたいのに止められて。夜凪さんは遠のいていく。セナは色濃くなっていく。それが真実なのだろうか。けれど、僕のネックレスを服の上からなぞる手は止まらない。僕の本心がわからない。
そんな調子で黙っているものだから。未耶はとうとう痺れを切らしてしまった。
「兄さん!」
未耶の手が机に叩きつけられる。その、未耶らしくない衝撃に僕ははっとさせられた。
なんだか、この瞬間だけ思考がはっきりする。確かに、僕は夜凪さんに惚れていて、約束をしていて、人生を捧げていて。……夜凪さんに会いたい、ような気がする。かもしれない。急に彼女に対する罪悪感らしいものが湧いてきた。
「兄さん……、何か言ってください」
「……僕も、ちょっとわからなくて」
途端の変化に、僕自身のことなのについていけない。
「楓さんとお話しする気はありますか?」
未耶から迫られる。
僕は。多分そうするべきで。ただ自分の胸中に確証が持てなくて。
「ある、はずで。今ある気がして……」
僕がそんな曖昧だったから。未耶は静かに目を閉じた。
「……わかりました。もういいです」
未耶が僕の前から逃げ出していく。そのまま、部屋から音もなく飛び出していってしまった。
僕は溜め息が止まらない。だってそうだろう。未耶と、言い合いというか、一方的に言われてしまって。こんなこと、記憶にないくらい昔にはあったかもしれないけれど。まあないことで。僕は肩を落とすしかなくて。
どうやったら戻れるのか。というか、彼女たちとどうしたらいいのか。今まで思い巡らなかったことで、僕にはわからなかった。




