典膳暗躍[2]
石田三成が栢谷典膳という男と初めて出会ったのは、内ヶ島の使節団が大坂に現れてから七日目のことだった。
その日も、空は鈍色に沈んでいた。
秋の湿り気を帯びた空気が城下を覆い、淀川から吹き上げる風は冷たく、どこか骨身に沁みる。三成の屋敷の庭では、濡れた砂利がわずかに光を返し、枝先の葉が時折はらりと落ちては、音もなく地に貼りついていく。
座敷に通された二人の客。
ひとりは見知った顔──小早川家大坂家老、梨子羽兵庫頭宣貞。もうひとりが、栢谷典膳であった。
典膳は、静かに頭を垂れた。所作は流れるように滑らかで、衣擦れの音すら控えめだ。声もまた柔らかく、耳に心地よい。いかにも教養ある文人のような佇まいである。
だが、その目を見た瞬間、三成の胸の奥に、言葉にならぬ違和が走った。
細く、冷たい。
まるで獲物の動きを見逃すまいとする蛇のように、わずかな揺らぎも見落とさぬ視線。柔和な顔立ちの奥に潜むそれは、ひどく生臭いものを感じさせた。
──この男、何者だ?
そう思ったときにはすでに、三成の中で警戒の糸が静かに張り巡らされていた。
「兵庫よ、加賀様の御病状はそれほどまで悪いのか?」
あえて平静を装い、三成は口を開いた。
「はっ、薬師の見立てですと起き上がるのも難しいとのこと」
宣貞は即座に応じる。その声音には、過不足のない悲痛さが滲んでいた。
「なぜそのようなことに……まだお若いというのに」
「風邪をこじらせたことが原因とのことですが、それ以上のことはよくわからず……どうやら肺臓に悪しきものがあるようで」
言葉は整っている。だが、どこか輪郭が曖昧だ。確かな診断名も、具体的な症状も語られない。
──ぼかしている。
三成の胸中に、小さな棘が刺さる。
「それほどまでに重い病というのであれば、御典医の曲直瀬道三を使わすが、どうだ?」
試すように言った。
ほんの一瞬。
宣貞の隣に座る典膳の瞳が、わずかに細まった気がした。
気のせいかもしれない。だが三成の感覚は、それを見逃さなかった。
「いえ、それには及びませぬ。重い病とは言え命に障りがあるわけではなく、静養をしていればいずれ御快気されるとのこと」
宣貞は穏やかに首を振る。拒絶は柔らかく、しかし揺るがない。
「左様か……しかしそれほどならば、大坂表にお越しいただくことは難しそうだな」
「宰相様におかれましては、なにとぞ御高配のほどをお願い申し上げます」
深く頭を下げる。
その動きに無理はない。だが、どこか芝居めいた整い方をしている。
──出来過ぎている。
そう感じた瞬間、三成の中で何かが確信に近い形を取り始めた。
秀秋は、動けぬ。
金沢城に臥せり、一歩も動けぬほどの病。
それが、この使者たちの主張である。
だが、それ以上の情報は一切出てこない。病の重さを訴えながら、外部の介入は頑なに拒む。その不自然さは、理を重んじる三成にとって看過できるものではなかった。
──時間を稼いでいるのか。
ふと、そんな疑念が脳裏をよぎる。
誰のために。何のために。
その答えに手を伸ばそうとするほど、霧のように輪郭が曖昧になっていく。
だが一つだけ、はっきりしていることがあった。
このままでは、何も決まらない。
秀秋本人が評定の場に現れぬ以上、裁定は宙に浮く。毛利輝元は本人不在での裁定に強く反対している。理としてはもっともだ。だが、その理に従い続ければ、ただ時間だけが過ぎていく。
そして時間は──秩序を蝕む。
惣無事令。
豊臣政権が掲げた、国内の私闘を禁ずる大原則。
それが一度でも揺らげば、各地で火種が燻り始めるだろう。力ある大名が己の理を押し通し、弱き者が押し潰される時代へと逆戻りする。
──それだけは、許せぬ。
三成は静かに息を吐いた。火鉢の炭が赤く揺れ、その熱がわずかに頬を撫でる。だが胸の内にある冷たさは、少しも和らがなかった。
目の前の二人を見据える。
柔和な顔で頭を垂れる宣貞。
そして、何も語らずただ座している栢谷典膳。その瞳だけが、わずかにこちらを射抜くように光っている。
──やはり、この男だ。
三成の直感が、低く告げていた。
この停滞の裏にあるもの。
その糸の一端は、確実にこの男へと繋がっている。
だが、それを掴むには、まだ何も足りない。
証も、確信も。
あるのはただ、拭いきれぬ違和だけだった。
座敷の外では、またひとしきり強く雨が打ちつける音がした。
その単調な響きが、まるで時の流れそのもののように、じわじわと場を侵していく。
──悠長に構えている暇はない。
やがて三成の中で、ひとつの決断が形を成し始めていた。
たとえ反対があろうとも、飛騨へ調査団を送る。
このまま曖昧な言葉と病の影に隠れて事態を停滞させることは、豊臣の威を損なうに等しい。
それを許せば、いずれこの国は再び乱れる。
ならば──動くしかない。
たとえ、それが新たな火種となろうとも。
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