白川入郷[3]
白川街道の北に、黒い帯のようなものが現れたのは、正午を少し回った頃だった。
最初は揺れる影にしか見えなかったそれが、やがて槍の穂先となり、旗となり、人の群れへと輪郭を持ちはじめる。遠くからでも分かる。数が違う。空気そのものが押し寄せてくるような、圧のある進軍だった。
白雲城の軍勢は、帰曇山とゾウゾウ山の山中に分かれて潜み、息を殺してその様子を見下ろしている。木々の隙間から覗く視界の先で、白川郷の平地が、ゆっくりと、しかし確実に埋め尽くされていった。
三千。
その数が、目に見える形で広がっていく。
刈り入れを終えた田は踏み荒らされ、乾いた土が兵の足でかき上げられ、薄く霞む。人の気配を失った村は、まるで最初から誰も住んでいなかったかのように静まり返り、その静寂の上にだけ、戦の気配が重く降り積もっていく。
──どうも連中は、本気で戦をするつもりだ……。
花房助兵衛は、胸の奥でそう呟いた。
当然のことではある。だが、実際にこの数、この密度、この統制を目の当たりにすると、理屈とは別のところで理解させられる。これは威圧だ。圧し潰すための軍だ。それでも戦うというのだろう。
助兵衛は視線を外さぬまま、静かに数名を選び出した。
「白雲城までの道を見てこい。抜かりなく調べよ」
短く命じる声は落ち着いているが、その内側ではすでに計算が走っている。
白川郷から白雲城までは三里。急げば一日で届く距離だ。だが、道は細く、山は険しい。三千を一気に押し込むには不向きな地形──だからこそ、この平地を足場とする必要がある。
その時だった。
「花房殿」
副将の太田玄蕃が、やや低く声をかけてきた。
「あちらの小山の砦、人をやって調べましたが……どうやら、もぬけの殻のようです」
助兵衛は、ゆっくりとその方向へ目を向けた。
荻町城。
台地の上にぽつりと残るその姿は、遠目にも歪みが分かる。崩れた壁、傾いた屋根。だが、完全に死んだ構えではない。骨はまだ生きている。
「使い物になりそうか?」
「はい。塀や屋根は傷んでおりますが、砦としては多少の修繕で十分かと」
その答えに、助兵衛はわずかに眉を寄せた。
──使える城を、使わない?
違和感が、静かに胸の奥に沈んでいく。
内ヶ島の兵は六百から八百。常道であれば、この地に籠もり、敵を引きつけ、冬を待つはずだ。ここは雪深い。やがて数メートルの雪に閉ざされる。三千の軍勢が越冬するなど、現実的ではない。
ならば、この地は時間そのものを武器にできる場所のはずだった。
それを、捨てた。
なぜだ。
助兵衛の視線が、再び平地を覆う敵味方の配置へと戻る。
白川郷は、あまりにも無防備に空いている。罠の気配は薄い。だが、それが逆に気にかかる。何もないことが、何より不自然に思えた。
──連中の中に、知恵者がいるな。
胸の内で、ひとつ結論が形を取る。
兵を分ければ危うい。荻町城に籠もれば、そこは孤立する。ならば全てを捨て、白雲城に戦力を集中する──理としては正しい。だが、それを実行するには、自領最大の要衝を手放す覚悟が要る。
その決断を下した者は、ただ慎重なだけではない。
冷徹だ。
そして、おそらくは──何か仕掛けてくる。
胸の奥に、わずかなざらつきが残る。それを振り払うように、助兵衛は口を開いた。
「この砦を本陣とする。玄蕃、お主が段取りせよ」
「はっ。して、花房殿は?」
「この地を見て回る」
「ははっ!」
命が下ると同時に、周囲が動き出す。兵が散り、旗が揺れ、陣の形が整えられていく。
その中を、供回りを引き連れた助兵衛の騎馬がゆっくりと歩き出す。
踏みしめる土は乾き、どこまでも静かだ。人のいない村は、不気味なほど整っている。戸は閉ざされ、道具はそのままに残されている。つい先ほどまで人がいた気配だけが、形を持たぬまま漂っていた。
その静けさの中で、助兵衛はふと足を止める。
風が吹いた。
どこからともなく、木が鳴るような音がした気がした。
荻町城の方角だ。
見上げれば、三層の櫓が、変わらぬ姿でそこにある。
──ただの廃城、か?
そう思いながらも、胸の奥の違和感は消えない。
何かが、引っかかっている。
だが、その正体にはまだ届かない。
助兵衛は再び歩き出した。
自分がいま踏み入れているこの静寂が、いずれどれほどの音を生むことになるのか──その時の彼には、想像すら及ばなかった。
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