白川入郷[2]
飛騨と美濃の国境に連なる山々は、幾重にも重なり合い、外界を拒むかのように聳えている。その奥深く、山中山を源とする荘川は、岩を噛み、土をさらいながら北へと流れ、やがて越中高岡から富山湾へ注ぐ。今でこそ悠然とした流れを見せるが、太古には谷底を這う細流に過ぎなかった。
水は止まらない。
絶え間なく流れ、削り、運び、積もらせる。幾星霜という言葉すら軽く思えるほどの時間の中で、川は山襞を押し広げ、わずかな平地を形作った。
やがてそのわずかな平地に、人が住み着いた。
鳩谷、飯島、荻町、島──四つの村が寄り添うように連なるその地は、荘川流域において最大の平地であるが、広さはおよそ二・五キロ平方メートル。皇居と外苑を合わせた敷地よりやや広い程度に過ぎない。四方を山に囲まれたその盆地は、逃げ場のない箱庭にも似ている。
田畑は整えられ、素朴な家々からは煙が細く立ちのぼる。後の世に白川郷と呼ばれ、合掌造りの家屋が並ぶことになるこの地も、今はまだどこにでもある農村の姿をしているに過ぎない。養蚕が根付き、独特の家屋が建てられるようになるのはずっと後、十七世紀の末の話だ。
──だが、この時代において重要なのは、景観ではない。
位置だ。
室町の頃より、この地は内ヶ島氏の支配下にあった。帰雲城を本拠とする彼らにとって、ここは前衛であり、盾であり、そして補給を支える要でもある。
帰雲城を攻略するのならば、まずこの地を押さえよ。
それは兵法の常道であり、理屈ではなく感覚として理解できるほど明白な要衝だった。ここを拠点とすれば、兵は休み、糧は蓄えられ、次なる一手を整えることができる。逆に言えば、ここを失えば、帰雲城は孤立する。
内ヶ島氏が荻町台地に城を築き、重臣、山下時慶に預けたのも当然の帰結であった。
だが天正大地震は、そのすべてを奪い去った。
内ヶ島氏は滅び、城は役目を終えた。
それでも──建物は残っている。
荻町台地の上、風に晒されながら、静かに白川郷を見下ろしている。崩れかけた壁、朽ちた柱。その姿にはかつての威容はない。だが、高みからの視界だけは、いささかも衰えてはいなかった。
川の流れも、村々の配置も、田畑の広がりも。
すべてが、手に取るようにわかる。
そこに立てば、誰もが理解する。
──ここを押さえる者が、この地を制する。
そして同時に、胸の奥にわずかなざらつきが残る。
静かすぎるのだ。
あまりにも、出来すぎている。
人が生きるには都合がよく、戦をするにはなお都合がよすぎるこの地は、まるで最初からそのために用意されていたかのようですらあった。
だからこそ思う。
この穏やかな風景は、いずれ血に染まる。
ここはただの農村ではない。
戦が目をつけぬはずのない、約束された戦場なのだと。
*
話は少し前に戻る。
白川郷の一角、仮設の陣屋に集められた面々の間には、重たい空気が垂れ込めていた。外では山風が草を鳴らし、荘川の流れが絶えず耳に届いている。穏やかなはずのその音が、かえって胸の内をざわつかせた。
敵は来る。
しかも三千。
それを迎え撃つにあたり、どうしても無視できないのが荻町城だった。
地震で半ば潰れたとはいえ、三層の櫓と本丸はまだ残っている。朽ちかけた木組み、歪んだ柱。遠目には今にも崩れそうなそれでも、いざ盾とされれば厄介極まりない。守るには脆いが、攻めるとなれば骨が折れる──その厄介な中途半端さが、場の空気を重くしていた。
籠もるか、捨てるか。
だがどの案も決め手に欠ける。修復する時間はない。放置すれば敵に使われる。一番現実的な案は燃やしてしまうくらいだった。
誰もが同じ結論に辿り着きながら、決めきれずにいた。
そのときだった。
「いっそ、ぶっ飛ばしちまうってのはどうだ?」
賀津の声は、あまりにもあっさりとしていた。
張りつめていた空気に、小石を投げ込まれたような違和感が走る。冗談とも本気ともつかないその言い方に、数瞬、誰も言葉を返せなかった。
だが、政宗は目を細める。
「ぶっ飛ばす、とはどういうことだ? お賀津」
問いは静かだが、その奥には探るような鋭さがあった。
賀津は肩をすくめる。
「ぶっ飛ばすはぶっ飛ばすさ。火薬仕掛けて、ドカンってな」
あまりにも単純な物言いに、場の何人かが眉をひそめた。
「火薬だと? そんなことをするために、どれほどの量が要ると思う。さすがにそこまでの余裕は──」
言いかけた又兵衛の言葉を、賀津は軽く手で遮る。
「建物を崩すだけなら、そんなに要らねえよ」
そう言って、無造作に筆を取った。
紙の上を走る筆先は迷いがない。柱の本数、太さ、組み方、荷重のかかり方……賀津の脳裏には、すでに荻町城の骨組みが透けて見えているかのようだった。城内には何度も足を運び、目で測り、手で確かめた記憶が、そのまま線となって現れていく。
「……ここを折って、ここを飛ばしゃ、あとは勝手に崩れる」
書き上げられた数字は、あまりにも少なかった。
「たった……これだけの火薬で……」
又兵衛が思わず漏らす。
信じがたい、というよりは、信じたくないという色が強い。常識が否定されるとき、人はまず疑う。
だが、それを打ち砕くように、七郎が一歩踏み出した。
「お賀津どんは、加納ん宿で、崩れかかっ蔵ば一瞬で曳っ倒しもした! 倒るっ向きまで、きっちり見定めて……ありゃあ、まこて神業じゃった!」
興奮に声を震わせながら、なおも言葉を重ねる。
「お賀津どんが『こいで倒せ』っち言うなら……あの城も、間違いなっ倒せっど!」
その言葉には、理屈ではない確信があった。
場にいた者たちもまた、思い出していた。賀津が白雲城に加わってからのことを。火薬の調合、玉薬の改良。飛距離と精度を伸ばしたその成果は、すでに幾度も戦場で証明されている。
静まり返った空気の中で、政宗はゆっくりと息を吐いた。
「……火薬で、城を潰すか」
呟きは小さい。だがその目は、すでに先を見ていた。
単に壊すだけではない。
いつ、どう使うか。
その一瞬のために、どう布石を打つか。
口元が、わずかに歪む。
「面白い」
その一言で、場の空気が変わった。
恐れは消えない。だが、それを上回る何か──勝ち筋を掴んだときの、あの鋭い高揚が、確かに広がっていく。
翌日から、解体のための準備が始まった。
木材の配置を確かめ、火薬の設置箇所を選び、導火の経路を整える。誰もが口数を減らし、黙々と手を動かす。その胸の奥には、同じ予感があった。
これは、ただの破壊ではない。
戦の流れを変える一撃になる。
だが、荻町城が実際に「ぶっ飛ぶ」のは、まだ先の話だ。
敵がこの地に踏み入れ、油断し、そして最も効果的な位置に収まった、その瞬間。
そのとき初めて、あの静かな廃城は、牙を剥く。
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