再界[3]
あの小屋は、おそらく猟師か杣人が山仕事の拠点として使っていたものだろう。壁板は雨風に晒されて黒ずみ、屋根の茅も半ば崩れ落ちている。周囲は背丈ほどの雑草に覆われ、人の手が長く入っていないことは一目でわかった。もしかすると、持ち主はもう戻ってこないのかもしれない。
三人は草を掻き分けながら、細い獣道を下っていく。踏みしめるたび湿った土が柔らかく沈み、枯葉が草鞋の底でくしゃりと潰れる。木々は深く鬱蒼としていて、空は枝葉に遮られ、昼だというのに薄暗い。
しばらく歩くうち、どこからか水音が聞こえてきた。
さらさらと岩を撫でるような、冷たい川のせせらぎ。
その音を耳にした瞬間、拓真はわずかに肩の力を抜いた。少なくとも人里に繋がる水場が近いということだ。
「それにしても、すっごいですね……」
感嘆したように呟いた日菜へ、拓真は振り返る。
「凄いって、なにが?」
「自然ですよ。六月なのにこんなに紅葉している山があるなんて、私知りませんでした」
日菜は周囲を見回し、感嘆したように目を丸くした。山々は赤や黄金に染まり、風に揺れる木々はまるで秋の深山そのものだ。だが、彼女の時間軸では今は六月。常識で考えれば、この時期に山が紅葉しているはずなどない。
それでも彼女は疑わなかった。
目の前に広がる光景があまりにも現実的だったからだ。人は理解できないものを前にすると、まず自分の知識や認識の方を疑う。きっと自分の知らない土地にこんな風景もあるのだろう──日菜の脳は、無意識のうちにそう結論づけていた。
「それにしても……こんな道もない山奥に、どうやって私たちを運んだんでしょうね?」
「そうだね……」
曖昧に返しながらも、拓真の胸には別の感覚が広がっていた。
この湿った土の匂い。木々のざわめき。肌にまとわりつく山の冷気。
間違いない。
これは本物の戦国時代だ。作り物のテーマパークでもなければ、撮影セットでもない。かつて自分が生きのびようとした時代そのものだった。
その時、日菜がくるりとアイへ振り返る。
「ねー、アイちゃんって言ったよね? アイちゃんは何か知らない?」
「んー、どんな原理で移動したのかは知らないなぁ」
「原理って……なんか面白い言い方するね」
「そーかな? 普通だと思うけど」
妙に噛み合わない会話。
だが拓真は口を挟まなかった。
今はとにかく人里へ出ることが先だ。落ち着ける場所を見つけてから説明すればいい。
──いや、本当に説明できるのか?
タイムスリップなどという常軌を逸した現実を。
どう言葉を尽くしたところで、すぐに受け入れられるものではない。拓真自身、それを身をもって知っていた。
そんなことを考えながら歩いていた、その時だった。
「……なんか、子どもの声が聞こえませんか?」
日菜の声に、拓真は足を止める。
耳を澄ませた。
木々の擦れ合う音。鳥の羽ばたき。絶え間なく流れる川の音。
その奥に──かすかな泣き声。
幼い子どもの声だった。
しかも、ただ泣いているだけではない。胸を締め付けるような、掠れた嗚咽だった。
「……行ってみよう」
三人は足早に森を抜ける。
やがて視界が開け、岩肌の剥き出しになった渓谷へ出た。透明な水が白い飛沫を散らしながら流れている。声は、すぐ近くだ。
「えっ!! うそ!!」
日菜が短く悲鳴を上げた。
人の背丈を遥かに超える巨石。その陰へ回り込んだ瞬間、視界に飛び込んできたのは、無残に斬り殺された男女の死体だった。
血はすでに黒ずみ始めているが、岩肌にはまだ生々しい飛沫が残っている。男は胸を深く裂かれ、女は庇うように身体を投げ出したまま動かない。
その傍らで、小さな子どもが泣いていた。
「とと……かか……」
幼い手で母親の肩を何度も揺さぶる。
返事はない。
それでも子どもは諦めきれず、必死に呼び続けていた。
四、五歳ほどだろうか。涙の跡はすでに乾き、喉も枯れている。それでもなお、奇跡を信じるように両親へ縋りついていた。
「な……なんですか……これ……」
日菜の声が震える。
「本物……?」
「何があったかわからないけど、二人とも下がって」
拓真は低く言い残し、子どもへ近づいた。
血の匂いが鼻を刺す。
胃の奥が軋みそうになる感覚を押し殺しながら、静かに腰を下ろした。
「ねえ、どうしたの? 何があったの?」
子どもは怯えた目で拓真を見上げ、小さく唇を震わせる。
「……わかんない……」
掠れた声だった。
「かかが急に……『かくれんぼしよう』って……」
拓真は周囲へ視線を走らせた。
争った跡。刃物による傷。血の乾き具合。
惨劇が起きたのは、おそらく数時間前。
母親は何か危険を察し、せめて子どもだけでも逃がそうとしたのだろう。遊びを装って隠れさせ、その間に──。
そこまで考えた瞬間、背筋に冷たいものが走る。
まだ近くにいるかもしれない。
人を殺した「何か」が。
「きみ、名前は?」
子どもは恐る恐る答えた。
「……真理……」
「真理ちゃんか」
拓真は努めて優しい声を作る。
「いい名前だね。ここにいたら危ないから、おじさんたちと一緒に行こう」
「……でも、とととかかが……」
真理の瞳が、もう動かない両親へ向けられる。
その視線が痛かった。
「とと様とかか様は、あとで村の人に迎えに来てもらおう」
拓真は静かに言った。
「だから今は、一緒に行こう。お腹、すいたでしょ?」
真理はしばらく俯いていたが、やがて力なく頷いた。
差し出された拓真の手を、小さな指がぎゅっと握る。
その袖には、乾きかけた両親の血がべっとりと付いていた。
拓真は構わず真理を抱き上げる。軽かった。あまりにも軽くて、胸が痛んだ。
「急ごう」
低い声で言う。
「まだ賊が近くにいるかもしれない」
アイは呆然として立ち尽くす日菜の手を引き、無言で後を追った。
山風が木々を鳴らす。
その音が、まるでどこかで誰かが息を潜めているように聞こえた。
「……ったく」
真理を抱えたまま、拓真は小さく舌打ちする。
「なにが『危ない目には遭わない』だよ……」
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