妖怪の街
エアコンの口が開いて、閉じて、開いて、閉じて、ふと瞬きをしていないと気付いて目をぎゃっと瞑った。
首元にまとわりつくような熱も既に逃げていて、初めから何も流していなかった音のしない無線イヤホンさえ外すのを面倒くさがり、またエアコンを眺めながらテレビから聞こえる音声もぼんやり聞き流していた。
足音が聞こえてくる、それだけは鮮明で、だから男は首を回してそっちを向いた。
廊下側のドアが開いて、髪をぼさぼさに乱した博士が無気力な顔でやって来た。
「爆発した?」
「爆発した」
爆発四散しているのは博士の心のようだった。
これまで博士は成果が出ずに燻る日々、男がこの部屋を訪れる度、難しい顔、苛立った顔、そしてこの草臥れた顔と、良くも悪くも物静かになっていった。
博士は男の座るソファとテーブルの間に、ラグの上に膝から崩れ落ちて突っ伏した。
テーブルの上にはいつも以上に物が増えていて、その内の一つの紙媒体は、前に博士に頼まれて持ってきた研究日誌だ。
わざわざこんな所に置いておかなくてもいいのにと思いながら、男はソファに寝転んだまま左手を伸ばした。
薬投与による機械の停止、移植記録などの項目があった。
『不老不死の素を生物マウスに様々な形で移植したが効果はなかった。一例として受精卵に組み込んだものは、産まれたマウスに生物マウスとの変化は見られなかった。その個体は三年二ヶ月二日で死亡した。現段階において不老不死の素は機械に限り効果を示している。本来は機械内で酸化や糖化が起こる所を、細胞の自己再生機能、不死性へと変異させていた』
これももう遠い昔のことのようだと、再びテーブルへと手放そうとして、人差し指と中指の、親指との摩擦を抱えていた。
「最近、一緒に研究してないね」
「あぁ」
「部屋には来るのにね。何で?」
「分からん」
もしかして、怒っているのだろうか、と右で突っ伏している博士の様子を思い浮かべて、半身にちくちくとした刺激が伝っていたたまれない。
ピアノの音が聞こえた。
耳すら透くほど強く、自然とテレビに目を移していた。
深い声がこう語り出す。
『本日、妖怪の街、不夜城のステージにて、今年もやってまいりました』
「いてっ」
肘を下から叩かれたような衝撃で紙を離すと、博士の声がした。
博士が勢いよく起き上がったので頭がぶつかったのだ。
「あ、ごめん」
「大丈夫…」
博士はこちらを見もせず、顔はずっとテレビに向いていた。
『偉大なる指導者のお話を、今か今かと心待ちにしている何千何万もの人々が』
「もうそんな時期か」
そこに映るのは虹色の砂の海のようで、それが近付いて全て人なのだとようやく分かるほどだ。
『今、都市の光が、今!これだけの光が、ここに集っているのです!』
透き通った声が瞬間的に飛び越えて、灯火を煽るようだった。
反射的に手を伸ばしたくなるくらい。
「指導者ってどんな人なの?」
「聞いて驚け。昔は超人気のバンドマンだったんだよ」
「それは知ってる」
「え?そうか」
「でもそれくらいしか知らないよ」
「そうか。なら指導者に至った経緯とかかな。バンドが十周年も間近で活動休止になって、それから政治家に転向したんだ。当時は酷い不景気だったんだって。要因は一つじゃないから難しいが、不完全なシンギュラリティの影響による労働意欲が低下したり、自殺率の増加だったり。情報の錯綜が激しく地域によって思想が分かれるほどだったとか。それこそ人が暴力的になるくらい。それで三十年前、この人が着任してからまた統一されて、趨勢は良い方向へ変わっていった。だから現在人は口を揃えて尊敬の対象だと言う」
「会ったことあるの?」
「一回だけな。話したことはないが」
『来たる威光の方へ、この歴史の一瞬が彩に溢れた一瞬であることを約束しましょう』
男はふと妖怪の街に入った時のことを思い出した。
「・・・妖怪の街って?」
「妖怪が住んでいたり、商売をしていたり、一つの地区として運営している街だよ」
「行ったことあるの?」
「何回かね。あそこはいつでもお祭りをやってるようなものだが、特に今日は盛り上がるだろうな」
「何で?」
「今日は百鬼夜行があるから。要は祭り、パレードだよ。それにこの時期になると指導者が若者へ向けての演説と合わせて行われるからな」
祭りは妖怪の街を中心として広い範囲で同時開催される。
妖怪による催し物がまるで別世界に来たかのように思わせる、一歩踏み出して押し寄せる不安感と、もう一歩踏み込んで高まる期待が男の中で大切な写真のように保管されている。
「行ってみたい」
「え?・・・おぉ、せっかくなら今から行こうか」
最近の博士は外に出ずに研究データばかり積み重ねる日々だから、男は内心、不安に思っていたのだ。
だからもしかすると、この時の男は博士よりも浮き足立っていたかもしれない。
「あっつ…」
首に掛けた菊模様の冷却のタオルを両手で引っ張りながら、博士はそう言葉を零した。
「久しぶりの外なのにな」
シャッターの櫛比は街粧うことなく、それに博士は鬱屈した表情を見せている。
ただ、二人の前には同じ方向へと歩く浴衣姿の青年たちがいたり、この道を出た先で右から左へと過ぎていく老夫婦がいたり、些細な街角も普段とは雰囲気が違うようだった。
「私も浴衣が良かったなぁ」
またぼそっと呟いた。
「浴衣を着るにはまだ早いだろ」
「早いなんてことないでしょ」
とはいえいつもの白いレインコートとは変わって、黒いドレスのようなものを着ている。
服の名前など男には縁のない情報で、記憶の最高難度にはジャンパーが君臨している。
いや、果たしてジャンパーとは何だったか、もしかすると海外の学者だったかもしれない、となると最高難度はスウェットまで繰り下げられる…。
スウェット…それはski-bi dibby dib yo da dub dub?
角を曲がると、棚引く雲は淡い桃色に染まっていた。
「え、何これ凄い」
「裏道というやつだよ」
目の前には、円の半分が地中に埋まった観覧車らしきもの、西日の影で燦然と回っていた。
左に乗ると上の階へ行き、右に乗ると地下へと進む、エレベーターと役割はさして変わりはない。
博士は先程の落胆はどこへやら、取り戻した以上の活力で、早歩きになって。
前を行く人がその箱に乗ってドアが閉まると、降りていった。
遊園地にあるようなものとは違って箱が動いていないのは、安全性を考慮して入れ替わり式になっているからだろう。
新しい箱が降りてきて、ドアが開いた。
博士を先に行かせ、男はその後から入った。
窓の外の珍妙な壁だけがしばらく流れ続ける。
エレベーターやゴンドラのような感覚はほとんどなく、そうして、正面のドアが開いた。
極彩色の縦看板がごった返して視界いっぱいを覆い尽くす、湧き上がる情報のような、十メートルくらい先の天井近くまで蔓延る様はさながら三十年前まで続いた思想戦争の時代を彷彿とさせる。
見たことのない時代といえども、寸陰の戦きを覚えずにはいられないほどだ。
砂利の地面に無作為な石畳の広場は、路面には錦鯉が泳ぎ、壁面には鹿が駆ける。
中央では茎が伸びて巨大な円形の葉が手の届かないくらいの位置で広がり、妖怪の術はまだまだ花めく。
まるで幸せな幻覚に陥ったよう。
「何あれ…!凄いよ!」
「俺はあっちで座ってるからな」
人妖が入り交じって殷賑を極めた様相で、博士はその花にもう近寄って眺めていた。
ふと香ばしい食べ物の匂いで振り返り、男は密集する屋台を見て回った。
やきそば、イカ焼き、りんご飴の文字が並んでいて、これぞ祭りという感じの品揃え。
けれどその行列から男は離れていく。
ベンチに向かいながら横目に見た、ある店頭の丸く太った真っ赤な妖怪は、そのテーブルに十杯の空のジョッキを残して極楽の顔へ茹だると、姿はゆったり煙になって、ふわふわと浮かんで姿を消した。
男はベンチに腰を下ろす。
対照のベンチでは、黒い体毛の丸い妖怪がスーツを着た猫背の男性と隣り合わせでベンチに座っていた。
一体どんな組み合わせなんだろうかと考え始めた矢先、もう博士がやってきた。
「他のとこ見に行こう!」
どうやら博士は何も買っていないように見える。
こんなにも屋台があるのに意外だ、と口に出す前に一度、唇を噛んで堪えた。
「いいよ。どこ行きたい」
男がそう言うと、博士はどこからともなく兎のお面を取り出して被った。
「私が案内しよう」
声が変わっていた、甲高く面妖な、明らかな別人に。
「あ、あなたはっ…」
「妖怪博士と呼んでくれ」
それから博士は素っ頓狂な歩き方をする、男もそれに距離を取ってついて行った。
「そのお面どうしたの?」
「お面屋さんがくれた」
多分、妖術の類。
そこは浮世絵の画風で一人の男が大海原を旅する景色。
それがとても不可思議な光で立体映像化されていて、地で舞い踊る鶴と連動していることから、その妖怪が起こしている現象のようだ。
水飛沫が霧雨となって観客にまで降り掛かっているのが分かる。
現代の映像でも出来ないことはないけれど、これはタネも仕掛けもない妖怪の使う術で、魔法とさえ呼べる。
博士はもう駆け寄って、小舟を漕いで進む様に、波の在り方に夢中だった。
軒を連ねる花屋、服屋、骨董屋、そこは和モダンな建築様式が魅力な商店街。
小さな地球儀をぐるぐる回る飛行機の玩具など、一歩一歩に心躍らせながら先走る視線を奥から引き戻す。
間近な窓の向こう側は、一際大きな屋敷を含む街角の縮尺模型であり、小さい人形たちの静かな日常風景があった。
その窓を有する建物自体は普通の喫茶店に過ぎず、喫茶店の中に小人の街があるのか、はたまた鏡の中の世界かもしれない。
あるいはそこは数百年前の過去の事象であり、コーヒーの香りに誘われて爪先から情緒に触れてしまえば私は未来人になっているかもしれない。
大通りは提灯がずっと先まで張られていた。
道の中央はすっからかんとしていて、そこを神輿と妖怪の列が笛や太鼓を奏でながらゆっくりと進行している。
いや・・・よく見ると太鼓じゃない、あれはお菓子の箱だ。
そんな催しを見る為に、脇に人が溜まっていて、二人もその中にいた。
泥濘にでもいるかのように、何もしていないのに体力が奪われるようだと男は空を仰ぐ程で、だから目に入った。
「あれ、今日のイベントの広告だ」
小さなスクリーンが映している、指導者の静止画だった。
小さいけれど白髪だからか見えやすい、その人自身の力強い目にどうしても引きずり込まれる、深い魔力を持っている。
端に小さく地図も載っていた。
それから「我々は時代に選ばれたのだ」と、男が繰り返した文言も。
大通りは既に神輿が出ているから、これももう終わっている頃だろうか。
「ねぇ知ってる?」
「知らないよ」
黙った、男が渋々、顔を合わせた。
「妖怪って祭りの気を感じてやってきたんだよ」
一瞬、毛の妖怪と、お爺さんのことが頭をよぎった。
「・・・あぁ、胡散臭いと思った、結論」
ある花火大会の夜に、妖怪は長い長い列を成して東京へとやってきた。
花火の轟音に合わせて喧騒が、祭りが足を生やしてやってきた。
それが初の百鬼夜行とされる。
「色々と都市伝説がありそう」
「妖怪は何も言わないし余計にな。実際、昔は怪訝な目で見られていたんだと。それでも居留地を中心としたイベントやゲリラ的な百鬼夜行で若い世代から妖怪の存在を浸透させていったのだと聞く。凄い話だよな」
現代では妖怪の祭りは総じて百鬼夜行と称されているが、本当の意味での百鬼夜行は最初のそれだけだっただろう。
それから人妖共存の社会へと移り変わっていった。
「あっちは骨董市だって。それでこっちが〜…」
言われるがまま、浮き足立った博士について行く。
そして目を大きくした、広大な会場はその中心に神々しい巨木を生やし、その上で舞を披露する妖怪たちがいた。
白い翼が空を駆けている、地下と地上を繋ぐ吹き抜けの仄暗い空だ。
「あれ?」
「音楽祭みたいだな」
見下ろす形だった舞台に妖怪が術で特設したのだろう。
ここは指導者の演説が行われた場所だったが、妖怪のイベントで今なお人の行き来が激しい。
「見ていくか?」
「ん、いいや」
今度は博士は駆け足になった。
「あっちに行ってみよ!」
「ちょっと、俺の足が泣いてるんだけど」
人の織り成す迷路で立ち止まったままでは、どうにも博士に届かなかったらしい。
すぐに追いかけたものの、危うくその姿を見失いかけた。
いくら金色の長い髪が目立つとはいえ、この街では特徴になり難いのだ。
道沿いに並ぶ屋台から、嗅覚に襲来する。
一度染み込んだら離れない、香ばしさは柔らかな肉と甘い照りのあるとろみを想起させ、人を心から駆り立てる。
男は懐から財布を取り出し、博士を見る。
「なぁ博士」
何か勘づいたのか、博士はそそくさと離れて首を振った。
「・・・俺が買ってくるよ。ここで待っているように」
列の最後尾を追うと意外と長かったと気付いた。
それから目的の物を買い終え、袋を手に提げて先程の祠のあった場所へと戻ると──博士?そう心の中でだけ言葉にしながら口は噤み、歩きながら細かく目を留めて探す。
辺りは見渡す限りの人、人、人、人――博士は金髪に青の服をしていたが、そんなものはどこにも見えない。
一瞬、ざぁっと心に波が押し寄せるも、まさかまた何か買いに行かせようとしたのがバレてしまったとか、緊張感のない考えが男の脳裏を過ぎった。
ポケットからスマホを取り出して電話をかけたものの、プルルルル…との呼び出し音が何度も繰り返すばかりに、博士の声が、その幼げな姿が遠くに聞こえる。
男の横を人が通り過ぎる、前を人が通り過ぎる。
また、通り過ぎる。
『道なりに進みます』
耳には言葉が入ってきて、男は足を繰り出した。
スマホの画面には自動的に地図が表示され、現在地を示す青い点から目的の赤い点までの道が記されていた。
それと、天気予報も表示されていた。
地下だから大して関係はないだろうと、その報告を指で弾いて消し、一度ポケットにしまいこんだ。
人混みの中を怖めず臆せず、音声案内の言う通りに進む。
『つつじ屋という赤い看板の手前を右に曲がります』
その横道に入ったところで、もう一度、スマホを確認する。
簡略化されてなお複雑な道を、赤い点は立ち止まることなく動いていて、何を目的にしているのか検討が付かなかった。
また駆け足で追いかける。
会場の音から遠のくと、今度は人の喧騒に紛れて琴の音色が聞こえてきた。
また、地図を確認する。
それまで不規則に動いていたのに、その場所から動かなくなっていた。
博士の点に近付いていくに連れ、大きくなる琴の旋律、また人の多い、そこは広場でステージが設置され、その上に白い幕が張られていた。
マップの指す方角を見ると、金髪に青い服、間違いない、博士を見つけた。
後ろから近付いていって、「博士」と肩を叩いた。
「わ、助手」
博士がこちらを振り返る。
「おや…お兄さんには会えたらしいな」
と反応を見せたのは隣の、膨らんだロングコートの、長身の…赤い顔に長い鼻…天狗だった。
「演劇が始まる、ゆっくり見ていくといい」
からんころんとなだらかな下駄の音を立てて、横を通り過ぎる。
「ありがとう、ございます」
男はそれを目で追ったが、それ以上、振り返ることはしなかった。
目線はまた博士へ、その俯いて陰りのある表情を見て、溜め息を吐いて歩み寄る。
「心配したんだぞ」
「ごめんなさい…」
「何をしにこんなところまで?」
「・・・色々気になって歩いてたら迷子になりました…」
好奇心があるのはいいことだろう、と男は口に出さないが、微笑みが零れた。
「演劇って?」
「竹取物語だって」
琴の音色が止んだ。
風が会場を駆け抜ける。
白い幕に荒々しい竹やその葉の影が浮かび、左から籠を背負った真っ直ぐな背筋の影がおもむろに歩いてくる。
歩みに合わせて竹林の景色が流れていき、次第に人影も膝を高く上げて、駆け寄ったその先に一本の光り輝く竹があった。
籠を置いて、鉈を置いて、両手で触って、竹を中心に回って、空まで見上げた。
それから鉈を手に持ち、足から腰とそして腕まで不備なく構え、鉈を上から下に斜めに振り下ろした。
そうして開いた竹から黄金が広がり、幕が上がった。
──舞台が終了して、道に流れる人々は口々に瀬音を上らせる。
男もその内の一人だった。
「良かったな。そういえばこんな内容だったな」
三十分ほどの公演だったが、内容は原典に沿ったもので、舞台の表現力が力強く惹きつけた。
「うん。面白かった」
博士も満足しているらしい。
「ねぇ。もう、帰ろう」
「もういいの?」
「うん」
博士の方からそんなことを言うなんて思ってもいなかったが、男も気分屋なもので、もう帰ってもいいかと考えていた。
「なら…よし、帰るか」
男は腰を屈めて、走ったせいで疲れを感じるふくらはぎを両手で摩った。
「あぁ足が痛い」
「・・・」
「何だよ、歳だよ」
博士は声を出さないまま微笑みを浮かべていた。
帰りの街並みは喧騒を尻目にして、寂寞の心には妖怪でも棲んだような気にさせられた。
まだ早い時間帯の為か、ちらほら人とすれ違う程度だった。
男の速度に合わせて、博士は少し早くなったり、遅くなったり、まだまだ足取りは軽いらしい。
「街はどうだった?」
「楽しかったよ。何か、妖怪っていいよね」
「ん?どうしてそう思ったの?」
「何となく。妖怪も、街の雰囲気も」
博士のそれは、喜びより羨望を許してしまっている風に男は感じた。
「妖怪で悲観的な奴は見たことないな」
祭りの気でやってくるような存在だから、なんて…思うつぼだろうか、怪訝さが上回った。
「そういえば、この社会を如実に表した言葉がある。妖怪は無駄が多いと言われ、機械は完全だが物足りないと言われる」
「ふーん」
考えてみれば、それは重箱の隅をつつくだけの話ではないかと思った。
物は言いようで、それを言った人が悲観的だったのか、この言葉が残り続けていること自体が俗世の憂いの証明なのか…男はこれ以上は考えまいと、軽く頭を振った。
「そういえば、妖怪だって死ぬんだって」
博士から不意に言われた。
「知ってた?」
博士が首を傾げて男を見た。
「まぁ…有名だからな」
答えるのに躊躇いが生じながらも、躊躇う暇もなかった。
目を逸らしながらそう言った。
「そうなんだ。不老不死って、難しいね」
男は、てっきり何で教えてくれなかったんだと詰め寄られると思っていたので、話が意外な方へ、いや、博士からしてみればそれが自然なのかもしれないが、ただそこに安堵もない、後ろめたさだけが沁みていた。
「雨?」
博士が手のひらを出して、空を見上げていた。
「あ、そういえば雨が降ってくるって予報があったんだった」
「ほら、浴衣じゃなくて良かっただろ」
「それとこれとは違うでしょ」
二人ともフードを被って、悠長に話している内に雨は思った以上の勢いを見せたので、慌てて近くのシャッターが閉まった軒下に入った。
目の前では惨劇と見紛うほどに強烈な催花雨がざあざあと音を立てている。
「結局雨宿りするんじゃん」
「通り雨だってさ。少し待つだけだよ」
腕時計でそれだけ確認して、手持ち無沙汰は袋小路に入った。
「あ、ねぇ。じゃあ妖怪がどうやって生まれるか知ってる?」
男は目を丸くしたが、きっと博士も知っている訳ではないのだろう、そう思ってすぐ冷静に戻った。
「もしそれが判明したのなら世紀の大発見だろうな」
「ふーん。妖怪に質問してみたの。そうしたら親とかそういうものもいなくて、いつの間にか生まれて、いつの間にか生きているんだって言ってた」
また、男は博士から顔を逸らした。
通り雨ていどで、芯まで冷たくなったような、そんな振りをして胸の前で腕を組んだ。
「昔の記憶ってある?生まれてから最初の記憶、幼稚園の頃とかのさ」
「もう何も覚えてないな・・・あ、蝙蝠が死んでたんだ、土を運ぶ手押し車に、まだ小さな子供の蝙蝠が。保育士の先生が触っちゃダメだって言ってた。他には、何かあったかな…」
男は一瞬、空を仰ぐふりをして、やめた。
不安感からよそ見をしようという企みは消えてしまった。
「なぁ、俺は、端的に言って…」
閉じた蛇口からぽつぽつと垂れるような言葉は次第に止んだ。
「え、何…?」
軽く首を振って男は答えた。
「筋肉質かなぁ」
「突然どうしたの?どっちかと言うと贅肉マンだよ」
「そこまでじゃないだろ。それに今日で百メートル痩せた」
「地底人じゃん」
男は寸分の笑いが堪えられなかった。
「身長は痩せたって言い方しないけどね」
話の終わりに、雨は息を潜めていた。
「よし、もう行けそうだな」
湿った地面が黒く光り、ひとふりの雨で街の色が濃く変わっていた。
「本当にすぐだったね」
「予報は外れないよ」
道の真ん中を歩いた。
博士がずっとこちらを、正確には男の方を通り越して何かを目で追っていた。
歩く内にばっちりと目が合った。
「何見てるんだ?」
男は博士が見ていたであろう方角に一瞥するも、曲がりくねった道と退屈な住宅街や空き地くらい大まかにしか目に止まらなかった。
「ううん、まぁいっかなって」
「何だ?仕返しか?」
「仕返し?夢で見た景色かもって思っただけだよ」
様々な形の窓に浮かぶ明かりに、当たり前のことなのだが、皆が皆、妖怪の祭りに行っている訳ではないのだな、と。
ふと煮物の匂いがして、ことこと煮詰まった大根を想像した。
歩いて帰るだけなのにそれに包含される懐かしさは、人間社会の中に接続している温もりを享受した。
「君だけだよ。俺の心を癒してくれるのは」
目の前のそれは小さな楕円体である。
「とっても可愛いね」
ふさふさしている。
「素敵な色だね」
狐色だ。
「似合っているね」
狐色の衣だ。
「カニ・クリームコロッケ」
カニクリームコロッケである。
「カニ・クリームコロッケ」
カニクリームコロッケはいつも笑顔だ。
雨の多い街の店先に、炎天下の公園に、苔むした神社に、川にも、海にも、モリモリ、カニクリームコロッケ。
森羅万象はカニクリームコロッケに感謝すべきであると、次の論文テーマを決意し、カニクリームコロッケを食べた。
・・・ふと視線を感じた為か、それとも遅すぎた危機察知か、男はそっと、右を向いた。
やはり、やはりと言うべきか、ゆっくりとドアが開いて、冷ややかな目の博士が現れた。
口内でとろける熱いカニ・クリームと丁度いい温度差だった。
「来て!」
腕から引っ張り起こされて、真っ白な廊下を通り・・・研究室まで駆り出された。
そこは男が使っていた時と何一つ変わらない見慣れた光景で、数々の分析機器、造花、植木鉢、薄暗いテラリウム、別々の時間を指す四つの時計。
それから目新しい博士のノート、横には機械について詳らかに書かれた無題の冊子、男は身を縮める。
「見て!」
博士が指を指したのは、夢にまで出てくる水槽と、七本の管に繋がれた機械のマウス。
特別な印の付けられた透明な管は、その内側に不老不死の素が存在していることを示しており、米粒ほどの黒い点が漂っていることが確認できた。
「え…?何?」
「不老不死の素」
「それがどうかした?」
「それから白い綿みたいなのが伸びてるでしょ」
「・・・俺ってそんなに目悪い?」
男は顔を更に近付け、目を凝らした。
「角度とか?」
博士が両手で男の位置を合わせていると、不老不死の素が霧散した。
「あ、今消えたけど…」
素の霧散は従来の観測結果と寸分違わず、依然として博士の発見を男は頭の中に嵌め込めずにいた。
「嘘、本当に見えなかったの?」
男は渋々頷いた。
「それに今までそんな分かりやすい変化を見落とすはずがないだろ…」
「望遠鏡でもかけてればいいのに」
「体積がおかしい」
博士は水槽を四方八方から眺めた上、椅子に腰かけて考え込んでいた。
男も水槽から目を離して扉の方へと歩きつつ物色していると、どうにも皺の多い物があったので適当なページを開いた。
『不老不死とは人類の叡智のことであり、人工知能のことを指している。この世の全ては機械で出来ており、ヒトはおよそ機械界脊索動物門云々観音サピエンス種であると言える』
哲学的になり始めた、これは停滞している証だ。
いや違うこれは昔、どこぞの男がとち狂った時に書いた文だ。
研究日誌になんて雑草を敷き詰めているんだと、使わない引き出しに放り込んだ。
「ねぇ、いつもの通りなら、この後しばらく経つと動き出すでしょ?ならさっきのは不老不死の前兆だったのかも」
「まぁ、任せるよ」
男はそう言って扉を開いて出ていこうとした。
「ところでさっき何でカニクリームコロッケと会話してたの?」
男は足を止めた。
「は?いや?俺じゃないし」
極めて冷静に努めている、脳は冷えている。
「俺じゃないから!」
首元の暑さは今日日の気候のせいである。
男は冷房の付いた部屋を出ていった。
『不老不死の素は霧散し、白い綿へと変質する。
近頃、不老不死の素が白い綿に変質する現象が頻繁に確認され、それにより不老不死の素が消失する経緯が判明した。
これまで不老不死の素が消えていると思われていたが、それは基本的に目視ができない白い綿へと変化し、機械へと流れ込んでいる為だった。
白い綿の視認性は人によって異なる。
発見者の年齢や色覚によっては目視できない可能性があり、要検証である。
白い綿の発生条件は未だに不明だ。
素が接触した時、視認できる時とできない時がある。
白い綿の発生状況は、四つ判明している。
機械マウスへの接触・生物マウスへの接触・活動初期の機械マウス・機械マウスの細胞内
綿は生物マウスでも発生したが、細胞内に白い綿が確認できず、機械のように不老不死の性質は獲得していないと推察される』
どうやら男の目が悪い内に博士はここまで進めたらしいが、現状の博士はテーブルの上ので走るマウスと戯れていた。
それに、いつもマウスと遊んでいる時は少し微笑んでいるのだが、今日は表情が曇っている。
「結局、機械にのみ作用する理由は明確な答えを見つけ出せなかったし、どうやったら人に効果が現れるのか分からない。不老不死を生み出せる未来が見えない」
角が溶けてなくなった歪な氷が、コーヒーの中に浮かんで仄かな黄金を写している。
もう半分を飲み進まないまま指先だけが冷たく濡れて、男は視界の端で博士がこちらに振り返ったと感じる。
「助手はもう手伝ってくれないの?」
「俺はもう、いいよ」
そう言って、平らな雫の残る飲み口を近付けるが、グラスを傾けすぎたせいか首の方まで零れてしまった。
「えぇ…大丈夫?」
ティッシュで拭き取り、思いのほか零れてはいなかったなと思いつつも、少し染まった襟に落胆した。
「俺も老いたな」
「歳なんて取ってないでしょ。手を動かす、つまり助手を努めなさいっていう神様からの暗示です」
男は首を傾げてとぼけていた。
「ねぇ、機械はどうして作られたの?」
「そういう物好きがいたんじゃないかな」
「機械マウスに元から不老不死の特性があるっていう仮説があったよね。助手はそうそうに見切りをつけていたみたいだけど」
「時間の無駄だと思ったんだよ、機械に要因があったなら。俺の専門からは大きく外れるし。それに、絶対に機械にはないと分かったから。不老不死を目的とした設計をされていないし、不老不死の素の特性も知ってるだろ」
「まぁ、そうだけど…」
博士はマウスをケースの中へと入れて、それからしばらくそこでマウスとじゃれている。
パズルに反射する横顔も明るい青には透けていた。
「機械ってさ、生物の模倣な訳だよね」
続けて博士はこう言った。
「なら、もしこれを死体に接触させたら…?」
男は僅かに顔を顰めて、発そうとした言葉に惑わされた。
何を言えるのか?どんな言葉が言葉として足り得るか?
そう考える内に目を逸らしていた。
こちらを振り向いた博士が、首を振った。
「助手は不老不死になれるならなりたい?」
「ならないよ」
「不老不死の研究をしてきたのに?」
「あぁ」
「死ぬのは怖くないの?」
男はそれまで淡々と答えていたつもりだったが、そこから針の動く音が数回聞こえる程度、閉口していた。
「・・・多分、怖いよ。その時が来るまでそんな自覚を忘れてるだけだ。ただ不老不死になりたい訳でも、特別長生きしたい訳でもないな」
ふとその時、男の脳内でゆらゆらと漂う思いつきがあった。
無垢な顔が過ぎて、横顔は無表情で、傍目にもくれなくなって、黒髪が遠く姿をくらまし、また新しい顔を見せる時、月はもう私を覚えていない──
「この身が永遠なればこそ、月も永遠と、日よりも熱く悲恋を焦がすだろう、ってさ」
男はあの時の帝の台詞だけを情緒なしに繰り返してみせた。
「竹取物語?」
「あぁ。帝だって、かぐや姫にもう二度と会えないのなら、不老不死になんてならなくていいって不死の薬を燃やした。それが人間らしい生き方だと思う。人間らしく生きたいんだ、俺は」
「・・・よく分からないな」
博士は眉を顰めていた。
「なら何でこの研究をしてきたの?」
「それは…」
言葉に詰まり、男にとってそれは予期せぬ挙動で、脳内は鈍く擦れて回っているようだった。
「使命だったんだ、不老不死は」
「使命って?」
「誰かの役に立ちたかっただけなんだ。人の、ひいては世界のね。夢に努めよ、だ。後は博士に常識だったり勉強だったり、俺の持っている全てを教えることも、そうだった」
博士は何か難しい顔をしていた。
「博士は・・・博士も、まぁ、研究、頑張れよ」
その日は長い帰り道、ざぁざぁと雨が降っていた。
交差点に差し掛かるところで、こじんまりとした店の窓辺に並んだモニターの眩しさに、やけに苛立って目を細めながら通り過ぎた。
『国立第二科学研究所はアマグモジャクシへの薬を完成させました。アマグモジャクシはその繁殖力から日本の在来種の生息域を奪い、生態系に大きな影響を与え、二十四年に環境省から特定外来生物に指定されています』
毒を、薬と呼ぶんだ。
自然と耳に入ってきた報道にそう思ってしまった。
植物にとっての毒を、人に都合のいい名前で呼ぶ。
ふと口の中に染み出した見当も付かない苦みの正体に、漠然とした不安を覚えて頬の内側を噛んだ。
廂間に入り、気もそぞろに空を見上げた。
嫌いな空、灯りが順に光っていく。
あの上を幻の蒸気機関車が走っていて、もしもそれに乗れたなら、森に、海に、花畑、ピアノの島、ネズミのレストラン、どこまでも、線路は続く、どこまでも行くことが出来る。
遠い昔に見た夢と、夢と数珠繋ぎの現実を思い出していた。
子供の頃は夢も現実も曖昧なもので、実際にあの上で列車が走っているものだと、その空想に強い覚悟さえあった。
今はただ、機械の点検が行われているだけだと知って、悪魔の姿しか見えないのだ。
小さく物音がする。
見ると、葉も付かない低木の隅で、二匹のネズミが脇目も振らずご馳走を漁っていた。
男は小さなカバンの奥から、より小さなポーチ、それから、袋に包まれた桃色の飴玉を一つを取り出した。
手のひらの上に転がして──
耳にイヤホンを挿す。
ピアノの音と歌が聞こえる。
目に遠くのモニターの光が差す。
『我々は時代に選ばれた。我々は都市の光の一部なのだ』
目に文字としてメスは刺す。
『夢に努めよ』
であれば、それは──