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人間風情  作者: 四円
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河川にて

帰り道にはよく、河川を通りがかる。

今日も――男の視線はコンクリートから道を逸れ、下方の暗がりに向く、それは目先にある対岸のライトアップされた工場地帯などに目もくれやらずだ。

――いた、彼女は、堤防を下った先の砕石の水際に、暗い色の傘を差して。


いつからか男は橙の強い常夜灯の傍で、その人影を見るようになった。

初めて見たのは、対岸の眩い工業地帯から目を逸らしたので。

暗がりに微かに揺れ動いて見えたそれが、妖怪かと見紛うほどの異質な女性だった。

吹き溜まりのような外れの町のその外れに、傘を持った彼女は、一つ場面を切り取られたような不自然を醸す女性だった。


事実、その印象的な長い黒髪から幽霊か何かの類だと思って、多くの日を足早に去ったものだけど、背の伸びていく菜の花がいずれ萎むまで、同じ場所から同じ傘を差して同じ景色を眺めているものだから、男はそこの灯りの下で習慣的に彼女のいる方向へ目をやるようになっていた。

快活な帰り道にも。

酔いの吐き気に苛まれた日も。

日々、男の足取りは重くなっていっても。




その日は、無常にも弾ける雨足を街灯の下でようやく見ることが叶う日だった。

男は暗いレインコートを着て、途方もなく長い道で足は機械のように絶えず稼働を続けて――


ああ、足を取られてしまったのかもしれない。

川の暗がりを見た。

今日、その傘の姿はなかった。

ふとした寂しさのような、話したことも顔を合わせたことさえないというのにおかしな、無理に言葉を当て嵌めるなら愛着か、いいや無理などない、不変を求む、まさしく草臥れた肉体と赤子のような精神が乖離した、随分と惨め自分がいただろう。


ふと、彼女はあの場所から何を見ていたのだろうかと、僅かな好奇心で男は土手の芝生を今にも転げそうな足取りで下り、熱を奪われた欄干に右手を乗せて右足から越して上体を送り、こと危うく河原に着く。

水かさは別段増していなかったのだが、暗い足元で靴の内まで水が入り込んでしまった具合の悪さを、都合よくそっと受け入れた。


黒い川面がすぐそこに、かくも由々しき肉叢を今か今かと飲み下すのを待ち侘びている。

明らかな危機がこうして身体を抱きしめているのに、機械的な足に竦みはなく、ただ、立っているだけであった。

ふと、アヒルみたいな声に顔を上げれば沖には河童がいて、その背景が目を惹くので、ライトアップされた工業地帯が祭りの如く橙を灯す様を真に受けてしまった。

反射した河川は、逆さ吊りのさをり織りが今にも解けてしまいそうな光景だった。

今にして思えば、そんな。


堤防から見上げるのとはまた違う、視界の全てが川や対岸のものであって、ずっと先の、強い光。

夜景の美しさはロマンチックと言うべきなのだろうけど――男は、ただ息が詰まる具合。

ただ、どうにも眩しかった。


眩しくて、目の前が遠のくような、何もかもが暈けてしまうのに、指先ひとつ、抗えない。


途端に、全身の浮遊感を感じて、首筋から腕へと凄まじい寒気があった。

目に映る一面が真っ黒い、怖い、落ちている、水面が揺らいでる、黒い、今に落ちて、死ぬ。

――突然に、左腕が強く掴まれ、重く引っ張られた反動があった。

はっと息が止まった。


「っ!!」


右手と両膝をごつごつとした河原に着いた。

鋭くなくとも砕石の刺さった感触は確かに痛かったが、それよりすぐに来る気持ち悪いほどの鼓動から、息を整えるのに必死だった。

少し、蹲り、地面と見つめ合った後、僅かに顔を上げた男の視界には傍に佇む誰かの足があった。

おもむろに見上げると、女性がこちらを見ていて、目が合って、後ろめたそうにこう言った。


「どう、したんですか」


はっとして、男は咄嗟に返した。


「あ、ありがとう…」


死にかけに吐き出した声は、まだ、荒い。

言葉も震え、足まで震えていた。

彼女は肩で息をしながら、目を丸くして驚いた様子だった。

きっと、入水しに来た人だと思っていたのかもしれない。

近年は雨季が幅を肥やして、鬱を患う人も増えたものだから…。


男は川に目をやった。

震えた手足で水際から少し遠ざかりながら、その時、彼女はズボンの裾まで水に浸かっていたのが目に入ったので。


「申し訳ない…。靴まで、水浸しに…」

男がそう声をかける。

彼女も自分の靴を見た。

「水たまりを踏んずけていたので」

大したことなさそうに、息を整えながら言った。


裏には開きっぱなしの傘が放ってあった。

傘を普段使いする人を目にする機会は滅多にない。

地方に行けば傘を差す人も多いと聞くが、この都市では日本最高の人口にも関わらず、一日かけて探したとしても出会えるか分からないくらいだ。

女性は、それどころかレインウェアですらないらしい。

今がまだ小雨で良かったと男は思う。


しかし、まぁ…。

「あなたは、この場所から何を見ていたんですか」


件の傘を取りに向かう彼女を見て、やはりこの人が毎晩ここにいた女性と同一人物なのだろうかと、思考は煮詰まらないまま男はそう聞いた。

人のことを言えないとは思うが、毎度、明度の深い服の色じゃ夜の河川に溶け込んでどうも分かりずらかった。

ただ、もしこの人が同じ人ならば、この場所から何を見ていたのだろう?と、この川の下に来た理由を男は問う。


その時ふと男の頭に過ぎったのは、もし彼女にはそういう、希死念慮があって、自分はそれを毎日の帰りに横目で見ていながら、何も、声をかけることもしなかった人間だと思われるのではないかと、浅はかな自尊心が緊張が走らせた。


傘を差す彼女は驚いたように目を開いた後、虚ろになって、目線を水面に、それから沖に、対岸、夜空にまで目を向けた後で答えた。


「――自分を」

「自分?」

その横顔で鋭く睨む、彼女の目線を追って、川より向こうの空。

あぁ、この場所からは遠くの空が見える。

男の目には疎らに立った筒から白煙が立ち上る様が他のどれより強く映った。

とうとうそれ以外は映らなくなった。

対岸の観光地の名目に美化された工業地帯は、男には短い棘が心臓に刺さったような感覚がある。


「自分探しの旅かも?」

彼女がこちらを振り向いて言った。

男は神妙な顔をしていただろうか、彼女は取り繕うように苦笑いを浮かべた。


「何でも…ろくでもない冗談です、ただ、ぼーっとしていただけ」

ぼーっと、毎晩ここを訪れては無為な時間に浸っていたのだろうかと、それが本心か男には分からなかった。

男の困惑をよそに、彼女は立て続けにこう言った。


「私は人間じゃないんですよ」



雨に気も取られずに沖にぷかぷかと浮いていた河童が、途端に奇声を上げたと思えば、水飛沫を立てて沈み込んだ。

裏手の道路は強風が過ぎり、空、無形の群像がたちどころに視界の隅に消え去っていった。

それを振り返ることもない、到底、人の声も形もないだろう。

ひたひたと雨の音だけがあった。



「――機械だ」

河原に腰を下ろしたまま、いつか流されてしまいそうながら、淡々と言葉を続けた。


「俺は、機械だ」

今、吐き出している言葉を途切れさせないよに。

息をせず、言った。


「何より人間らしい機械だった」

それは独り言のようにも思えるほど盲目的だった。


対岸の工業地帯の夜景も左の方に架けられた大橋も、遠目には目に留まりづらいが細いガラス管が通っていた。

東京のこの機械的な青は、張り巡らされた管が雨水を運んで都市の節々に取り付けられた水車を回しているから。


「街ですれ違う人の形にどこか、緻密な回路のようなものが映るようになった」


回路で構成された人々の往来。

それが男の見ていた日々の景色だった。

水槽の中の脳だけがこの現実を錯覚しているんじゃないかとか、この現実は夢で夢の世界こそ現実じゃないかとか、回答のない話。

けれど男は、その現実を目の当たりにしたのだ。

これまでの陽の暖かさから夜風の寂しさまで、何もかもに嘘を吐かれていたような不安――いいや、明確な虚無感があったのだ。


だから男はこうして、酷く怯え、心のかけ離れたような顔をして言葉を吐き散らして、冷静になった。

無表情だった。

男は両手を小石の積もった地面に突く。

飲み込まれそうなほどの川面に自分の顔があった。


「いや、これも、ろくでもない冗談だ」

取り繕うように言って、立ち上がった。

「本当に?」

横でそう聞き返された。

「つまらない空想だよ」

男はそう言い切った。

「聞きたいです。いえ、聞かせてくれませんか。何でも…」

彼女は膝を着いていた。

傘の中棒を肩にかけている。


「ほら」

柔い葉が伸びるように、手のひらを前に差し出して。


「今は土砂降りです」

その淡い手は、打ち拉がれているように見えたが、彼女は微笑みに男は涙が零れそうになるくらい、どこか安心感を覚えた。

全くの他人であったのに、それはここに至るまで、毎日この場所に立つ姿を見て、どこか幻想を抱いていたから。

その幻想が、男の心を掴んで離さなかったのだろう。


男は石の階段を登り、「水際はもう…」と苦笑を零し、階段の一番上に再び腰を下ろす。

いくら氾濫や鉄砲水の対策がされているからといって、そこはもう怖い、流されたくなかった。

彼女は二段、下の所に座り、こちらに向かって頷いた。

それから、男は話を始める。

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