番外編 奥様、お手柔らかに
結婚して二か月が経ち、アリアナは夫について一つの発見をした。
ユアンは、人を照れさせることにはたいへん熱心だが、自分が照れさせられることには、それほど強くない。
もっとも、その発見を確かなものにするには、少々の実験が必要だった。
「ユアン様。今夜、お時間をいただける?」
朝食の席で切り出すと、向かいで新聞を広げていた夫が、すぐに顔を上げた。
「もちろん。今からでも」
「お仕事があるでしょう」
「内容によっては、予定を見直す用意がある」
「夕食のあとで結構です。寝室でお待ちしています」
ユアンの手から、新聞がわずかに下がった。
アリアナは何でもない顔を装って紅茶を飲んだ。砂糖を入れていないはずなのに、なぜかいつもより甘い気がする。
「アリアナ」
「何?」
「今夜まで、あと何時間あると思っているの?」
「時計をご覧になれば?」
「仕事にならないな」
「では、お約束は取り消しましょうか」
「いや。今夜のためにも、今日はいつにも増して真面目に働こう」
ユアンは新聞を畳み、朝食へ戻った。いつもより少し早い動きでパンへ手を伸ばす姿を眺めながら、アリアナはカップの陰で微笑んだ。
今夜、彼へ渡したいものがある。
喜んでくれるところまでは想像できるが、その先にどのような顔を見せるのかは分からない。
けれど一度くらいは、自分が余裕のある顔をして、照れる彼を眺めてもいいはずだった。
◇
夕食後、アリアナが寝室で包みのリボンをほどいていると、扉が叩かれた。
「どうぞ」
入ってきたユアンは、すでに上着を脱いでいた。
「早かったのね」
「予定していた仕事をすべて片づけて、今夜の時間を確保したからね」
「まあ……それほど大変だったの?」
「集中力が切れてしまってね。昼過ぎには、同じ書類の日付を三度も確かめる羽目になった」
「ふふ。かなりお疲れなのではなくて?」
「原因には、はっきりと心当たりがあるよ」
意味ありげに見つめられ、アリアナは笑いをこらえながら、寝台に置いていたものを持ち上げた。
「こちらを着ていただきたいの」
深い青色の室内着が、アリアナの腕の上で柔らかく広がった。
襟と袖口には落ち着いた銀灰色を合わせ、肩から裾へすっきりと落ちるよう仕立ててもらっている。生地も意匠も、ユアンに似合うように何度も確かめて選んだものだった。
ユアンは室内着を見て、それからアリアナを見た。
「僕に?」
「ほかに、どなたがいらっしゃるの?」
「では、今夜の約束は……」
「試着をお願いしたかったの。寸法は仕立屋に確認してもらったけれど、実際に動いたときの具合も見たかったから」
ユアンはしばらく黙ったあと、片手で顔を覆った。
「そうか。試着か」
「何か別のことをお考えだった?」
「今は答えないでおこうと思う」
手の陰から覗く耳がわずかに赤く見え、アリアナはとうとう笑ってしまった。
「気に入らなかった?」
「とても気に入ったよ。ただ、僕は今、自分の先走った期待を少し整理しているところなんだ」
ユアンは顔から手を下ろし、改めて室内着へ目を向けた。襟元へ触れる指つきが優しくなり、その様子を見ているうちに、アリアナの胸まで温かくなる。
「綺麗な色だね」
「あなたに似合うと思って。襟は、こちらの色のほうがお顔が明るく見えるでしょ?」
「君が選んでくれたの?」
「ええ。仕立てはお願いしたけれど、意匠も相談したわ。それから、ここは私が」
アリアナは襟の内側を返し、小さな刺繍を見せた。ユアンの名の頭文字を、表からは目立たない色の糸で縫い取ってある。
ユアンは、その部分へ顔を近づけた。
「これは、ずるいな」
「何が?」
「君が僕のために針を動かしている姿まで、想像してしまう」
「実際に動かしました」
「何を考えながら?」
アリアナは少し迷ったものの、正直に答えた。
「喜んでくださるといいなと思いながら」
微笑んで答えると、ユアンが黙り込んだ。
はっきりと分かった。彼はいま、何かを言おうと口を開き、照れたように小さく息を吐いた。
「十分、喜んでいるよ」
その声がいつもより柔らかく、アリアナは用意していた次の言葉を忘れかけた。
室内着を羽織ったユアンを鏡の前に立たせると、思っていた以上によく似合った。
肩の線も袖の長さも問題ない。ほどよく厚みのある生地が身体へ綺麗に沿い、ユアンの立ち姿をより端正に見せている。
アリアナは横から裾の具合を確かめ、満足して頷いた。
「少し腕を曲げてみて」
「こう?」
「ええ。脇の辺りは窮屈ではない?」
「大丈夫だよ」
「では、前を合わせますね」
ユアンへ近づき、襟元を整える。すると、彼がアリアナを見下ろした。
「これも試着のうち?」
「当然でしょう」
「では、もう少し時間をかけてくれてもいいよ」
「動かないでください」
アリアナは襟の折り返しを撫で、左右の釣り合いを確かめた。指先には、選んだ生地の柔らかな感触が伝わってくる。その下にある彼の体温まで意識しそうになったが、今夜はいつものように流されるつもりはない。
「やはり、この色にしてよかったわ」
「生地を見る目が真剣だね」
「やだわ。あなたを見ているのに」
ユアンの返事が途切れた。
アリアナは顔を上げ、できるだけ平静に見えるよう意識して続ける。
「よく似合っています。とても素敵だわ」
ユアンはアリアナを見つめたまま、ゆっくりと瞬きをした。
「何かあった?」
「何も。よくお似合いだから、そう言っただけよ?」
「そうか」
ユアンは鏡へ視線を移した。けれど、その口元が緩んでいく様子は、鏡にもしっかり映っている。
アリアナは胸の内で、小さく快哉を叫んだ。
やはり、効いている。
つい口元が緩みそうになるのを何とか堪えて、帯を手に取る。
「帯を結ぶから、こちらを向いて」
「今日は随分、僕へ指示を出すね」
「嫌?」
「いいや。非常に楽しい時間だよ」
即座に返され、今度はアリアナの手元が乱れた。結びかけていた帯が、指の間からゆるりとほどけてしまう。
「今のは、少し効いた?」
ユアンが楽しそうに笑う。
「帯が滑っただけです」
「もちろん。そういうことにしておこう」
帯を結び終えると、いつもの余裕を取り戻し始めた夫を見上げ、アリアナは次の実験へ移った。
「ユアン様」
「何?」
「少し、屈んでくださる?」
ユアンが顔を近づけたところで、アリアナはその頬へ唇を触れさせた。
ほんの短い口づけだったが、身体を離しても、ユアンは動かなかった。
「よくお似合いです、旦那様」
そう付け加えると、ユアンは静かに目を閉じた。
「アリアナ」
「はい」
「今夜は、僕をどうするつもり?」
「室内着を着ていただくつもりでしたけれど」
「それだけではないよね」
見抜かれたことより、彼の声からいつもの余裕が消えていることが嬉しかった。アリアナは少しだけ顎を上げる。
「いつも、私ばかり照れさせられているでしょう?」
「仕返し?」
「あなたも、たまには困ればいいと思って」
「困っているよ。たいへん」
ユアンはあっさりと認めた。そのうえ、アリアナの手を取り、自分の胸へ押し当てる。
掌の下で、鼓動が速く打っていた。
「これで満足してくれる?」
予想していなかった確かな感触に、アリアナの頬まで熱くなった。
軽口で済ませてくれれば、こちらも余裕を保っていられたのに。こんなふうに本当のところを差し出されると、何を返せばいいのか分からなくなる。
「少し」
ようやく答えると、ユアンが小さく笑った。
「少しか。なかなか厳しい奥様だ」
そのままソファへ移ると、ユアンはアリアナの隣へ腰を下ろした。
いつもなら自然に肩へ回ってくる腕が、今日は背もたれの上へ置かれたままである。不思議に思って見上げると、ユアンは困ったように微笑んだ。
「君の計画が、まだ続いているのかと思って」
「もう、おしまいです」
「それはよかった。ずっと抱きしめたかったから」
正直に言われ、アリアナは視線を落としながら頷いた。
「それなら、どうぞ」
ユアンの腕が肩へ回り、身体をゆっくりと引き寄せられる。アリアナも素直に身を預けると、新しい生地の匂いと、彼のいつもの香りがした。
ユアンはすぐには口づけず、アリアナの髪へ頬を寄せた。
「ありがとう。大切に着るよ」
「室内着なのだから、しまい込まないでね」
「毎晩着るつもりだよ」
「それなら、洗い替えも必要になるわ」
「では、もう一着お願いしても?」
「今のところ、同じ生地の在庫はあるはずだけれど……」
そこまで答えてから、アリアナは顔を上げた。ユアンの目が明らかに笑っている。
「また試着をするおつもりね」
「着心地は確かめないといけないだろう?」
「同じ型で仕立てれば、必要ありません」
「残念だな。たいへん細やかで行き届いた試着だったのに」
呆れながらも笑ってしまうと、ユアンが頬へ手を添えた。その指が優しく耳の下を撫で、アリアナの笑いが少しずつ静まっていく。
「今度は、僕からでいい?」
「ええ」
唇が重なった。
先ほどアリアナが頬へ贈ったものより長く、けれど少しも急かさない口づけだった。
アリアナが室内着の襟へ指を添えると、ユアンは一度唇を離した。目が合うのを待ってから、もう一度近づいてくる。
今度はアリアナも顔を上げ、自分から応えた。
背中を包む腕が少しだけ強くなり、その温かさを求めるように身体を寄せる。先ほどまで、どちらが相手を照れさせるか気にしていたことなど、いつの間にかどうでもよくなっていた。
唇が離れると、ユアンが額を寄せたまま囁いた。
「もう一度、呼んでくれる?」
「何を?」
「さっきの」
思い当たり、アリアナは彼の胸元へ目を落とした。
「お気に召したの?」
「驚くほど」
「旦那様?」
「うん」
返事があまりにも嬉しそうで、アリアナは笑ってしまった。
「社交新聞の皆様にも、お聞かせしたいわね。あれほど世間を騒がせた放蕩者が、呼び方一つでこんなに喜ぶなんて」
「新聞には載せないでほしいな」
「評判に関わるから?」
「君に呼ばれたときだけだと、きちんと説明するのが大変だから」
さらりと返され、アリアナは唇を引き結んだ。
ユアンが満足そうに微笑む。その顔を見ると悔しいのに、胸の内は甘く満たされていく。
「結局、いつものようになるのね」
「何が?」
「私ばかり、落ち着かなくなるの」
ユアンは笑みを和らげ、アリアナの手をもう一度、自分の胸へ重ねた。先ほどより穏やかになっていた鼓動が、触れているうちに少しずつ速くなる。
「僕も同じだよ、奥様」
アリアナは掌の下の鼓動を感じながら、ユアンを見上げた。
その表情を見ていると、もう一度困らせてみたくなる。今度は勝ちたいからではなく、彼に喜んでほしかったからだ。
「愛しているわ、ユアン様」
彼の腕が止まった。
アリアナはその一瞬を逃さず、唇へそっと口づけた。身体を離すと、ユアンは深く息を吐き、アリアナの肩へ額を預けてくる。
「降参する」
「何に?」
「何でもいい。君の勝ちで」
アリアナは声を立てて笑い、彼の髪へ指を通した。柔らかな髪が、指の間を滑っていく。
ユアンはしばらくそのままでいたあと、顔を上げてアリアナを見た。
「お願いがあるんだけれど」
「勝った私に?」
「慈悲をいただければ」
「内容によるわ」
彼はアリアナの手を取り、その指先へ口づけた。
「もう少し、このままでいて」
そんな願いを断れるはずがなかった。
アリアナは彼の肩へ頬を寄せ、室内着の胸元をそっと撫でる。
「ええ。今夜はあなたのために、たっぷり時間を空けてあるもの」
「それは困ったな」
「今度は何?」
「また、君の口を塞ぎたくなった」
アリアナは熱くなった顔を、彼の肩へ押しつけた。頭の上でユアンが笑い、抱きしめる腕へ力がこもる。
勝ったはずなのに、やはり最後にはこちらが照れている。
けれど、指先で確かめた生地は申し分なく、夫の腕の中はそれ以上に心地よかった。
少なくとも今夜の試着はたいへん満足のいく結果だったと、アリアナは結論づけた。




