祈り
違った道も捜してみようと思い立ち、商店街を入り口まで戻って、右側にカーブする道を曲がってみた。
古い橋が架かっている。下はギョッとするほど深い谷だ。
橋を渡った先は畑ばかりののどかな風景が広がり、民家がポツンポツンと数軒並んでいるだけだった。
ぼくはウロウロ歩き、つきあたりを適当に右に曲がった。前方にひっそりと一軒、店らしき建物が見えた。
ぼくはなにかピンとくるものを感じて身体に力が入った。
その店に近付くにつれ、妙に息苦しくなり、足が前に進んでいるのか後ろに下がっているのかわからない錯覚にとらわれた。たいした距離ではないのに、店に辿り着くまでとても遠く感じた。
店は新築のようだった。「小料理屋 二輪草」と看板が掲げてある。
入り口の戸には「準備中」のプレートが掛けられていた。その入り口と並んでもうひとつ玄関があり、「沢木」という表札が掛けられている。
ぼくは店の前をウロウロ歩いた。
どうしよう・・思い切って戸を開け、「すいません」と覗いてみようか・・
いざ戸に触れようとするとドキドキして手が震える。「はあい」とかあさんが出てきたら・・
考えただけで身体が硬直した。
どうすることもできず、ぼくは湖のほとりのベンチまで走って逃げた。
商店街で時間を確認すると、一時半を回っていた。時刻は刻々とただ過ぎて行く。
「ああ・・どうしよう!」
ぼくは泣きたい気分になり、かぶりを振って頭を抱えた。蝉の声がぼくを追い立てるように激しく降り注ぐ。汗がポタポタとしたたり落ちる。
落ち着け。落ち着け。
ぼくは自分の影を見つめて言い聞かせた。
もう一度・・もう一度あの店に行ってみよう。そしてこれをラストチャンスにしよう。
もう限界だ。結果がどうであれ、これで帰るんだ。そう思えば頑張れるかもしれない。
ぼくは決意して立ち上がり、帽子をかぶり直した。
大地を踏みしめ、一歩一歩決意をみなぎらせてぼくは歩いた。
再び「二輪草」の前に立つ。
擦り硝子の戸口を睨んでいると、人影が戸に向かって近付いてきた。ぼくは慌てて店の角に隠れ、そっと覗いた。
店から女性が出てきた。
ぼくは息を飲んだ。
女性は長い髪をひとつにまとめ、服装は透かし網のサマーセーターにクリーム色のスカート。デニムのエプロンをつけ、足元は下駄履き。手にバケツと柄杓を持ち、店の前に水を撒き始めた。下駄がカラコロと軽やかな音を立てる。
ぼくの記憶の中のかあさんは、少し茶色の髪にゆるいパーマをかけ、その髪がいつも肩先でふんわりとやさしく揺れていた。目の前の女性はまっすぐな黒髪を長く伸ばし、キュッとひとつに結んでいる。ずいぶんキリッとした印象だ。
女性が動くたび、結んだ髪が左右に揺れ、細いうなじが見えた。ふと、台所に立つかあさんの後ろ姿と重なった。ぼくは眉間にしわを寄せ、食い入るように女性を見つめた。
女性は四方に水を撒き、ふいに横顔がハッキリ見えた。
ぼくは目を見張り、叫び出しそうになった。
凛とした美しい横顔。
かあさん!かあさんだ!
ぼくの膝は立っていられないほどガクガク震えた。
かあさんは水を撒き終わり、店の中に入って行った。
ぼくは見つからないように店の角にへばりつき、中へと消えていくかあさんを見届けた。
頭の中が真っ白だ。胸が一杯で、破裂しそうだ。
ついにかあさんを見つけた。見つけたんだ!
雷に打たれたように、ぼくはしばらく動けなかった。
ハッとしてプログラムを取り出す。しかし、とてもじゃないが店の戸を開ける勇気が出そうにない・・声すら出ない気がする・・
どうする!どうする!
戸に手をかけようと試みたが、手が震えて伸ばせなかった。ぼくは自分が情けなくなり、顔がくちゃくちゃに歪んで、泣きっ面になった。
涙でぼやけた目に、もうひとつの玄関の戸口に掛かるポストが映った。ぼくは希望を見つけた気がした。
あれだ!もうあれしかない!
ぼくは意を決して震える足を必死で前に押し進め、もうひとつの玄関の前に立った。
プログラムを見つめ、目を閉じて祈り、震える手を伸ばしてポストに入れた。
パサッとポストの中に紙が落ちる音がした。ぼくは脱力してポストを見つめた。
やった・・とりあえずやった!
ぼくは大きく息を吐いてうなずき、すばやくその店から立ち去った。
何度も振り返って店の入り口を見た。
かあさんお願い!プログラムを見て!かあさん!
ぼくは泣きながら走ってバス停に向かった。ちょうどバスが停まっていた。
ぼくはスピードアップしてバスにすべり込んだ。同時にバスの戸がプシューッと閉まり、まもなく発車した。
ぼくは座席についた。呼吸が整うまで興奮も鎮まらなかったが、次第に背もたれに寄りかかる余裕も出てきて、心地よい疲れがぼくを包んだ。
頭の中にトロイメライが流れる。回るメリー。遠い日のかあさん・・
そして今しがた、ほんの一瞬垣間見たかあさんの横顔を、窓に流れる景色に透かして投影させた。
つかの間だけど、たしかに「リアル」だった。
ぼくはかあさんを見つけたんだ!ぼくとかあさんは、ひとときでも同じ空間にいたんだ!
胸がじいんと熱くなり、涙がにじんだ。慌てて帽子のつばを押して顔を隠した。涙がひとすじ頬をつたう。
リフレインするトロイメライ。
ぼくは感動に浸りながらバスに揺られ、家路についた。
ぼくは発表会めざしてピアノを猛特訓した。その成果が表れてめきめきと上達し、ミスしがちだったパッセージもなめらかに弾きこなせるようになった。
築地が「うまい!うまい!すっごく上達したわぁ!本番もこの調子でね!」と拍手した。
岡本も「やったぁ!」とバンザイし、ぼくにハイタッチした。
ぼくは自分でも思いがけず、笑顔を見せてしまった。築地も岡本もハッと目を見張り、珍しそうにぼくの顔を眺めた。
築地は、「秋葉くん。なんか張り切っとるじ!」と背中を叩いた。ぼくは照れてうつむき、「べつに・・」とちいさく言った。
かあさんが観に来てくれるかもしれないと考えただけで興奮し、「大変だ!大変だ!」と焦って、ひたすらピアノを練習した。
客席にいるかあさんを思い浮かべると胸が一杯になって涙がにじみ、ピアノを弾く手を止めては目頭をぬぐった。
ぼくはカレンダーに印をつけた。三十日を丸でかこみ、発表会と書いた。待ち遠しい日が具体的に設定され、カレンダーに印をつけるなんて、産まれて初めてのことだった。
ぼくは毎日が楽しく感じられた。
目障りなのはオヤジだった。
あの日、ぼくは野球帽をかぶって出かけ、帰ってきてから帽子を机の上に置いていた。
オヤジはそれを見つけ、ぼくが帽子をかぶったことを大いに喜び、なにを勘違いしたのか昔買ったグローブやらボールを引っ張り出してきて、「ぼうず、キャッチボールせんか」と熱く誘ってきた。
「いいです!」と断っても「なあ、なあ」としつこかった。
ぼくは頭にきて「指を怪我したらどうするんですか!発表会も近いのに!」と怒鳴りつけた。
するとオヤジは「ピアノなんか辞めてしまえ!」と言い出す始末で、無理矢理ピアノを辞めさせる危険まであり、ぼくを脅かした。
せっかく盛り上がって楽しく生き生きと頑張っているのに・・ぼくの邪魔をするな!
ぼくはイライラして一人で机を蹴ったり、物を投げたりした。
次にオヤジはカレンダーの印を見て思いついたように「発表会、三十日か・・休みとって観に行くかな」などと言い出し、ぼくをギョッとさせた。
オヤジなんか観に来たらたまったもんじゃない!もしもかあさんが来てたら・・なにもかもぶち壊しだ!
ぼくは口から火を吹くが如く「来なくていいです!」とわめいた。
オヤジはさすがにシュンとしてそれ以上ぼくに構わなくなり、ようやくぼくはホッと胸を撫で下ろした。
発表会当日は、小雨が降る蒸し暑い日だった。
前夜から蒸し暑く、ぼくはほとんど眠れなかった。無論、それだけが理由ではないが。
かあさんが観に来るシチュエーションを繰り返し思い浮かべ、かあさんはきっと来る!と確信を強めた。
舞い上がってピアノを失敗する場面が頭をよぎるとヒヤッとして、とても横になっていられず、その度トイレに行った。
絶対カッコ悪い姿を晒してたまるか!
ぼくは空中で鍵盤を弾く真似をした。
朝方、急に激しい雨が降り、ぼくは飛び起きた。慌てふためいて窓の外を見ると、雨がすごい勢いで地面を叩きつけ、水しぶきで町がけぶっていた。
なんてことだ!最悪の天気だ!
ぼくは頭を抱え、布団の上を転がっているうちに硬直して、しばらく深い眠りに落ちたらしい。目覚めた時には雨は小降りになって落ち着いていた。
朝食を準備し、オヤジが食べて出かけるのをボーッと見届け、やれやれと息をついた。
頭が鈍く重たい。しっかりしなくては。今日は正念場だ!
ぼくはパンパンと自分の頬を叩き、身支度を始めた。
中央児童館入り口には「第八回 築地愛子ピアノ教室発表会」と看板が立ち、花が飾られていた。控室は親と子でごった返し、暑苦しかった。
岡本は紺色のドレスを着て、頭にも紺色の花をつけ、母親に化粧してもらっていた。母親よりもおばさん臭くて貫禄があった。
岡本はぼくを見て、「秋葉!頑張るげんよ!」と拳を握ってみせた。
ぼくは「おう」とちいさく言い、自分の姿を鏡に映してチェックした。
白シャツに黒の半ズボン。白いハイソックス。
毎年変わりばえしない衣装だが、先週、散髪に行って髪がスッキリしてるし、まあまあ決まっている。
築地はパンパンと手を叩いてみんなを注目させ、「みんな、落ち着いてね!いっぱい練習したんだから絶対大丈夫!自信持って頑張ってね!」とテンション高くエールを送った。
築地は黒のドレスを着て髪をアップにし、いつもよりかなり若く見えた。こういう場ではバッチリ決めるヤツだ。
岡本は「ううーっ!緊張するぅ!」と手を振り上げ、ワナワナと震わせた。
僕は胸に手を当て、目を閉じた。
プログラムにのっとって演目が続いた。
ぼくは舞台の袖から客席をそっと覗いた。
ビデオ片手の親たち。かあさんらしき人の姿はない。
ぼくはため息をつき、「まだわからん」とつぶやいた。




