母を訪ねて
「ほら、咲季ちゃん。顔の汗拭いて」
「ああん。ハンカチない!ママ拭いてぇ」
母親はやれやれという顔で、タオルで岡本の顔を拭いた。
けっ。なにが咲季ちゃんだ。デブ。ブス。胸が悪くなるぜ。
親子の甘ったるいやりとりを横目に、ぼくはプログラムを見つめた。
築地愛子ピアノ教室発表会 八月三十日 日曜日 午前九時~十一時半
場所 県立中央児童会館ホール
十三番 「楽興の時・第三番」 秋葉 遼 岡本咲季
じっと見つめていると、電光石火のひらめきが走った。
これをかあさんに渡すんだ!かあさんに会いに行って、これを渡せばどうだ!
会いに行っても、いざかあさんの顔を見たら、ぼくは固まってしまって何も言えないかもしれない。かあさんの反応も想像がつかないし、不安だ。
だけどこれを渡せば恰好がつくんじゃないか?これを渡すために来たのだという名目ができるんじゃないか?
そして渡すことによって、かあさんが当日観に来てくれるかもしれないという可能性まで出てくるではないか!「かあさん観に来て」とそれぐらいなら言えそうだ。素晴らしい名案だ!
帰り道は熱に浮かされたようにフラフラ歩いた。このひらめきに酔いしれ、すっかり頭がのぼせ上がったらしい。かあさんが観に来ている場面を考えただけで胸が震える。泣きそうだ。
行こう!もう行くしかない!ぼくは熱く決意した。
団地の下で遊んでいるガキどもに向かって、「おい、お前ら、エサをやる!」と言って、ぼくは袋を放り投げた。岡本の母親が「持ってって食べまっし」と、帰りにぼくに持たせたヤツだ。
リボンがついたプレゼント用の袋の中には、クッキーがどっさり入っている。甘い匂いがして、まだ少し温かかった。
ぼくはこれをとても食べれそうにない。かあさんが最後に作ったオムライスを思い出して、悲しくなる危険がある。
ガキの一人がナイスキャッチで袋を受け取った。
「わあ!いい匂い!」「おいしそうな匂い!」
ガキどもは歓声を上げながら袋を開け、クッキーを見てさらに歓声を上げた。
そばにいた母親の一人が怪訝な顔で覗き込み、安全なものらしいと確認してから、きまり悪そうにぼくに会釈した。
ガキどもに物をやるなんてぼくらしくないが、、まんざらでもない気分だ。
それより湯涌行きの細かい計画を練らなくては。
ぼくは小躍りして、段飛ばししながら階段を駆け上がった。
発表会まであと二週間に迫った日曜日。ぼくは金沢駅のバス停に立った。
西口四番 兼六園下経由 北陸大学・湯涌温泉行き
これに乗れば終点が湯涌温泉だ。バス代は子供料金で半額だから、往復で五百円くらいで済む。
背中に担いだ小さなリュックの中身は、発表会のプログラムと、メリーの花びらを入れた箱。お守りとして持ってきたのだ。
ぼくは野球帽を目深にかぶった。オヤジが買ってきた帽子を今初めてかぶる。誰か知っているヤツに会うのが嫌だったから。それとかあさんに会った時、とっさに隠れたくなってもこれをかぶっていれば安心だから。オヤジが買ってきた物も、たまには役に立つ。
西口四番にバスが入って来た。ぼくは逸る胸を押さえ、バスに乗り込んだ。
体が不自然にぎくしゃくと動いている。ぼくは恥ずかしくなってうつむいた。帽子をかぶってきて正解だった。
これから「リアル」に向かおうとしているのに、現実だという実感がまるでない。
ほんとに・・ほんとに今からかあさんに会うのだろうか・・
躊躇するぼくにおかまいなしで、バスは動き出した。
ぼくは小刻みに震え、なんとか落ち着こうと窓の外を流れる景色を眺めた。
バスは町の中を走り、兼六園の前を通った。兼六園を見るのは何年振りだろう。
遠い昔、家族で一度、花見に行ったことがある。ぼくがまだ小学校に上がる前だったと思う。夜の兼六園に敷物を敷き、かあさんはお重に詰めたお弁当を広げた。
オヤジは缶ビールを飲み、上機嫌で弁当をつまんだ。
かあさんは甘い玉子焼きをぼくに食べさせながら、楽しそうに笑っていた。桜をバックにして微笑むかあさんは、顔もほんのりと桜色に染まり、とても美しかった。
オヤジはいつになくおどけて、ぼくとかあさんにカメラを向け、やたらと写真を撮っていた。かあさんがもういいと言っても、しつこいくらいに撮っていた。
そういえばあの写真はどうしたんだろう。見た覚えがない。あんなに撮っていたというのに。オヤジのことだから面倒くさくてまだ現像にも出さず、カメラの中にフィルムが入りっぱなしなのではないか。それともかあさんがいなくなってから捨ててしまったのかもしれない。
弁当を食べたあと、オヤジはぼくを肩車して歩いた。見上げていた桜が、ぐーんと近くに見えた。夜の桜はぽうっと薄紫色に浮かび上がり、幻想的な雰囲気を醸し出していた。
ぼくが伸ばした手の先には白い月があった。今にも届きそうで、ぼくは精一杯手を伸ばしたけれど、月はあまりにも遠かった。
オヤジに肩車をされたまま、兼六園の中をぐるっと回り、かあさんはニコニコと笑いながらそのとなりを歩いていた。あれはたしかに幸せな家族の風景だった。
ぼくは目を伏せ、ため息をついた。
バスは坂道を走り、ふいに道路わきの木々の間から下方の町が大パノラマとなって目の前に現れた。バスは今、切り立った山道を走っているのだと気付く。向かい側の青い山が目と同じ高さにあり、下方の町はまるで山と山の間を大きなショベルカーでえぐった窪みにレゴブロックをいっぱい並べて作った町みたいだった。
ぼくは思わず「わあ!」と小さく声を上げ、窓に手をついて魅入った。圧巻の風景だった。
大パノラマを通り過ぎると、バスは北陸大学前に停まり、学生らしい女子三人連れがバスを降りた。バスの中は、老夫婦とぼくの三人だけとなった。
「次は終点、湯涌温泉、湯涌温泉」とアナウンスが流れ、掲示板がパタッと「湯涌温泉」に替わった。ぼくの心臓は早鐘のように鳴り出した。ぼくは胸に手を当てて、ぎゅっと目をつぶった。目を閉じていても、するすると回転するバスの大きな車輪や、行く手に広がる道路が見えるようだった。
いつ停まる。いつ停まる。
酔いそうになりながらぼくは息を詰めた。
バスがスピードを落とした。
ぼくはなにも考えられなくなった。
ほとんど叫び出しそうな心境に到達したと同時にバスは停車した。
「終点、湯涌温泉、湯涌温泉」
ぼくは目を開け、放心してアナウンスを聞いていた。ついに着いてしまった!
老夫婦は立ち上がり、料金箱にお金を入れた。ぼくも慌てて立ち上がり、老夫婦に続いた。
老婦人が降り際にチラッとぼくを見て、「ぼく、一人で遠くまで来てかたいなぁ」とニッコリ笑って褒めた。ぼくは上目使いで会釈し、お金を料金箱に入れた。
バス停に降り立つと、そこは温泉街の入り口だった。涼しい車内からたちまち灼熱に炙られ、ぼくは顔を歪めた。役目を終えたバスはサッサと走り過ぎて行く。
ぼくは温泉街を見渡した。雑誌で見た通りの小さな商店街だ。スタスタ歩けば五分もかからず通り過ぎるだろう。とにかく左右の店を一軒一軒じっくり検証しながら歩いてみよう。
焼肉屋・・豆腐屋・・郵便局・・旅館数軒・・
覗いた店の中の時計に目がいく。現在十一時十分だ。バスは一時間に一本しかないから、注意して帰らなければならない。行ってどんな展開になるのかわからないが、とりあえずいつも通り夕食の支度をすることを考えると四時頃には家に着きたいところだ。となると遅くても三時のバスには乗らねば。時間内にかあさんを見つけ出せるか・・
本当にここにかあさんがいるのだろうか・・全くピンとこない。飲み屋風の店も見当たらない。
ぼくは一軒見るごと首を捻り、あっという間に商店街を通り過ぎた。もう一度一軒一軒確かめながら来た道を戻る。何往復そうして歩いても、かあさんがいると思われる店は見つからなかった。
喉がカラカラだ。腹も減ってきた。
ぼくは土産物屋に入り、アンパンと牛乳を買った。店を出ると横に階段があり、壁に「二階 喫茶&スナック」と書いたプレートが打ち込まれていた。
スナック?もしかして・・
ぼくは少し緊張しながら階段を上がった。
狭い踊り場を遮断するかのように硝子張りのドアが建ち、中は店になっていた。ぼくはドアに顔を押しつけ、中を覗いてみた。見知らぬ女性が一人、カウンターの中にいて、客と話している。
・・・ちがう。かあさんじゃない。
ぼくは首を横に振って階段を降りた。
いささかうんざりしてきた道をつきあたりまで歩く。商店街の一番端の旅館を過ぎると、そこからは坂道になっていた。ゆるやかな坂だが、歩くと結構キツイ。ぼくはハアハア言いながら坂を上がった。
両側はうっそうとした森だ。ジージー。オーシンツクツク。蝉の声に混じって、さまさまな虫の声が聞こえてくる。木々の匂い。かすかに水の匂いもする。
坂を上がりきると「玉泉湖」と書かれた看板が立ちはだかり、後方にみどり色の湖があった。高台には大きな白亜館が君臨している。クラッシックな風情の、ずいぶん豪華なホテルだ。雑誌で紹介されてた「白雲楼ホテル」らしい。
湖のほとりにベンチがあり、ぼくは座ってパンをかじり、牛乳を飲んだ。アヒルやカモが数匹、のたのたと歩いている。
異空間に心細さもあったが、のどかな風景に気持ちが安らぐ。非日常の場所に身を置くことは少し楽しくもある。市内とはいえ、ちいさなひとり旅だ。
湖の周りは散策路になっていて、ぐるっと歩いて回れる形になっていた。食べ終わったぼくは、少し歩いてみることにした。
途中に「氷室小屋」なるちいさな小屋があった。昔話に出てくる家みたいだ。戸口にしめ縄が張られ、幣がひらひらと風に揺れている。古い言い伝えがありそうな雰囲気だ。
散策路の小道を歩いて行くと、ちいさな木の橋を渡した箇所があった。橋の下はジョボジョボと山水が流れ、湖へと続いている。清涼な風を感じた。
木々の陰りで少し薄暗くて涼しい散策路をぼくは探検気分でぐるっとひと回り歩き、ベンチに戻ってぼんやりと湖を眺めた。
湖というより沼みたいだ。妖怪でも出てきそうな雰囲気だ。みどり色の水面には浮草が点々と浮いていて、魚が水面をつつくのか、ゆるやかな波がまるい輪を作った。まるで雨粒が落ちているのかと錯覚するくらい絶え間なく、あちらこちらで波紋がゆっくりと広がる。トンボや蝶が水面すれすれに低く飛び交い、虫の羽音が頭の上や耳元でうるさく聞こえた。
今からなにか起こるのだろうか・・かあさんと劇的な再会など果たせるのだろうか・・
まるで信じられない。
なにも起こらず帰ったとしても、それでもいいじゃないかと消極的な気持ちにもなってきた。
ぼくはリュックから花びらとプログラムを取り出して、じっと見つめた。
なにかを変えたくて行動を起こしたんじゃないのか?かあさんが幻ではなく、現実としてそばにいてくれる日常を取り戻せるかもしれない、イチかバチかの勝負なんじゃないのか?
あきらめるな!かあさんを捜すんだ!なんのためにここまで来たんだ!
ぼくは自分を奮い立たせて立ち上がった。




