外星
ユズリハは、今日も病院のベッドの上にいる。そもそも退院予定すらたっていない。
それでも、これ以上の機能低下を阻止し、現状維持を目的とした治療から、機能回復訓練への以降が検討される段階となった。
一時期を思えば、奇跡のような状態である。
しかし、それをユズリハ以上に喜んでくれる人々に囲まれたことは、ユズリハにとって自身の状態より遙かに奇跡的なことだった。
今日も今日とて、アクアはユズリハの隣に座っている。
ユズリハの見舞いに訪れてくれる人は多いが、ベッドの横にあるその椅子に座る時間が最も長いのはアクアだ。
ユズリハが目覚める前から頻繁に見舞いに来てくれていたと聞いてはいたが、目覚めてからはほぼ毎日の頻度で見舞いに来てくれている。
彼も忙しい身の上だ。現在の状況なら尚更である。
ユズリハ自身、アクアが来てくれるのはとても嬉しい。だが、毎日は大変だろうと案じる心も本心だ。
そう伝えたこともある。けれど、アクアによる見舞い回数が変化することはなく、最近は諦めた。
アクアの、一度自分で決めたことはよほどのことが無い限り覆さない頑固な性質を、ユズリハは誰よりよく知っているのである。
ベッドの上で起こした上体を背もたれに預け、椅子に座るアクアと話をする。そんな時間が末期の願いでもなければ、悪夢の中見る夢でもないと実感できるほどに、ユズリハも現状に慣れてきた。
それでもユズリハは、未だにこの時間が夢のように感じるときがあることを、アクアに伝えるつもりはない
「そんな感じでさ、転校先でもまあまあ楽しくやってたよ」
毎日毎日、話すのは益体もないことばかりだ。最近は主に、引っ越した先での生活、両親が健在だった頃の話をすることが多かった。
互いのことを何でも知っていた頃から、知らない時間が長くなっていく過程。その中で、穏やかに話せる時間だけを切り取った内容を選んでいるユズリハに、アクアは何も言及しないでいてくれた。
「お前は誰とでもうまくやれるからな」
「君も友達の一人や二人は出来ただろう?」
「いるわけがないだろう?」
「君は人見知りが激しいからなぁ」
アクアは一見気難しく愛想がないように見えるが、その実とても面倒見が良く世話焼きで、他者を甘やかす類いだ。大抵の理不尽も、最終的には仕様がないで許してしまう人なので、少しでも彼を知れば人嫌いには到底見えないだろう。
ただし、気難しく頑固なのも真実なだけである。
アクアへの甘え方に関しては最古参であり、第一人者であるユズリハは、せっかくなので存分に甘えたおしてやろうと目論んだこともある。しかし困ったことに、ユズリハがあれほしいこれ食べたいという前に、それらを手にしたアクアが現われる。
入院している身とはいえ、流石にこれは問題では? と、ユズリハに思わせるほどにはアクアも際限がなくなっていた。
ユズリハもアクアも、懐かしく愛しき過去をなぞるには、少々その過程が過酷すぎて、どうもいきすぎる傾向にあった。互いにそうと自覚はあったものの、どうにも修正に舵を切りきれないのは、やはり再会に浮かれているからだろう。
それでもユズリハは、アクアが止めなければ誰が自分を止めるんだと思っている。アクアには頑張ってほしいものだと応援もしている。
自分が止めるつもりは、欠片もない。
「それでさぁ、友達も増えたしそれなりに楽しくやってはいたんだけど、一つだけ納得できないことがあってさ」
「へえ」
この件に関して、ユズリハは未だに憤っている。
「私には、頭が良くて顔が良くて面倒見が良くて料理がうまくて優しくて笑顔が可愛い幼馴染みがいて毎朝起こしてもらっていたんだって言っても、誰も信じてくれないんだよ!? 酷くない!?」
下半身にかけている布団に、両拳を振り下ろす。気持ち的には盛大に振り下ろしたつもりだったけれど、実際には僅かに浮き上がった腕が自然落下したに過ぎない。
それでもユズリハの気持ちの上では、羽毛が飛び散るくらいには憤っている。
「みーんな、私の妄想だの夢だの言うんだよ!? 曰く、そんな都合のいい夢のような相手がこの世に存在するわけがないって! しまいには、お前みたいな奴にそんな存在がいたら俺らは泣くって! お前みたいな奴ってなんだよ! お前みたいな奴って!」
「いや、俺らってなんだよ、俺らって」
「ああ、入ってたサークル、男子ばっかだったんだよ。でさ! 挙げ句の果てにそんな男の夢みたいな幼馴染みを私にいるのは許さないって言ってくるんだよ!? だからさ、君が作ってくれるお菓子は世界一美味しいし、その匂いで目覚める朝は最高だって言ってやった。血涙流して悔しがってたよ」
奴らの言い分には未だ納得はしていないが、机に額を打ち付け、血涙を流して悔しがっていた光景を思い返せば胸が透く。
何せユズリハの幼馴染みは最高なのだ。
「ちなみに奴らの中での君は、料理が上手で世話焼きで私を甘やかしてよしよししてくれる美少女だ」
「何だそれ」
「男の夢だそうだよ」
「知らない夢だな……」
アクアはどこか遠い目で、窓の外を眺めた。どこかどころか、盛大に遠い目をしている。まるで理解の出来ない未知なる文化に出会ったとき、人はこんな目をするらしい。
しかしユズリハには、少し分かる気がする。ユズリハも、家に帰るたびアクアがいてくれたらいいのにとよく思ったものだ。
学校にも、放課後にも、休日にも。いつでもどこでもアクアがいてくれたら、どんなに嬉しいだろうと。
いつも、思っていた。
けれど、今でもよく夢に見る地獄の中では、一度たりとも思わなかった。むしろあの場にアクアがいないことを、一度は呪った神に感謝すらした。
「……私さ、お別れも言えなかったんだよね」
ぽつりと呟いたユズリハへ、アクアは視線を戻した。
「色々と、ばたばたして、さ。あっちでもそれなりに楽しくやってたから、お別れくらいは言えたらよかったんだけどね」
ユズリハは、へらりと笑う。
こんな笑い方ばかりうまくなってしまった。
「――今は、関係者以外と連絡を取らせるわけにはいかない」
「当たり前だよ。そもそも、私が生きている事実を周知するわけにもいかないしね」
ユズリハの存在自体は、様々な人工星中に知れ渡っている。何せアクア達の前で頭を打ち抜いたあの瞬間、空には多数の報道ヘリが飛んで回っていた。それ以外にも、映像ならばあちこちに残されているだろう。
ユズリハのいたサークルには、ユズリハと趣味を同じくする者が集まっていた。誰かは必ずあの映像を見ているだろう。
ユズリハはもう一生、過去に繋がった人とは会えない。この存在は、表に出るべきではないのだ。本来ならば生を繋ぐことも、姓を紡ぐことも許されない。
理解もしているし、納得もしている。
それなのに、思いを音にしてしまったのは、ここにアクアがいるからだ。昔からユズリハはアクアに甘えてきたし、アクアはそんなユズリハを仕様がないなで許してきてしまったのだ。
だから、アクアが悪い。ユズリハは心の中であえてアクアに責任を押し付け、苦笑した。心の中ではなく、実際口に出してそう言ったとしても、アクアはきっと許してしまうだろうと分かっていたからだ。
ユズリハの幼馴染みは、底抜けに優しく、ユズリハに甘いのだ。
だからユズリハは、それを言葉にするつもりはなかった。実際、アクアが悪いとは欠片も思っていないのだ。
「けれど、いつか情勢が落ち着き、様々な体制が整った後にお前が望めば、可能だ」
アクアの言葉に、ユズリハは息を呑んだ。
どんな冗談だと思ったのに、元来真面目な性分のアクアが冗談を言うことは少なく、ましてこんな場面でふざけたりするはずがない。
現にその顔は、穏やかでいて落ち着いた表情を浮かべている。
「…………君らしくない冗談だね」
「冗談じゃないからな。お前の存在は、確かに明るみに出れば危うい部分が多い。けれど体制さえ整えば、いっそ表舞台に出た方が安全とも言えるんだ。人の目があれば、それだけ抑止力になる。お前を狙う連中同士も手が出しづらくなり、互いに牽制し合うだろうしな」
優しく穏やかな声と瞳。ユズリハの大好きなアクアの色。
この人と共に過ごせる時間をあれだけ夢見たのに、今はいつも、自分という厄介事を持ち込んだ申し訳なさが胸の中で燻っている。
共に過ごせる時間をただただ喜べたあの時代は、二度と戻ってこない。それは、互いに家族を喪った瞬間に決まっていたのだ。
それでも。
「あくまでお前が望めばの話だ。何にせよまだ少し時間がかかる。それでも、お前が望むならどうとでもなる。だから勝手にお前の未来を諦めるな。大体、お前から諦めの悪さを取ったら何が残るんだ」
「残るだろ!? もっとこう…………何かしらは!」
咄嗟には何も思いつかなかったけれど!
何も思いつかなかった己に絶望し、体を折り畳んで布団に突っ伏したユズリハを見て、アクアは笑い声を上げた。
「お前はそれでいいんだよ。やりたいことをやればいいし、やりたくないことはやらなくて済むように全力で逃げればいい。素直にやった方が早くて楽だろうにと何度思ったかしれないぞ、俺は」
「確かに、君からデータを奪うより、素直に問題解いたほうが楽だったし早かったとは思う。君さぁ、おかしいだろ。初等部の宿題守る防御壁じゃないだろ、あれ!」
ユズリハは、転校して初めてアクアの異常さを知った。アクアがユズリハの親友を防ぐために作っていた防御壁は、大学のシステムへ侵入するより余程固く難かったのである。
「お前にだけは言われたくない」
「そうかもしれないけどさぁ……」
なんとなく恨めしい気持ちと呆れた気持ちがせめぎ合い、最終的にはだんだんおかしくなってきた。
アクアといれば、大抵のことはなんとかなってしまうと思えてしまう。状況も、自身の気分も、世界中の不幸の何もかもが。
「……だから、お前が会いたいならいつか会えるさ」
「はは……派手に死んだシーンがネット中にばらまかれてるんだけど、大丈夫かなぁ」
お化けーって、怖がりそう。
そう言ってけらけら笑ったユズリハに対し、アクアは呟くように笑った。
「お前が選んだ友人なら、お前の無事を心から喜ぶよ。きっとな」
「…………そうかも、ね」
そうだったら、いいな。
未来を楽しみに思えるのは、いつぶりだろう。随分昔のようでもあったし、やはり今が夢のようでもある。夢に見ることすら諦めた今を素直に喜べず、居心地が悪い思いでそわそわとしてしまう自分が、ユズリハは情けなかった。
「俺も紹介してくれ」
「え? いいの?」
「ああ」
「あいつら、君のことを美少女だと思ってるよ!?」
「何が何でもそこを訂正する必要があるんだよ!」
それは、そうかもしれない。
突然大声を上げたアクアに、ユズリハはいつかの未来、自分の友人達と一番の親友が出会う場面を思い浮かべる。
顔がよくて頭がよくて料理が上手で優しく笑うユズリハの大好きな幼馴染みに
夢見ている友人達は、きっと目を丸くして、皆声を揃えて「男じゃねぇか!」と叫ぶのだ。
そんな未来を想像すれば、思わず噴き出してしまった。
「あいつら、君を見て腰を抜かしちゃうかも。でも、本当に気のいい愉快な奴らなんだ。きっと君も気に入るよ」
何だか愉快になってきた。
いつか、本当にそんな日が来るのかもしれない。
ユズリハの親友と、悪友達が一緒になって笑い合う。そんな日が、いつか。
「……随分、仲がよかったんだな」
「まあね。けど、いざあいつらに会ったとき、君照れるなよ?」
「どういう意味だ?」
ユズリハは、いつか壊れるかもしれない幸せに怖じる心を愉快さで押し潰し、けらけらと笑う。
想像した未来が思った以上に愉快で、楽しみになってしまった。
「だって私さ、君のことを世界一だって言いまくってたんだもん。それはもう褒めて褒めて褒めちぎって、宇宙一大好きだって宣言してたんだ。それを耳がタコになるくらい聞いてた奴らに会うんだから、覚悟しといてくれよ。私は本当に、昔からずーっと君が好きだったんだから!」
この先何があるかなど誰にも分からない。
ユズリハとアクアのまたねが二度と来なかったように、世界はいつだって簡単に裏返る。
けれど裏返ったその先に、再び明日が来るかもしれないと思えたら、怖じて竦む足も前に進めるかもしれない。
首筋を真っ赤に染めて俯くアクアを見ながら、ユズリハは声を上げて笑った。