栞
冬になると、店の奥まで陽が届かなくなる。
私は四十年、この本屋をやってきた。父から継いで、妻と二人で切り盛りして、妻が逝ってからは一人で営んでいた。客は年々減っていたが、それでも閉めなかった。閉める理由が見つからなかっただけなのか、未練がましい気持ちがあったのか、今となってはよくわからない。
あの子が来たのは、そういう冬の午後だった。
気づいたら、棚の奥に静かに立っていた。
銀色の長い髪が、埃っぽい光の中で妙に白く、輝いて見えた。黒い耳に太い尻尾。背中に翼、天使の輪と思われる頭上の輪。
驚かなかった自分に、後から驚いた。
「迷い込んだのかい?」
あの子は首を傾けた。返事は無かったが、敵意も悪意も感じられず、逃げることもなかった。
それからあの子は毎日来た。決まって午後の三時ごろ、棚の奥の椅子に座って、本を眺めた。読んでいるのか、ただ見ているのかは分からない。
「……どうせ客もいない」
私は一冊の本を手にして、あの子を手招きした。
あの子がきょとんとした顔で近くの椅子に座る。一息おいてから、声に出して本を読み聞かせた。
妻が生きていたころ、よくそうしていた。妻が店番をして、私が気に入った一節を読んで、妻が笑う。そういう時間があった。
読む相手がいなくなってからは、そんな事はすっかり忘れていた。いや、思い出すまいとしていた。
あの子は目を閉じて、耳を動かしながら静かに聞いていた。意味が分かっているのか、ただ音を聞いているのか、それも分からなかった。それで構わなかった。
読み終えて本を閉じると、あの子は静かに目を開けた。変わらずぼんやりした顔だが、私は続けた。
「これは妻が好きな本でな」
あの子の耳がぴんと立つ。
「もういないんだが」
尻尾がゆっくり、一度だけ揺れる。表情に反して、耳や尻尾は直情的なのかもしれない。
次の日、あの子が棚から一冊抜き取って、私に差し出した。
妻に、最後に読み聞かせていた本だった。栞が挟まったまま、九十ページで止まっている。
妻が亡くなってから、私はその続きを読めなくなっていた。
あの子は本を差し出したまま、じっと待っていた。虹色の瞳を向けて。
私は受け取って、栞のあるページを開いた。声に出して読んだ。時々声を震わせながら、最後まで読んだ。
あの子は目を閉じて聞いていた。耳だけがときどき動いた。あくまで無表情だが、聞き入っているようにも感じられた。
読み終わったとき、店の中が少し明るくなった気がした。もちろん気のせいだと思う。でも、確かにそう感じた。
一度目を閉じ、ゆっくりと開きながら、あの子に聞いた。
「……どうかな?」
そう声に出した時には、既にあの子の姿は無かった。
翌朝、いつもあの子が座る椅子に、一枚の羽根があった。
その日から、あの子が来ることは二度と無かった。
私は羽根を本の間に挟んだ。栞の代わりだ。
その日、久しぶりに店の奥まで掃除をした。埃を払って、日の届かない棚まで本を並べ直した。
妻が好きだった棚から始めた。
特に理由はなかった。
ただ、そうしたかった。




