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漫画なんかだと引きこもりの漫画家や作家は年中ジャージ姿であるような描写をされることが多いけれど、実際の引きこもりはたぶん違う。大半は家にあるTシャツやスウェットなど、上下の組み合わせを考えず緩い恰好を選ぶと思う。休みの日だったら一日中パジャマで過ごすこともある。ジャージなんか体育の授業以外で着ないため、私用で買ったことはない。なかった。
Sky′sに、加入するまでは。クローゼットを開けると、ハンガーに掛けられた青に白のラインが入った上下セットのジャージを見てため息を吐く。夏用と冬用があったので両方購入したのだが、全く着る気が起きない。普段お洒落に興味はないが、新しい服を買うと着る際に少しはテンションが上がるもの。それなのに、ジャージに関しては心の花が枯れはて、地面はヒビ割れている。不承不承、ジャージを着用。髪はポニーテールに結び、財布とスマホをポケットに突っ込む。
時刻は朝六時ぴったり。こんなに早く起きた自分を褒め称えながら玄関へ向かう。扉を開け、刺すような日差しに目を細めた。もう夏本番なのだから当然だけど、暑い。朝の気温じゃない。マンションの外廊下でこれなのだ。エントランスを出ると更に地獄なのだろう。げんなりしながらエレベーターで一階まで降りる。地獄へ足を踏み入れると、むわっとした香りが全身に纏わりついてきた。戻りたい。一刻も早く、冷房が効いた自室へ戻りたい。
大きいため息を吐いて、足を動かす。李珠曰く、「早く走ろうとしないで、ゆっくりで良いから同じペースで走るのが大切なんだよ」ということらしい。だったらウォーキングでも良いだろうと文句を垂れたのだが、それでは意味がないのだとか。
えっほ、えっほ、アニメの引きこもりは解像度が低いって伝えなきゃ……って、古いなこのネタ。
えっほえっほと走りながら、景色に目をやる。この時間でも出歩いている人はまあまあいて、犬の散歩をしている人や通勤途中のサラリーマンとすれ違う。皆、当たり前だけど歩いている。ふと、私の走っている姿は変ではないかと心配になる。すれ違う老人が私をチラ見してくる。なんだか恥ずかしくなって、下を向く。
人通りの少ない路地を選び、走る。そういえば、四キロってどのくらい? あ、二キロでも良いんだっけ。迷った末、二十分程度走れば充分だろうと結論付ける。足を止め、スマホでタイマーを設定してから再び足を動かす。
酸素が薄い。頭が回らなくなってきた。これを気持ちが良いと感じる人種がいるなんてとんだ変態……同じ人間とは思えない。ドMなんじゃないの?
まだ二十分経たないのかと足を止めてスマホを見る。十五分経っており、まぁ帰る頃には五分経っているだろうということで、私は足を自宅の方角に向けた。
どうしてだろう。私と目が合った人の大半が、ゾンビにでも会ったような顔をして避けるように逃げていく。おかげでいつもは混んでいる廊下が通りやすくなっておりありがたいのだが、それにしたって失礼だろう。確かに目つきは悪いと言われることが多いけれど、睨んでいるわけじゃないんだから。
「あっ、おはよーみな……うわっ」
教室のドアを開けると、沙希の机付近で固まっていた李珠、瑠琉、玲奈が、私を見て変な顔をした。声をかけてきた李珠に至っては、何故かドン引きという表現が相応しい顔をしている。
「ちょっと、人の顔を見て何よその反応は。失礼だとは思わないの?」
「いやだって……美波、もしかして寝てないの?」
「は? 寝たわよ。ランニングのためにいつもより早い時間に寝たんだから」
「え、じゃあ何その顔」
李珠から、いつもの茶化すような空気が感じられない。まさか本当に変な顔をしているのかと思い、スマホで自分の顔を確認する。が、特に変な顔はしていない。
「何よ、何がおかしいわけ?」
「スマホの画面暗いまま見てもしょうがないでしょうが。ほら」
李珠から手鏡を受け取り、改めて自分の顔を確認する。
そこには酷くやつれた、真っ白な私の顔があった。睡眠はとっているのでクマができているなんてことはないが、目は死んでいる。光が宿ってない。
「あら本当……どうしたのかしら。体調はいつも通りなのだけれど」
「走ったからじゃない? 無理しちゃったとか」
心配そうに沙希が問うてくる。確かにいきなりランニングをしたから、自分が思っていた以上に身体が悲鳴を上げているのかもしれない。
「そうね。きっと無理しすぎたんだと思うわ。だから明日はランニング、お休みしてみるわね」
「ちょいちょいちょいちょい、毎日走って慣れないと意味ないでしょうが」
「李珠、あなたは無理をしている友人に向かってまだ無理をしろと言うの? 鬼畜ね」
「無理しろとは言わないよ。でもせめて、今日は無理しちゃったから明日からは走る量減らしてみようとかさぁ……。てか、今日何キロ走ったの? 四キロ?」
「解らないわ。どのくらいが四キロなのか解らなかったから、取り敢えず二十分ほど走ったの」
「あー、まぁペースにもよるけど、美波だとだいたい三キロくらいになる、のかな?」
李珠が「合ってる?」と問うと、沙希がこくりと頷く。ふむ、どうやら私は二キロ走れば充分というところを三キロは走っていたらしい。どうりで身体がへばっているわけだ。
「じゃあ明日からは二キロ、十五分ほど走ることにするわ」
「ま、それなら良いけどさ」
取り敢えず鉄分摂っときな、と李珠がグミをくれた。どこから出したのかと思えば、沙希が持っていた。一日二粒で鉄分が摂れるらしい。口に放り込むと、何故か葡萄の香りがした。紫色だからだろうか。
「私は三キロで限界だったみたいだけれど、瑠琉と玲奈はどうだったのかしら? さっきから私達疲れてません余裕ですみたいな顔をしているけれど、あなた達も三キロだったんじゃない?」
グミを食べ終えてからそう槍を投げると、瑠琉と玲奈は気まずそうに口を開く。
「私は四キロ……です」
「私も、何とか四キロ」
なんだろう、この疎外感は。訊いておいてなんだが、酷く不愉快だ。
「私は、李珠さんと一緒に走ってたんです。走り方とかペースとかよく解らなかったから、教えてもらって」
「私も、途中で沙希と会って一緒に走ってたんだ。最初は三キロくらいの予定だったんだけど、いつの間にか四キロになってて」
瑠琉は李珠と同じく高校に徒歩で通学しているから住んでいる地域も近く、玲奈と沙希は同じ中学出身ということで同じ市に住んでいる。四対一、否、正確に言うと二対二対一、か。また少し、不愉快を覚える。
「ふん。一緒に走ったから何だって言うのよ。一人だろうが二人だろうが、四キロ走れたのなら瑠琉も玲奈も、最初から四キロ走るだけの体力はあったってことじゃない。結局、この中だと私が一番ポンコツだった、ということになるのね」
「そうでしょうか。私きっと、一人だと二キロで良いやって諦めてたと思うんです。ですが、李珠さんと一緒だったから、李珠さんについていこうって思ったから、気持ちがエネルギーに変わったと言いますか……」
頬を掻きながら瑠琉は言う。玲奈も「私も沙希がいたから」と同意を示し、和気あいあいとした雰囲気に包まれる。不愉快だ。
「ま、何キロ走ったかはともかく、初日は皆ちゃんとランニングできたってことで、課題は合格だね。この調子で、明日からも続けるよ! 継続が大事なんだから」
私をフォローするように李珠が言う。顔を顰める私に李珠が再度、「明日も頑張ろうね?」と継続の意思を問うてくる。「解ってるわよ」と返すしかなく、私は顰め面でグミをもう一粒口の中に放り込んだ。




