四十四 貴族の子、逃げ出す
かつてエイブが、俺に最初に見せた魔法。海水を風で自在に操り、まるで生き物のように動かしてみせた。その生き物には、ちゃんとモデルがいたのだ。
──────ドラゴン。
この世界にはドラゴンがいたのだ。剣と魔法の世界だ。心のどこかで、そういう空想上の生き物の存在に期待していた自分がいたかもしれない。
だが、今はどうだ。その空想上の存在を目の当たりにした今は?
恐怖。畏怖。戦慄。端的に言えば、絶望。
見た瞬間に、きっと誰もが思うだろう。ああ、この存在には勝てないな、と。
俺は震える手をエイブの肩に置いた。けれど、彼は気付いていないのか、こちらを振り向こうとはしなかった。
「・・・・・・エイブ。雷だ」
友人は反応を示さなかった。
「エイブ! 雷だ!」
耳元で叫んでようやく、エイブはこちらに反応を示した。
「な、なにを言って」
「ヤツの翼を雷で貫け! 地面に落とした方が圧倒的に有利だ!」
エイブは俺の言葉を全く理解できていない顔をしていた。
「ラック。君は今正気じゃない」
「エイブ。俺は今頭がおかしい。でもわかるんだ。あいつは殺さなくちゃいけない」
あくまでも直感だ。前世の知識が導いたメタ的な話だ。勿論それは物語の中のことだ。でも、もし人為が働いているとしたら、それは物語と何ら変わらないだろう。
一つ目の作戦が失敗した時の、保険としての二つ目の作戦。それは普通、一つ目の作戦よりも成功率が低いものだろう。だが今回の作戦、一つ目があまりにもお粗末だ。例え妨害してくる可能性のある敵を予め排除しておき、実行犯に全ての罪を擦り付けたいからといって、何故一人でやらせたのだろうか。
その問いに対する可能性としては三つ。一つ目は、実行犯が一人でなければならない理由があった。二つ目は、実行犯が本当は一人ではなかった。三つ目は、保険である作戦が確実に成功する目算があるから、だろう。
突如現れたドラゴンの存在は、三つ目の可能性を示唆しているとしか思えない。
「あのドラゴンは偶然この花畑の上空を通っているだけだ。触らぬ神に祟りなし。君もわかるだろう。あれは関わっちゃいけない存在だ」
「じゃあ答えろ。お前の索敵魔法でどれだけの人が、獣が見つかったというんだ」
エイブは口を堅く結んだまま、何も答えなかった。
「・・・・・・君は、悪党どもがあのドラゴンを遣わしたとでもいうのか」
「────────そうだ。確証はない。でも確信はある。ドラゴンが花畑を燃やせば、それはただの自然災害だ。人為を疑われはしないだろう」
「当たり前だろう。君は神が人間の意思でどうにかなると本当に思っているのか?」
「あれは神じゃない。生き物だ」
「人知の及ばない化物は、みんな神だろう」
「エイブ!」
瞬間、周囲がぱっと明るくなった。突然夜が明けたように、世界が光で照らされた。
俺は上を見た。そこには太陽があった。ドラゴンの口の中で、煌々と輝いている太陽が。
咄嗟にエイブを抱え、俺は全力で森の方へと駆けだした。それとほぼ同じタイミングで、空から炎が滝の様にこぼれてきた。火炎が次々と花々を焼き、熱波が俺達を吹き飛ばした。
俺とエイブは丁度花畑と森の境辺りまで吹き飛ばされた。俺はすぐさま体を起こし、エイブの様子を確認する。幸いどこも怪我をしていないようだ。
そして、赤く染まった世界を見る。炎の壁が天高くそびえ立っていた。ドラゴンはその火の中心に、まるで熱を感じていないかの如く悠々と降り立った。
あっという間に燃えていく白い花を見て、俺は慌てて手近な花をむしってポケットの中に入れた。守らねば、と思った。白い花は、俺の思い出だったから。初恋の思い出だったから。
一つの花に火が点く度に、一つの思い出が消えていくような気がした。しかし火の勢いはとどまる所を知らず、あっという間に俺の手元の花にまで燃え出し、俺は止むを得ずエイブを引っ張って森の中に後退した。
今となっては、ドラゴンが悪党たちの策略なのかそうでないのかは、どうでもよくなってしまった。彼らの狙いである、イタロス家の財源の焼却。その目的は物の見事に達成されてしまったのだから。
「いや、これで結婚が無くなるんだから、良かったじゃないか、ラック」
自分で自分に呟いた。しかし、その言葉は何の意味も持たなかった。
すると、ドラゴンの顔がこちらを向いた。向いた? 再び口の中が光輝いた。
直ぐにエイブの許へと駆け寄る。彼の顔に、ドラゴンに抗おうとする意志は無かった。俺は友人を抱えて走り出した。
その時、ドラゴンの首が俺達を追いかけるように動き出した。
俺達を狙っているのか!?
ドラゴンは炎を吐いた。俺の後方を焼き尽くした火の柱は、ドラゴンの首の動きに合わせて次々に森に火を放った。
辛うじて火に触れることは無かったが、ドラゴンを囲む炎の円の半径が一回り大きくなる結果になった。
森は燃えにくい。そんな前世の知識があった。木は意外にも多くの水分を含んでいるし、森は湿気が多いからだ。
だが今はどうだ。少しずつ火が森を侵食していく。火力が桁違いなのだ。ちくしょう。あんなやつどうにかなるのかよ。俺にはどうにもなんねえ。頼みの綱のエイブも戦意を喪失している。
俺は逃げた。
まず別荘に向かい、老爺とメイドに急いでこの場所を離れるように伝えた。ドラゴンが現れたことを伝えた。腰を抜かして立てなくなった老爺をメイドが肩に背負い、俺達は別荘を後にした。
そして歩いた。ひたすら歩いた。町の方へ。マリアの故郷の方へと。
メイドの体力が限界に近づいたところで、俺達は小休止した。四人で座り、森が赤く光り輝く様を俺とメイドは眺めた。
「ドラゴンは、どうにもなりませんよ」
メイドがそう呟いた。俺とエイブを励ましてくれているのかもしれない。
「彼らは気紛れです。国を一つ滅ぼしたこともあれば、地平を埋め尽くす魔物の群れを一瞬で焼き払ったこともあります。彼らは、私達の敵になったり味方になったりしますが、共通することは、現れたら必ず何かを滅ぼすということです。今回は、たまたまあの屋敷だったんですよ」
そんな不条理な存在を、果たして人間がどうこうできるのだろうか。あのドラゴンは、悪党達の手先だったのか。
考えても意味の無いことを、今は考え続けるしかなかった。そうじゃないと、自分の思い出が灰と化した悲しみが、息を止めてやろうと胸の奥からせり上がって来るような気がしたから。




