百八十八 旅人、空想の生き物を思い出す
「今は彼が貸してくれた別荘に泊まっているんだ。部屋はいっぱい余っているから、頼めばラックの部屋も用意してくれると思うよ」
「さっき事情を話しただろ。貴族ならなおさら関わりたくないんだ」
「そっか・・・・・・。じゃあ、折角だし、一緒にギルドの依頼を受けないか?」
「それは構わないけど、食客として呼ばれてるんだろ? 別荘から離れていても大丈夫なのか?」
「ああ。明後日開かれるパーティーに参加してくれば、後は基本的に自由にしていて構わないそうだよ」
「そっかじゃあ早速」
その時、つんつんと何かが肩を突いた。ふと横を向くと、ヴェニアが苦笑いを浮かべていた。
「お腹いっぱいになったみたいで」
彼女の膝の上で、ハルが気持ちよさそうに寝息を立てていた。
その日は一旦お開きということになり、明日の朝ギルド前に集まるということで俺とエイブは別れた。
宿に行き、ハルをベッドに寝かせる。あまりにも無防備な寝顔だったので、俺はハルの頬を人差し指でぐりぐりとへこませた。弾力があり、押し返されてしまったが。
「ラックだけ、エイブさんと行っても良かったんですよ?」
ヴェニアが少し申し訳なさそうに言うが、俺は直ぐに答える。
「やだよ。君のそばから離れたくないし」
あまりにもヴェニアのみを案じて過ぎているという自覚はあるが、しかし救出直後とは違い、四六時中手を握ってヴェニアの行動を完全に束縛するといった状態から比べると、幾分かまもとになったことは間違いない。
「そうですか」
ヴェニアはベッドに座る俺の隣に腰掛けると、頭を俺の肩にかけ、体重を預けてくる。
「エイブさんとすごく親しくされてましたね」
「親友だしね。それに、故郷も一緒だから」
「どれくらい長く一緒に居るんですか?」
「生まれてすぐからだよ。あいつが成人して町を出て行くまで、ずっと一緒だった。特に仲良くなったのは、七歳からだったけど」
「・・・・・・羨ましい」
「・・・・・・え?」
「私、まだ貴方とそれほど長くいないから」
ヴェニアが、上目遣いに俺を見上げてくる。
「これから長くなっていくさ」
俺の手が、すっと彼女の頬に伸びていった。そっと触れ、その肌を優しく撫でる。
「ほんと?」
「ほんとう」
俺は彼女に口付けをした。
エイブと再会した時の興奮が、まだ心の底で燻ぶっていたのだろう。一度火が点いた気持ちを抑えることが出来ず、キスは一度では済まなかった。
やがて、ヴェニアが逃げるようにベッドに倒れ込む。彼女の唇を追いかけると、丁度ヴェニアに覆いかぶさるような形になった。
こいつは・・・・・・。
「──────来た!」
ばっと勢いよくベッドから飛び起きながらハルが叫んだ。俺は跳ねるようにヴェニアの上から飛びのき、早鐘を打つ心臓に静まるように繰り返し命令を出しながら何度も深呼吸を繰り返した。
「き、来たって何が?」
取り繕うようにハルに話しかける。
「火事の時のやつと似てる」
ふと、王都の夜が赤く照らし出された日のことを思い出す。煌々と燃えるエラダ伯爵邸の使用人寮。空に浮かぶ精霊。
反射的に飛び出しそうになるが、ヴェニアの身の安全を確保しなければ。
「ハル。雲を作って俺達を移動させてくれ」
「わかった」
ハルが作ったひつじ雲の上に乗り、俺とヴェニアとハルの三人は宿の窓から空へと飛び出した。俺は懐から取り出した黒縁眼鏡を掛けて周囲を隈なく見回した。しかし、特別光を放つ存在を見付けることは出来なかった。
「ハル。どこにいるかわかるか?」
「こっち」
そう言ってハルが指差したのは、空ではなく港の方であった。建物は少ないが物陰に潜んでいると思い隅々にまで目を配るが、なかなか見つけ出すことが出来なかった。
クソ、見付けることが出来ない。どうしたものかと頭を抱えていると、ぐいっと力強くヴェニアが俺の服の袖を引っ張った。
「あれ!」
あれ?
俺はヴェニアが指差す方向に顔を向けた。そして、言葉を失った。
巨大な黒い柱が、海の中から天高くそびえ立っていたからだ。やがて月がその柱を照らすと、月のクレーターを彷彿とさせる窪みがいくつもある、槍の様な足、そう、生き物の脚だろう、それが目の前にあった。
クラーケンという言葉を思い出す。
船を飲み込んでしまう程巨大なイカかタコの脚が、海上から伸びあがり、今まさに、港に向かって振り下ろされようとしていた。