百八十五 旅人、船に酔う
甲板の上で風を浴びながら、前世で乗った船の記憶を思い出していた。前世では乗り物酔いがひどく、車に乗れば窓を開けていつも風を浴びていたし、少し遠い距離を移動する時は可能な限り電車を使わず自転車に乗っていた。だから船に乗った時も、必ず甲板に出ていた。
波の音に、生き物の声。前世ではたまに、その快音を耳にしながら眠りに就いたことがあった。目を瞑って聞けば穏やかな気持ちになり、下手するとこのまま意識を手放してしまいそうでもあった。
しかし目を開ければ、船の下にある巨大な生物の体躯を否が応にも視界に差し込まれ、いつこの船が壊れてしまうのかという恐怖がじわりじわりと意識の底を這っていた。
探検と称して甲板の上をうろつくハルの後ろにヴェニアが付いて行っている。正直いざという時の為に常に彼女たちのそばにいてやりたいが、今は出来るだけ動かずに風を浴びていたい気分であったので、ハルに船の中へと入る時には俺に言うように言い聞かせて、俺は船の端の方にいることにした。
船の手摺に捕まり意識の半分をヴェニアとハルに割きつつ、ぼんやりと海と視界の半分に割り込むクジラを眺めていた。
「青い顔しているけど大丈夫」
クーニャが話しかけてきた。
「揺れが苦手でね。風を浴びていれば大丈夫なんだが」
「乗り物酔いっていうらしいわ。原因は思い込みらしいけど。グリス領に来るまで馬車に乗って来たときは何ともなかったんでしょ?」
「・・・・・・思い込み、ねえ。確かに馬車に乗っている間は酔いを感じなかったけど、馬車と船は違うだろ?」
「どっちも一緒だと思うけどなー」
そう言われたらそうかもしれないが、実際に体が気持ち悪さを感じているのだから仕方のないことのように思った。
クーニャは俺の顔をじっと見ると、憎まれっ子に意趣返しをするように俺が掛けていた眼鏡を軽く小突いた。
「何だよ」
「それ、やっぱり似合わないわ」
「こいつは有用なんだ。君も知っているだろ?」
「そう、ね」
軽く目を逸らした後、クーニャは躊躇いがちに視線を再び俺に向けた。
「貴方には、私の本当の姿が見えているのよね」
「変装魔法の使い手としてはこの眼鏡はまさに天敵だね」
「・・・・・・姿を変える魔法は確かに便利ね。でも、私はこの魔法を身に付けるしかなかったの」
その言葉は、どこか悲しみを帯びていた。
「貴方は醜くないの?」
彼女は俺の瞳を覗き込むように尋ねた。言葉の端に彼女の心の揺らぎが見えたような気がした。その問いは間違いなく、彼女の浅黒い肌に対して向けられていた。
「・・・・・・俺は、偶々君みたいに違う肌の人間がいるって知る機会があったんだ。だから、醜いとは思わないよ」
「・・・・・・じゃあ、きれい?」
「どうだろう。中の上くらいかな?」
「・・・・・・もっと情熱的な言葉で言ってくれたら、間違いなく口説き落とされていたのになー」
クーニャは全く心が込められていない言葉をスラスラと口にした。
「貴方、女の扱いが壊滅的になってないわ」
「いや、実は俺、人の美醜は全くわからないんだ。たいていの人の顔はどれも似たり寄ったりに見えて」
俺の美的感覚は前世を終えてから二回更新された。一度目はリンネ様と出会って。二度目はエルトリアと出会って。
例えるなら、外見の判定が三から十八まであって、十八が文字通り「神」の美しさであるようなTRPGの世界で、十八に出会った後に二十という文字通り規格外の美しさを誇る存在に出会ってしまった為に、正直十七以下の人間はほぼ差が無いように思えてしまうのだ。
「最低のいいわけね。一体どうやって結婚したのかしら?」
「俺も不思議なんだよ。どうしてだと思う?」
「知らなーい。自分で考えなさい」
そう言い残すと、クーニャは俺の許を離れていった。立ち去った彼女と入れ替わるようにハルが船の中も探検すると言い出し、俺は酔いと闘いながらハルの後に付いて行った。