百六十九 学生、逃走せず
俺はハルを抱えたまま森の中を何時間も駆けまわった。しかし、ヴェニアの姿を見かけることは無かった。当初彼女が待っていた場所に焼け焦げたような跡や土がえぐれているような個所は無く、戦闘が起きたかどうかは素人目には判断することが出来ない。
もしかしたら抵抗する間も無く誰かに襲われたか、もしくはどうしても移動しなければならない理由が出来たのか。前者なら最初にヴェニアと森の中に来た時と比べて、現在の待ち合わせ場所が少しも荒れていないという点が想定の確信を下げ、後者ならば彼女が見つからない理由がわからない。
両者の複合的状況、すなわちヴェニアが移動した後に誰かに襲われたという可能性が考えられるが、もしそうである場合俺に打つ手はない。
一体なぜヴェニアが居なくなったのか、という理由がどれであるにしても、俺は次にすべき行動を完全に見失っていた。
足が止まると思考も止まり、苛立ちと焦りがひたすらに積み重なっていった。
既に夜は深い。闇に乗じて逃げるのならば最適な頃合が、肝心の共に逃げる相手がいない。このまま夜が明ければどのみちヴェニアの脱走はバレるだろう。・・・・・・いや、俺の時のことを考えれば、それほど多ごとにはならないのか?
ともかく、早くヴェニアを見付けないと。もしも彼女が誰かに拉致されているなら、一秒でも早く俺はヴェニアを助け出したい。
その時、脳裏にちらちらとクーニャの顔が浮かぶ。だが、彼女がヴェニアの不在に対し一枚かんでいる補償はどこにもない。そもそも、例えケルンの発狂があらかじめ予測されていた行動であったとしても、その予測の中に果たしてヴェニアが彼を殺すという行いまで含まれていたのだろうか? いや、そもそも、クーニャがヴェニアを連れていく理由は何だ?
考えてもわからないし、彼女が国家のスパイであるとした場合、ヴェニアを連れていくことで生まれる国益が何なのか全くわからない。
恐らく、俺の無意識が手っ取り早くクーニャという存在を悪に仕立て上げることで心の安定を図ろうとしているに違いない。しかし、その激しい思い込みではヴェニアを助け出すことは出来ない。もっと頭を使え。
しかし、いくら考えても何も浮かばない。
俺は不安を紛らわすように、ハルを抱えたまま魔法学園中を飛び回りヴェニアを探した。だが、彼女を見つけ出すことは出来なかった。勿論、クーニャの姿も。
そこでふと、ヴェニアを発見することが出来る方法を思いつく。自分の能力だけで探し当てることに固執していた己を恥じ、俺はスルビヤの部屋を訪ねる。だが、彼は部屋の中にはいなかった。
理由はわからない。もしかしたら、セバスチャンの命令で魔法学園を離れているかもしれない。しかし、スルビヤの所在をセバスチャンに聞き出そうものなら、そこから俺がヴェニアを連れて逃げようとしていることがバレてしまうかもしれない。
詰まる所、完全な手詰まりとなってしまった。
翌朝。念の為ヴェニアの部屋に行ってみたが、当然彼女はいなかった。俺は不安と焦りと怒りがごちゃ混ぜになった内心を絶対に表に出さないように注意しながら、ハルを連れて学園長室を訪れた。
これは夏休みが明けてから日課となっている行動で、俺が学園長室に来ることに何ら不思議はない。学園長室にいたリンゴちゃんがハルを出迎える。
俺は出来るだけ平生を装ったまま、セバスチャンに話しかけた。
「そう言えば、スルビヤはどうしたんですか?」
「彼には現在、ある任務についてもらっています」
「そうですか」
そうだったのか。やはり。だから部屋にいなかったのか。
「それは、ケルンに関することですか?」
「改めて調査をお願いしました」
「何か、俺に手伝えることはありませんか?」
「他に、心配事があるのでは?」
俺の心臓がどくどくと早鐘を打った。ヴェニアを逃がそうとしたことが知られたのではないか? というか、ヴェニアが居なくなったのはセバスチャンのせい?
思考はとめどなく人を疑う方へと流れていく。
「友人は大切にしてください」
セバスチャンにそう言われて、俺の頭は数秒間真っ白になった。その後、ようやくアンドレの顔が浮かんできて、「あ、ああ、そうですね」という具合の間の悪い返事をすることしかできなかった。
「それでは、失礼しました」
俺は学園長室を後にした。
一度地下牢に向かい、ヴェニアがいないことを確認してから学生寮に戻り、アンドレの部屋へと向かった。
戸を叩くと、彼は平生の声で返事をした。扉を開けると彼は、恐らくリンネ様に対して、祈りを捧げていた。
「また、声が聞こえるようになったんだ」
最も信仰している者が死んで、アンドレがリンネ様を信じている人間の座へと返り咲いたのだろう。しかし、その顔に笑顔は無かった。
「彼、何だか、酔っ払ってる?って言うのかな、そんな気がしたよ。まるで自分が神様になったみたいな。自分の言った言葉を無条件で皆が信じてくれるのが、気持ち良かったんだろうね。僕も同じような感覚を抱いたからわかるよ。全能感ってやつ? でも、それは僕自身の力じゃないんだ。彼は、それに気付かなかったのかな。でも、どうして僕のことを「悪魔」だなんて呼んだんだろう。それだけがわからないんだ」
それは恐らく、アンドレのことを恐れたからだろう。自分のことを脅かす存在であり、純粋な美しい存在である。汚い人間からすれば、それほど恐ろしい人間は他にはいない。
だが、俺は自分の考えをアンドレに言うことはしなかった。
「錯乱してたんだろ? 口が滑って出たことをそのまま真実として語り続けたんじゃない? 自分を神様だと思ってるなら、嘘すらも本当になるだろうから。
そんなことより、なあ、朝食、一緒に食べないか?」
「・・・・・・うん」
アンドレは何かを噛み締めるように、少しだけはにかみながら頷いた。
その時、クーニャの言葉を思い出す。
“ 他人のことばかりなのね、貴方は“
ヴェニアが居なくなって気が気でないというのに、俺は何故アンドレの心配なんかしているんだろう。
どこかヴェニアのことをないがしろにしているような気がして、俺は自分のことが少しだけ嫌いになった。