百六十八 学生、逃走する
ヴェニアは道中の燃えるケルンに目もくれず俺の許に駆け寄って来て、心配そうに容体を確認した。
「目立った外傷はなさそうですが、動けますか?」
「・・・・・・あ、ああ、俺は大丈夫だ。それより」
「何となく、みんなが操られているように見えて。ケルン先輩がそう言う魔法を使えると以前聞いたことがあったので、もしかしたらと思ったんです」
「いや、ケルンは」
「もう、大丈夫ですから」
そう言って、ヴェニアは優しい笑みを浮かべた。
それから、セバスチャンをはじめとした教授陣がやって来た。ケルンの体を燃やす火が建物に広がる前に消化することが出来たらしく、被害は焦げた床と壊れた机と壁だけで、セバスチャン曰く直ぐに修理可能という話だった。
「いや、そういう問題じゃなくて。一体何が何やら」
俺は苛立ちを隠せないまま、学園長室でセバスチャンを問い詰めていた。
「証言によればケルンが説法中突如アンドレを悪魔と呼称、周囲の生徒が同調し彼に暴行を加えだしたようです。貴方の予想通り、ケルンの『命令』が原因かと」
「そうじゃなくて。何でそうなったのかとか、ケルンがどうなったかですよ!」
「理由は不明です。ケルンは死にました」
淡々と、セバスチャンは告げた。
「・・・・・・どうして、どうしてヴェニアは」
「目撃者もいました。地下牢行きは必定かと」
現在ヴェニアは、以前俺がパーティーの夜に放り込まれた牢屋の中に居る。
「いや、そうじゃなくて、どうしてヴェニアが、ケルンに、火魔法を使ったのかということで」
「貴方を助ける以外に理由がありますか?」
「でも、あれじゃあ、ケルンの死ぬことが確定じゃないですか! 他に方法が」
「冷静に考えましょう。彼女は貴方の命を優先したまでです。一旦部屋で休むことをお勧めします」
俺は何も言い返すことが出来ず、学園長室を後にした。
ふらふらと自分の部屋に向かい、俺のベッドの上で、ハルが気持ちよさそうに寝息を立てているのを確認すると、俺は自分の部屋には入らず、ヴェニアのいる地下牢へと向かった。
薄暗い階段を降りると、人が来たのが不思議そうな顔でヴェニアは顔を上げた。窓の無い地下空間はほとんど何も見えないが、俺は黒縁眼鏡を掛けているお陰で、ヴェニアの発する光を頼りにして、彼女の様子を見ることが出来た。
「ヴェニア」
「ルシウス? どうしました?」
「様子を見に来たんだよ。ここは寒いし明かりもないから、嫌になるだろ?」
「そう言えば、貴方も入ったんでしたね」
そう言って、ヴェニアは笑った。
「君が来たときは驚いたよ」
「学生寮の窓から偶然、急いでどこかへと向かうルシウスが見えましたから。それに、食堂の方から叫び声も聞こえていましたし」
「本当に助かったよ。ありがとう」
「・・・・・・いいえ。最期にお役に立てて良かったです」
「───────「サイゴ」って、何?」
もしかして、俺の聞き間違いか? それとも、俺の知らない言葉なのか?
「公爵家の長男を殺してしまったんですから、恐らく死刑だと思います」
いやいやいや。ちょっと待てよ。状況が急展開過ぎて付いていけないぞ。
「・・・・・・つまり、君はこれから殺されるってことか?」
「まあ、そういうことになりますね」
「逃げよう」
俺は迷いない牢屋の入り口を蹴り飛ばして鍵を破壊した。呆気にとられるヴェニアの手を引き、俺は地上へと続く階段を駆け上がる。
現在、俺の持つ移動手段は足だけだ。馬を購入しようにも足が付くし、ジブリールを呼び出そうにも笛の中の魔力は空だ。担いで逃げることはそれほど難しくないが、長距離の移動には適さない。
俺は地上へと出た後、ヴェニアを抱えて森の方へ移動し、一旦彼女を森の中に降ろした。
「ここで待っていてくれ。今ハルを連れてくるから。彼女は、移動にうってつけの魔法が使えるんだ」
「・・・・・・わかりました」
コクリと頷くヴェニアを見て、ふと安心したのか無意識に手が彼女の頬に触れていた。ヴェニアが俺の手に自身の手を添えて嬉しそうな顔をするので、状況が状況だというのに、俺は彼女に口付けをしていた。
その後急いで学生寮へと向かい、自分の部屋にいるハルを担いで移動した。起きるのを待つ時間がもったいなかったので、ヴェニアの許へと向かいながらハルを起こした。
「ハル! 起きろ。朝だぞ」
「・・・・・・これ、とても美味」
どんな寝言だよハルさん。しかし、以前の彼女なら食事を取る、という習慣も、ましてや睡眠を取る、という習慣もなかっただろうに。今では人間のように夜になったら眠り、時々美味しそうなものを見かけると、「あれが食べたい」と話すようになった。
「ハルさ~ん。もっとおいしいものがありますよ~」
「んんっ。本当に?」
ハルが薄く瞼を開いた。
「ああ、本当だ。でも、少し移動するからな」
「・・・・・・わかった」
まだ眠いのだろう。瞳が完全には開いていない。
俺はそんな彼女の様子を見て、思わずふっと笑ってしまった。早く逃げようという状況なのに、我ながら随分と余裕があるものだ。
俺が森の中へと戻ってくると、そこにヴェニアの姿は無かった。