百六十七 学生、混乱の最中に突入する
「詳しくはこちらに」
そう言って、クーニャは教授に紙きれを渡した。教師は一生懸命手紙を読み上げた後、ばっと顔を上げてクーニャを見る。
「それでは、ごきげんよう」
そう言って、彼女は教授の許を立ち去った。
俺は教授に渡した紙片を見るという選択肢を捨て、懐から黒縁眼鏡を取り出して掛けた後、慎重にクーニャの後を付けた。彼女が未だにこの国に滞在しているということは、どこかに拠点があることに他ならない。それを見付けるか、彼女が逃げる前に取り押さえる方が先決だと考えた為に、紙片の方は後回しにした。
「この辺りでいいですか?」
暫く歩いた後、そう言ってクーニャが振り返った。完全にぬかった。彼女は俺が後を付けていたことに気付いていたのだ。
俺は反射的に彼女に飛び掛かった。まだ魔法を使う気配が無く、今なら拘束できると考えたからだ。
そして、クーニャは一切抵抗することなく組み伏せられた。
俺は彼女の行動を疑問に思いながらも、油断することなく彼女に話しかける。
「何故まだこの国にいる?」
「貴方に会いに来たの」
まともに答える気は無いらしい。殴って気絶させるのが常套手段のように思うのだが、前世の価値観からか、女性に手を上げることは憚られた。
「・・・・・・君は、本当にシルフィア・スカンジナビアを殺したのか?」
クーニャは一瞬目を大きく開くと、ふっと息を吐きだすとともに細くし、そのまま愉快そうに笑いだした。一体何がおかしいのか俺にはちっともわからなかったが、これが俺を油断させる芝居なのではないかと疑い、警戒を緩めることだけはしなかった。
やがて笑い疲れたのか、クーニャは一旦息を整えてから、言葉を紡ぐ。
「彼女の言った通り。本当に、他人のことばかりなのね、貴方は」
「何を言っている?」
「私は、何も話せない。・・・・・・これで満足かしら?」
話せない。話さないのではなく話せない。ただ一言、嘘でもいいから「殺した」と言えばいい所で、それでもクーニャは「話せない」と言った。それは、「言ってはいけない」ことが存在しているという意味であり、現在公になっている「シルフィア・スカンジナビアは死んだ」という事実と何らかの食い違う事実が存在しているということだ。
それはもはや、彼女が生きていると言っているのと同じではないか?
「ねえ、ルシウス。貴方、ここにいていいのかしら?」
「それはどういう」
すると、遥か後方、食堂の方から大きな歓声が聞こえてきた。一瞬、アンドレの説法による歓喜の声かと思ったが、やがてそれが恐怖を孕んだ叫び声であることに気が付いた。
俺はすぐさまクーニャを睨みつける。彼女はにやりと微笑むだけだ。抵抗も、言及もしない。ただ、その口からは「助けに行かないの?」という声が漏れて聞こえてくるような気がした。
「・・・・・・教えろ。これは、運命とやらの通りなのか?」
「・・・・・・私は、何も話せない」
クソが!
俺はクーニャの許から離れると、全速力で食堂の方へと向かう。彼女に後ろから攻撃される気配はなく、俺は他国のスパイを逃がしてしまうという失態を少しだけ反省した。
嫌な予感があった。ナオミが、嘘をついているかもしれない、という予感だ。そもそも、この世界は本当に乙女ゲームの世界なのか? いや、その点に関してはユークレインが答えてくれたから、彼が実はナオミと裏で結託していなければ事実であろう。だが、それでも、今までナオミが俺に教えてくれた情報について、どこまでが本当で、どこまでが偽物なのか。俺には見当もつかない。
食堂に近付くと、中から何人もの生徒が飛び出してくる。その波に逆らうように中に飛び込むと、数人の生徒が誰か一人を囲んで集団で暴行を加えていた。
堪らず、俺はその人だまりに駆け寄り、暴行を加えている人間を払いのける。そこに痛々しく倒れていたのは、アンドレであった。
何が起こっているんだ?
「皆さん! この男は、悪魔を庇いました。そのような行為をする存在は、悪魔以外にいません! 彼にも退散してもらうのです!」
食堂中に声が響き渡る。その声の主は食堂の机の上に立ち、俺とアンドレを見下ろしていた。ケルン・ゲルマニア。彼の宣言の後、周囲にいた生徒たちが再び暴行を加えようと手や足を振りかぶってくる。
俺はアンドレを担いでその集団の輪を抜け、急いで食堂を離れようとする、が、既に食堂の出入り口は塞がれていた。
食堂の出入り口を塞いでいた生徒たちの風魔法を受けて、俺は大きく吹き飛ばされる。アンドレが下敷きにならないように庇うと、俺は背中から勢いよく食堂の机に叩きつけられた。机が割れ、幾分か衝撃を和らげてくれたが、それでも痛い事には変わりない。
「悪魔を殺せ! 悪魔を殺せ!」
「「「悪魔を殺せ! 悪魔を殺せ!」」」
ケルンの言葉を、数十人の生徒が復唱する。復唱していない生徒は、食堂から逃げ出すか、恐怖でその場に立ち尽くしている人間がほとんどであった。
何となく、俺は状況を把握した。
ケルンが以前口にしていた魔法『命令』。それは、文字通り人を操る魔法なのだろう。
「ケルン! 何でこんなことするんだ!」
俺は彼に向かって叫ぶが、俺の言葉を聞いたケルンは、けらけらと笑い出した。
「見よ! 悪魔が我々を欺こうとしている。殺せ! やつを殺せ!」
ケルンの号令と共に、黒縁眼鏡越しに次々と生徒が赤く光り出す。
ここで『業火』使おうって言うのか!?
はっと周囲を振り返る。逃げ遅れた生徒が数人。仮に避けたとしても、彼らに火球が直撃する恐れや、建物が倒壊する危険性がある。
俺はアンドレをその場に残し、火魔法を使おうとしている生徒の許に駆け寄り、拳や蹴りを使って片っ端から気絶させようとした。
だが、数人の生徒を床に転がしたところで、横から風魔法で吹き飛ばされる。
ちくしょう! 逃げ出すか? いや、逃げ切れるのか?
その一瞬の思考の最中、俺は立て続けに風魔法をくらい、壁に磔にされたようにその場から動くことが出来なくなった。
やばい!
「さあ、今だ! その悪魔を」
────────瞬間、ケルンが燃え上がった。
「ぎゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
頭が割れそうになるほど甲高い叫び声を上げながら彼はその場でのたうち回った。瞬間、ケルンの『命令』によって操られていたと思しき生徒たちははっとしたような表情になり、そばで転がる火だるまを見て、恐怖の声を上げて逃げ去った。
やがて、燃え盛るケルンの体は動かなくなり、パチパチと燃える火の向こう側に、安堵したような表情を浮かべるヴェニアが見えた。