百六十 学生、人の心を変えられず
「ケルンさんは、どうして今回、アンドレの話を聞こうと思ったんですか?」
俺は、率直にケルンに尋ねた。
「何でもいいから、縋りたい気分だったからだ」
「でも、今実際に、それには縋れない、という趣旨のことをおっしゃいましたよね?」
「・・・・・・好きに選んだって構わないだろう?」
「それはケルンさんの自由です。しかし、だとしたら、貴方が望むのは、弱い人間が弱いまま生きていくにはどうすればいいのか、その答えをくれるもの、ということになるのでしょうか?」
ケルンは目を丸くした。
「・・・・・・だとしたら、何だって言うんだ? 軽蔑するか? 強く生きろって。強くなれって。成長しろって。成りたい自分に成れって。今の自分を否定して、新しい自分になれって、そう言うのか?」
「いいえ。ただ、弱く生きるのにも、強さがいると思いまして」
「・・・・・・お前は、何を言っているんだ」
「弱く生き続けようにも、周囲から絶えず変わることも求められますよね。その変化に抗うには、やはり強さが必要なのではないかと」
「確かにな。・・・・・・だとしたら、弱く生き続けて苦しみから逃げ続けることも、強く生き続けて苦しみに抗い続けることも出来ず、絶えず周囲に、運命に翻弄されて生き続けて、変化を迫られても変われず、変わりたくてもそのままで、本当に弱い人間は、自分の意志を少しも実現できない人間は、どうやって生きればいいんだろうな」
本当に、どうやって生きればいいのだろう。
俺はケルンの質問に対する答えが、何も浮かんでこなかった。だというのに、どうでもいい言葉が、ポツリと浮かんでくる。
「・・・・・・ケルンさん。でも、運命の相手じゃなくても、誰かを好きになれますよ」
「・・・・・・何の話だ?」
「俺の話です」
「・・・・・・お前の?」
「はい。俺が運命を感じた相手は、姉だったんです」
「・・・・・・エルトリアか。確かに、彼女は美しい。・・・・・・だが、運命とは笑わせるなよ。どうせ、お前の片想いだろ。そんなのは運命でも何でもない」
ケルンは、自分がエルゼスに愛されていた、という確証があるのだろうか。無論、ケルンに対してその真偽を尋ねる勇気は俺には無かった。
「まだ、イタロス家の養子になる前に、俺はエルトリアと出会いました。その時に、一目惚れしてしまったんです。毎日のように会いに行って、彼女が望むので海を見せて、そしたら、突然謝られて、それっきり、養子になるまで会えませんでした」
「そんなふざけた妄想を語るなよ!」
ケルンが俺の胸倉をつかんだ。周囲の人々の視線か一斉に集まったので、ケルンは舌打ちをしながら手を離した。
「外に行きませんか?」
ついてこないかとも思っただ、ケルンは俺の後について共に食堂を離れた。
人が聞いていないであろう、森の近くまでやって来て、森の中に男女の組がいないことを確認してから、俺はケルンに話しかけた。
「先程の話が嘘だと思うのであれば、嘘を見抜く魔道具を使ってもらって構いませんよ」
無論、その魔道具では俺の嘘を見抜くことは出来ない。ただの、俺の覚悟の問題だ。
「そんなもの直ぐに用意できるわけないだろ! お前は一体何が言いたいんだ」
「運命の悪戯で、本当に欲しいものが手に入らなくても、自分の心を満たしてくれるものは見つかる、という話です」
「そんなものは代替品だろ」
ケルンは強く地面を蹴った。全身から怒りを発し、それを躊躇なく俺に向けてくる。
「貴方が望んだものは、何かで代替できるものなんですか?」
ケルンは俺の胸倉をつかみ、俺の顔に拳を叩きつけた。俺は容易に彼の腕を振りほどき避けることが出来たが、そうせずに拳をこの身に受けた。
正直、こんなことをする理由が、俺自身にもわからない。しかし、俺がケルンに対し、同情というよりも、自分の姿を重ねているということは、間違いない事実であり、俺が前に進もうと思えているように、ケルンもそう思えるのではないかと、心のどこかで彼に期待していた。
「すました顔しやがって! お前は良いよなあ。バルカンの令嬢がいるから。俺には彼女しか、エルゼスしかいなかったんだ!」
「貴方にも婚約者はいたでしょ」
「あいつは俺以外の男を好いていたんだ!」
「・・・・・・初めから?」
ケルンはピクリと動揺し、言葉に詰まった。
「初めから、シルフィアさんは、あなた以外の人間に好意を持っていたんですか?」
これはただのはったりだ。何の確証もない。
「少なくとも、俺に対して何とも思っていなかった」
「俺の姉のお腹には、今シモンの子供がいるんです」
「・・・・・・何の話をしている?」
「最初は何とも思っていなくても、共に過ごしている内にそれなりの愛情を抱くという話です」
「さっきから意味不明な話をするなよ! エルトリアが貴様を好いていると本気で思っているのか? お前みたいな何も持たない人間がくだらない妄想をするんじゃない!」
妄想、なのかもしれない。エルトリアは、俺に対して何の感情も抱いてないかもしれない。
「・・・・・・でも、好きなんですよ。この気持ちは妄想じゃない。貴方だってそうだろう。エルゼスさんは、貴方を何とも思っていないかもしれない。でも、貴方の気持ちは本物だ」
「うるさい。黙れよ! 黙れ。いい加減にしろよ。さっきからそうやって。お前が俺の何を知っているって言うんだ! 俺は公爵家の長男で、お前は平民。俺は人一倍優れた能力を持っていて、お前は魔法の実技が最低だ。真逆なんだよ! わかるはずがないんだ!」
「わかりませんよ。俺と貴方は違う。でも少しでも思い当たることが」
「ない! 黙れよ。うざいんだよ。少しそれっぽいことを言っていい気になるなよ。黙れ! 二度と口を開けるな!」
彼は指を強く俺に向けて差しながら言った。ここまでの拒絶を受けても、俺の中には彼への期待が残っていた。
「ケルンさん」
俺がそう呼び掛けた瞬間、彼の顔がぐにゃりと歪んだ。
「黙れ! 黙れって言ってるだろ! 俺の命令に逆らうな!」
「俺は、貴方が」
俺と似ていると思って。そう言おうとする前に、どさりとケルンは地に崩れ落ちた。何事かと彼の様子を窺っていると、ぼそぼそと小さな言葉が彼の口から洩れていた。
「・・・・・・嘘だ。俺の『命令』が効かないなんて。俺よりも魔力保有量が多いということなのか? 平民が? 嘘だ。嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ!」
叫びながら勢いよく立ち上がったケルンは、そのまま森の奥へと走って行った。俺は追いかけることが出来ず、ただただ彼の背中をぼうっと見詰めていた。
ケルンの背中が見えなくなり、茫然と、ふらついた足取りでその場を離れた。目的もなく彷徨う足は無意識に食堂へと向いていた。
食堂の中から歓声が聞こえた。ほとんどの学生が席から立ち上がり、アンドレへと向けて惜しみない拍手を送っていた。中には涙を流すものまでいた。
余程素晴らしい、真理とやらを説いて聞かせたのだろう。
言葉を交わしても、たった一人の人間の心すらも変えることが出来ない俺と、一方的に語り掛けるだけで、多くの人の気持ちを変えるアンドレ。
俺と彼との違いは一体何なのだろうと、俺はどうしようもなく考えてしまった。